2023年度版FaceBook投稿抜書き

毎年年末に続けているFaceBook投稿一年分の抜書き。
長く続けていると思考の日記みたいなものなので、自分の思考の変化などを感じるようになってくる。
他人からはわからないかもしれないが、今年はこれを作成して一年の思考の軌跡をなぞることで、変化を感じた一年だった。

1月4日
リーダーシップの先にエルダーシップというものがあり得ることを知った。
今の僕はリーダーからエルダーに向かう道のりを歩んでるし、歩みたいんだな。

1月4日
僕がこれからの10年でやるべきことは、自分と同じ流派の経営者を探す、育てる等してプールすることだと思う。
僕らのような経営が属人的だと言われてしまう決定的な理由として、客観的に見て僕らのような流派の経営人材が集団として可視化されていない現状がある。
もしも青木でも、佐藤でも、鈴木でも、田中でもあの流派の人にやらせればこの系の会社はなんとかなるよなという状況をつくれれば属人的とは言われない。
そして経営人材の探索と育成は100名に満たない自社内で閉じていてもうまくいかない。中の人も外の人もフラットに関われる形を作る必要がある。
正直自分達の流派とかって言っておいて自分が一体どう経営しているかを言語化、体系化することは正直できていないし、なんとなくその方向に正解はない気がする。
言語化、体系化できたとして、そしてそれを他者に共有できたとしても、おそらく決定的に望まないものが生まれてしまう気がする。
どうやるのが良いのかなー

1月4日
僕の経営におけるケイパビリティの根幹にあるのは「アウェアネス」なのかもしれないなと。
そしてリーダーシップからエルダーシップへの深まりにおいても不可欠なものがアウェアネスなのかも。
アウェアネスは弱い方、乏しい方が獲得しやすい。
今まで当社のバリューで「センシティブ」と表現していたことは「アウェアネス」を獲得するために「繊細さ≒弱さ」を大事にしようということだったのかもしれない。

1月5日
リーダーが自身の近視眼的な心地よさ、楽しさを優先して、退屈、飽き、対立、停滞から自身の才覚を使って去り続け、リーダーシップ発揮の機会のみを追求した結果としてエルダーシップを身につけるための長く、憂鬱で、自己効力感を感じにくい時間を潜り抜ける経験をすることなく加齢していった。そのことによって起きたのがエルダーシップなき高年齢リーダーのダブつきであり、それが権威や権力を持つ高齢者を「老害」などと乱暴な言葉で揶揄する現状の前提を作ってるのかもしれない。
20代のうちに苦労してでも「リーダーシップ」を養う機会をとらえた方が良いというのは多くの人の合意が得られることだと思うのだけど40代のうちに退屈で憂鬱でも「エルダーシップ」を養う機会をとらえることが人生100年時代に「老害」にならず長く社会に貢献できる礎になるのかもしれないな。

1月15日
人生は有限で、後悔ないようにやりたいこと、やるべきことをできるだけ網羅的にやっとこうという派が主流な気がするんだけど、僕は死後にはフェーズが異なるがプロセスの継続があり、今生の生き方がそれに影響を与えるという世界観で生きることにしてるので、そもそも時間は無限、後悔は発生しないという前提になっているから、縁のあることだけをしたくて、なんでもやることじゃなくて縁に気づけるアウェアネスを磨くことに重きを置きたいタイプ。

1月15日
やりたくないけど、誰かがやるべきで、誰もやりたがらず自分しかやる人がおらず、自分がやってもうまくいくかない可能性がたかいし、うまく行っても自分には大したメリットがない、所謂「火中の栗を拾う」ようなことをするならいくら年齢を重ねたうえで大きな責任を担っていても老害の誹りは受けないんじゃないか。
一方でやりたくて、得意で、やれそうで、やったら褒められたり儲かったり気持ちよかったりしそうなポジションに長くいようとすると、そりゃみんなそこに行きたいから、そろそろ譲ってよという思いで老害だみたいな攻撃にさらされても仕方がないのかもね。
人生100年時代に、成功したリーダーは歳を取ったら潔く隠居するんじゃなくて、火中の栗を拾うエルダーにならんといかんのかも。
それを思うとJALの債権を引き受けた時の稲森さんはエルダー感あるなー

