システムの有無ではなく、運用されているシステムの違い

最近人前で話したり、大勢の人と話したりする機会があり、なぜだかその度に気がつくと

「僕」⇒「システム原理主義」

「相手」⇒「システム懐疑主義」

みたいな二軸対立構造で話が進んでいたりすることがあった。

そして先方は乱暴にまとめれば

「システムに縛られずに個の力や創造性を発揮している」

という立場だし、僕らは

「高度なシステムによる高い生産性の土台こそが創造性を生む」

という立場になっている。

ところが、実はどちらもそれなりの「成果」が出ているわけだ。

システムが必要だという僕らも、デメリットの方が多いと考える相手方。ものすごく俗っぽく例えれば、サッカーの監督として「トルシエ」がいいのか「ジーコ」がいいのかみたいな話に近い。

考え方に隔たりがあるのに、実はどちらも「成果」がしっかり出ている。もちろんその多寡の差はあるだろうが、それは正直どうでもいいことだ。

僕は一連の対話を通じて「成果」が出ているのにそこに「仕組み=システム」が存在しないなんて事があり得るのか?と考えるようになった。

本人達は「自分たちにはシステムなどない」とおっしゃるわけだが、現に「成果」を継続的に出し続けている。そこに本当に「仕組み=システム」の存在はないのか?それは測定し説明することが出来ていないだけで、異なるレイヤーにシステムが存在しているのではないか?

基本的にある組織が成果を生む場合、ざっくり言うと

「拡散」⇒「収斂」⇒「成果」

というプロセスを踏むはずで、このプロセス特に「収斂」のプロセスをどう安定的に機能させるかという仕組みが「システム」であると言える。

方程式っぽく書くと

拡散×収斂=成果

みたいな感じだ。

なので創造的な個人の存在(拡散)があり、なんらかの成果が出てることが確認できるとしたら式は以下のようになるわけで、たとえシステム(収斂)の存在が不可知であってもゼロ(存在していない)わけではないことだけはわかるはずだ。

(拡散>0)×収斂=(成果>0)

なので実は僕と相手方が話していたのは、システムの有無の話ではなく、異なるシステムを持っているという話だとすると、とても面白い話になってくるじゃないかと、そう思うに至った。

例えば前述の「トルシエ」と「ジーコ」の話。

一般に「トルシエ」はシステムを考案し、それを選手に教え込み、守らせることで成果を出そうとしたと捉えられている。

一方「ジーコ」はシステムより選手個人のフィジカルや創造性の発揮を重視したと捉えられている。

日本代表監督としての戦績は「トルシエ」の方が出せたのかもしれないが実は「ジーコ」が後の世代の選手に気付かせたことも多く、その後の日本サッカーの発展にも繋がってるとも聞く。成果は出ているのだ。

僕が思うのはこの両者はアプリケーションレイヤーのシステムにこだわってやったのか、OSレイヤーのシステムにこだわってやったのかの違いであって、システムの生むではないのではないかということ。

例えばブラジルでは国家レベルで長い歴史を通じたある「OS」が大半の国民にインストールされており、その前提に立つと「ジーコ」のアプリが最も機能するのだろう。だから彼は選手に異なる「OS」への入れ替えを求めた。

一方「トルシエ」はその決して恵まれてきたと言えない経歴から「OS」の入れ替えという抜本的な対応の確度が低いことを痛感してきたからこそ現状日本の選手達にインストールされている「OS」をそのままにアプリレベルのシステムに工夫をこらすことで成果を求めたわけだ。

2人の戦績を分けたのはシステムの有無や優劣ではなく成果を出すまでに待てる「時間」の長さの問題だ。極端な話をすれば、4年ではなく40年の時間が与えられたならOSの入れ替えを求めたジーコのやり方が良かったのかもしれない。これはわからない。

だいぶ横道にそれて、もはやここまで付いてきてくださってる読者の方はほとんどいらっしゃらないと思うが、つまりは成果がでている以上「システム」が存在していないなんてことはなく、むしろ「システム」であると認識しにくいレイヤに別の「システム」が存在しているはずで、どこまで普遍的、根源的な上層レベルのシステムにこだわって組織をつくれるかは、与えられているリソース(ヒトモノカネ情報時間)によって変わってくるだろうということだ。

なので僕らに出来ることはシステムの有無という二軸でお互いを認識することではなく、異なるシステムを持っているもののお互い「システム」を重要視しているという相互認識だし、自らのリソースを徹頭徹尾ありのままに見て、お互い最適なシステムを選択して行くことじゃないかと思ったり。





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