1月19日
一緒に働きたい人とそう思わない人でなにが違うかみたいな話をしていて社員の人が
「一生懸命10話したのに1も理解してくれたかあやしいみたいな人は難しい。ちゃんと聞こうとはしてくれてて、いわゆる傾聴はしようとしてるのに、受け取れてないと感じる。クラシコムの中でコミュニケーションしてるとそれが全くない。採用のカジュアル面談とかしてて悪い人じゃない人、スキルも経験値もあるのに、一緒に働くのむずかしいと感じるのはそういう人。青木さんは私が2喋ったら10受け取ってそこから自分が話し始めて聴いてくれてる時間少ないのに全然受け取られてないと感じない。でもとてもしっかり聞こうとしてくれてる人と話して寂しく感じることも多い」
という趣旨のことを話してくれてなるほどーとなった。
大事なのは「聞く力」の先にある「気づく力」なんだな。
昔編集者の若林さんが読む力がない人は書く力がないとおっしゃってたけど、それも気づく力なんだろうな。
見る力がないと絵は上手くならない。
聞く力がないとピアノは上手くならない。
みたいなものも全部同じことを言ってるんだな。
良い上司、良い先生は見る、聞く、感じる、触るを総動員して微細な差に気付いてその意味を理解してるから適切なに導ける。
同僚でも同じ。
気づけてしまえば成果を得るのはイージーなかだいなんだよな。

1月20
なんか気鋭の論者たちが50代に差し掛かったあたりから「本来の人間の在り方」からすると現代のデジタルでスピードや情報量が高まり人と人の物理的接点が減ったから今の社会は、その中で無自覚な人は問題だ!と主張することが多くなる気がしていて、確かにそうだよなーとも思うんだけど、その人たちが例に出す「本来の人間の在り方」に置いて健全だった世界ってせいぜい音楽をLPレコードというフィジカルなメディアで聴いてたとか、居酒屋でコンパしてたとか、本屋で本を選び、映画は映画館でみて、子供は公園で遊んでたみたいな、せいぜい三、四十年前の言ってる人たちの若い頃の暮らしのことを「本来の人間のあるべき暮らし」と言ってるようにしか聞こえない気がする。
でもその時点ですでに生物としての人間の本来の暮らしからは何万年もかけてとんでもなく変化している状況にあって巨視的に見れば現代と大差なく自然の摂理から距離のある暮らしになってたはず。
僕もそういう時代に生まれ育ったのでいろんなことを懐かしく思う気持ちは共感するけど、「本来の人間」の1番の特性はあらゆる環境に適応しそれなり喜びを見出し、そのための意味づけや文化を生み出していくことだと思っていて、この目の前のこと、必然としてこれから起こることを受け入れた先に起こることの大半を良いものだと受け止めるための意味を生み出し、文化としていくことに力を使いたいなと。
人間はソクラテスの頃から年長者が新しい様式を非難してきた。彼は新しく出てきたメディアであった文書で教えたり学んだりすることは堕落だと非難して、それまでの伝統的な教え方学び方であった対話での議論の価値を説いた。
いやわかる。確かに失われたものはたくさんある。
だけど文書で教えたり学んだりすることで得られるメリットが大きすぎて相対的に失われることの損失が小さすぎた。
今議論になってる新しい生活様式についてもおそらくリモートネイティブ、Tiktok世代がその先のweb3世代に対して昔はリアルな人の姿を見せたてたからまだ実感があったけど、最近はみんなアバターだしなんなら生活エリアがバーチャルワールドだから本来の人間性からかけ離れてると警鐘を鳴らすだろう。
その先ではグレートリセットが起きて多くのテクノロジーが失われ、かつて中世の人たちがローマ時代、ギリシャ時代のテクノロジーに憧れたように、本来の人間に近い暮らしをしながら再び本来の人間の在り方からかけ離れた暮らしができた過去を心底懐かしみ、憧れ、その時代のテクノロジーの一端を受け継いでる人を称揚するかもしれない。
大きな変化の流れは変えられないから、その変わらないものを、力ある年長者が、悪い悪いと言いすぎないようにしないと、流れが変わるだけでなく社会が今の流れを不幸なことと捉えるための文化や意味だけが氾濫しちゃってしんどいよなー

1月20日
ソース原理本読み始めたんだけど我々が主に中途かつポテンシャル採用しかしてないことは、当人にとってはリスクをとったイニシアチブの開始となる可能性が高く、社員の多くが各所でサプソースとしてソースを源とする大きなイニシアチブを支える構造がごく自然につくれてるのかもという仮説。

1月22日
ソース原理の本を半分くらい読んだが、なるほど自分は無自覚にではあるが完全にソース原理に則って正しくソースとして振る舞っていたのだなということを知った。
僕はリーダーとしてとか企業の経営者としては取るに足りないものだが、ソースとしてはなかなか見どころがあるぞ。

1月22日
もし仮にM&Aをするとしたら手に入れるべきものは事業や資産ではなく新たなソースなのだろうな弊社の場合は。
そして弊社が買った事業のソースの作るクリエイティブフィールドにおけるサブソースの役割を負いつつ、同時に僕がソースのクリエイティブフィールドの境界線を示して、その中でのサプソースであってもらうようにお願いすると。

1月22日
僕にとってはしっくり来ないが、成果が出るタイプの経営スタイルは、つまりはソースをロストしてる組織をそれを前提にクリエイティブフィールドのパワーを使ってではなく、エンジニアリング的なアプローチで経営しているものなんだな。
ソースが組織にコミットしてる組織の方がずっと少ないし、それを連綿と継承できてる組織となるともっと少なそう。ということはほとんどの組織ではまずソースを探して見つけること、それとつながり活かす経営スタイルに転換することをしなければならず、現時点ではソースを活かす経営スタイルは極端に限られた組織でしか行えないだろう。
だから世の中で出回ってる経営スタイルは当たり前だが前述したエンジニアリング的なものが多くなる。
僕が自分の会社以外をうまく経営できる自信がないのもソースを活かすやり方しか知らず、ソースをロストした会社を経営できるイメージがないからかもしれない。
少し前に僕らのような流派の経営人材をプールすることについて投稿したがそれはすなわちソースの活かし方を知るサプソースのリーダーか、ソース足り得るビジョンを持つものを探して連帯し、クリエイティブフィールドの入れ子構造を作ることを意味することがわかった。

1月22日
それなりにリスクのある転職での入社、社内でのジョブチェンジの伴う移動、産休と復帰のプロセスなど、本人自身の自由意志を活かしてリスクをとってイニシアチブを始めることでサプソース化しやすくなるイベントを上手に活かす方法が存在する仮説。

1月24日
すべては1人から始まる――ビッグアイデアに向かって人と組織が動き出す「ソース原理」の力
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まずは読み終わった。
幾つかのどえらい気づきをもらえて、さらに今後世界を見てそこから学ぶ際に有益なフレームワークと問をもらえた。
ただ3部のマネーワークの部分に関してはそれより前のソース原理の部分に比べると凡庸な感じがした。
それももう一度読み直した時には印象変わるのかもしれない。
いままでいわゆる新しい系の組織とかマネジメントのコンセプトにはほとんど懐疑的で実際全く共感できた試しはなく、僕のマネジメントの先生は塩野七生と田中芳樹と司馬遼太郎とエドマンド•バーグと若き日のドラッカーくらいなものだった。
しかしこのソース原理はフィジカルのレベルで納得感を感じれた数少ない理論だった。
ただ読んでて思ったというか絶望したのはソースはイニシアチブの生贄というか、満足いく引き継ぎなど実際には無理ゲーだなということがわかったこと。
力尽きるまでやって、後は野となれ山となれ、次の世代がどうにかするだろうというのが僕の感想。
ただ多くのソースがソースの価値を理解してなくて自己効力感が持ててないか、ソースの責任を理解しておらずただしくそれを果たしておらずクリエイティブフィールドの機能不全の原因になっているかのどちらかだと思うのでソース原理をしっかり理解して、せめて機能し、美しい生贄としてクリエイティブフィールドの肥やしになれたら良いなと思いました。
ただこの本ってソースになっでそれなりの規模のクリエイティブフィールドを生み出したか、全体ソースに次ぐサプソースになった経験がないとなんのこちっちゃって感じるんじゃないかなー

1月28日
昨年初夏ごろから急にジュエリーにハマり、知識もセンスもない状態からいろいろ迷子になりつつ買い物して来て、だいたいメゾン系のビンテージ、アンティーク、アンティークモチーフの新興ドメブランドあたりに落ち着きつつある。
どれも意外と高くなく、プレ値ついてないブランドものの古着買うような感じなのも失敗含めて楽しめるので嬉しい。
重ね付けとかのコーディネート考えるのも楽しいし、それでいて全然場所とらないのもありがたい。
僕にとってはフィギュア集めるとか、器集めるとかにも近い感覚。
それでいて身につけるというフィジカルな感覚、快感があるので僕みたいにあんまり知識とか蘊蓄に興味ない人でも楽しみやすい。
良い趣味ができたなー

1月29日
ネフリで「ハケンアニメ」を見た。
主人公を演じた吉岡里帆がめちゃくちゃ良かった。いままでいいと思ったこと一度もなかったけど本作はマジでハマり役だった。
映画は演出的な違和感を感じるところはあったけど、とんでもなくグッとくるシーンも。
最終話のラッシュを見にいく時に吉岡里帆演じる新人監督を先頭に製作陣が歩いていくシーンとか尊くて涙が出た。
僕は乏しきものがそれを痛感しながら勇敢に向かっていく姿に、周囲が巻き込まれていくようなシーンに崇高さを感じて魂が震える。

2月10日
最初からプロダクトに紐づくブランドを作るとブランド拡張はなかなか難しい。なぜならあくまでもプロダクトを識別するためのブランドとしての認知になるから。
一方で先にセレクトショップをつくるとは「ものを選択する基準をうる」つまり「境界線」をうることになり、そのブランドは「境界線」を識別するためのもの、つまりは「世界観」の記号として認知されやすい。
よって境界線内であればさまざまな取り組みが可能になる。
インフルエンサー発ブランドも基本的には後者になり得るためにデジタルネイティブブランドとしては拡張性と可変性が高いものが作れるかもしれない。
一方でプロダクトブランドはデジタルで世界観を表現し、その世界観を好む人と繋がり続けるための仕組みがもたらす効果を十分に享受しにくい可能性がある。
だからメディア、コンテンツ→セレクト物販→カテゴリ拡張ブランド拡張→オリジナル比率向上の順序で取り組むと環境のパワーを最大化できるという仮説。

2月17日
「Humankind 希望の歴史 上 人類が善き未来をつくるための18章 」上下読み終わりました。
海外翻訳物の話題の本的なのを読み切れたの久しぶりかも。
読みながらすごく葛藤しました。
書いてあるように思いたい気持ちと、これまでの自分の経験や世界観からそれはあまりに愚かで楽観的にすぎるのではという気持ちが交互に立ち上がる、そう意味で良い読書体験でしたが苦しくもありました。
ただエピローグの中の一節にあった以下の文章が全てだなと思いました。
「ときどきは騙されるという事実を受け入れた方がはるかに良い、と彼女は言う。何故ならそれは、他人を信じると言う人生の贅沢を味わうための、小さな代償だからだ。わたしたちのほとんどは、信じるべきでない人を信じたことがわかると、恥ずかしいと思う。しかしもしあなたがホッブス流のリアリストなら、人を信じたことを少し誇らしく思うべきだ。さらに言えば、もしあなたが一度も騙されたことがないのなら、基本的に人を信じる気持ちが足りないのではないかと自問すべきだろう。」
僕がこの本の主張を心地よく感じ、こうあって欲しいと望み、一定信じても良さそうな論理性を感じているなら信じたら良いのかもしれないし、それが真実であってもなくても、そんな自分であることは自分と世界をささやかにではあるけれどよくするんじゃないかな。

2月20日
人は誰しも範囲はそれぞれだが「権利」を望む。一人分以上のことを決めたり、成したりするなら他者の行く末に影響を与える決断を自分ができるための「権限」を必要とし、その「権限」を有効に活用し十分に長く大きな権限を保持し続けるためにはそれを使いこなすための「権能」が必要。「権限」と「権能」を持ち合わせて事を成せば、その実績を背景に「権威」が生まれ、それは「権限」を手放してもインフォーマルに他者を動かせる「権力」を発生させる。
一旦権威が発生するとそれは個人につくので、権能を十分に発揮できなくて役割を解いて権限を剥奪しても権力が個人から奪えない。これが権力が腐敗すると言われる流れなんだろうな。

2月21日
BTS,TXTに続きENHYPENも完全に顔と名前とキャラが一致し楽曲もほぼ頭に入ったことでどっぷり沼にハマってる。
HYBE所属ではないASTROもカバーしつつあり、韓国ボーイズグループ沼の奥深さと細かく見ていくと全部一緒に見えてるものがそれぞれに異なる魅力のあるものだとわかるようになってきて辛い。

3月8日
この間リーダーとして「これやりたい」「こういうことを実現したい」みたいなのが全然ないんだよなーって話してたら、
「いやでも青木さんああなりたくないとか、こういう感じではやりたくないとか、ここには行きたくないとか、やりたくないことはめちゃくちゃありますよね」
って言われて、確かにそういう角度で見ると鉄の意志と明確なビジョンがある気もするw
この「いやなこと」が無限にある自分が舵取りをすることになると「やりたい」と思えることがほとんどなく、針の穴を通すように見つけた「やってもいいか」と思えることだけをやってたら結果論今みたいになったのかもしれない。
なるほどだから自分が設定した「いやだ」に抵触してないかのディレクションはできるけど、「何をしたらいいか」のディレクションは苦手で、「何が嫌か」を伝えたらなんかしら自分でやりたいことを始めて、続けられる人との相性が良いんだな。

3月17日
AIの進化は金掘るよりデニム売った人が儲かるというよく言われるパターンを変えるきっかけにならないのかな。
howのケイパビリティが急速にAIに巻き取られる世の中があったと仮定すると、残るのはwhoとwhyの価値になる。
魅力的な動機とそれを携えた人やチームの魅力はこれまで同様社会から経営リソースを有利に集め、顧客を創造し絆を深める上でほぼそこしかない差別化ポイントではあり続けるだろう。
一方で知識の差、テクニカルなスキルの差はほぼ無くなる世界。
いよいよ人間そのもの、魂そのものしか売るものがなくなるという意味では過酷な世界なのかも。

3月18日
人間に最後に残るのがクリエイティブだと思われてたけど、最後に残るのがフィジカルな単純作業になるのかもしれない。
AIが生み出すクリエイティブがものすごい速度で人間が生み出したものを塗りつぶしていく世界が普通にぼくが仕事してる時代にやってくる可能性があるとは。
何かを知りたい、見たい、体験したいという意志や動機は人間にある、それは残るという考え方もあるがもはや今でさえレコメンドされたものをひたすら消費してる部分の割合も多いわけで、それさえごく一部の変わり者だけの持つものになることもあり得る。
10年後から今を見てみたいな。
今何が起きてるかは、今わかることはないので。

3月31日
人生は未来に向かって1時間に1時間分づつ進むタイムマシンに乗ってる感じ。
今ここで必死にジタバタしてるこの結果は生きてれば必ず見に行ける。
周りを見渡してハラハラしたりワクワクしてることも、結果的にどうなったのかを見に行ける。
AIや量子コンピュータの進化が社会にどんな影響を与えるか、米中の対立や、ロシアのウクライナ侵略みたいなことが世界をどう変えるのかみたいなことも多分自分の人生タイムマシンで未来に見に行ける範囲だと思う。
そう思うと今最善を尽くして、結果はタイムマシンでどうなるのかなーと見に行ってる感覚になる。

3月31日
僕ほどの心配性、不安症な人はいないんじゃないかと思うくらい日々いろんな心配や不安に身を焼かれてるんですが、心配なことを抱えきれずに定期的にその一覧をスマホのメモ帳とかに箇条書きにして吐き出してみるんです。
そうするとわかることが二つあって、
1)いっぺんに心配できることは10個以内
2)書き出したことを半年後に見返すと大体解決、解消、気にならなくなるのどれかになってるが、その時はその時心配なことが目一杯ある。
1については多分心配するための能力に限界があってそれ以上の数同時に心配するのは不可能なんだなということと、でも限界まではきっちり心配するので数が減ることもない。
2については心配とは不安の先取りなので、それが現実になると日常の課題となり苦労があるが心配事ではなくなることもあって半年ぐらいのスパンで心配事として身を焼く案件ではなくなる=解消される。
そしてほとんどのことは逃げなければそのくらいのスパンでは解決できてる。
だから過去の心配ごとは半年のスパンではほぼ全て内容が入れ替わる。
現場からの報告は以上です。

4月4日
ミラティブ社の社外取締役に就任しました。
リリースからコメント抜粋
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誤解を恐れずに書けばミラティブもクラシコムも「機能的」にはなくてもみんな生きてはいけるわけです。
しかしそれぞれ「わかりあう願いをつなごう」「フィットする暮らし、つくろう」というミッションを掲げて「情緒的」課題を解決するために存在しており、その観点からは「なくてはならない」と感じてくださっているユーザー、カスタマーが数多く存在し、引き続き成長しています。
多くの「機能的」課題がテクノロジーの力でますます解決されてもなお、私たちの中で一向に解消されない「孤独感」「不安感」「恐れ」「迷い」などの「情緒的」課題を、それぞれのアプローチで癒したり、解消したりするサービスや企業の存在はますます重要で、存在感を増していくと感じます。
そんな私自身が経営する会社とは異なるアプローチではあるものの、同じ「情緒的」課題解決に取り組んでいるミラティブ社の経営の一端に貢献させていただけるこの機会に深い意義を感じています。
一人の経営者としての学びの機会になると同時に、これまで約17年にわたってユーザーの情緒的課題に向き合い意思決定を重ねてきた経験をできる限り生かしてミラティブのステークホルダーの皆様に貢献したいという意欲を感じています。

4月4日
僕がセレモニーが苦手な理由がふとわかった。
「過去」に意識を持ってかれるのが無意識に負担で嫌なんだな。
元々将来の目標や計画を持つのも苦手で、それも「未来」に意識持ってかれるのが嫌ってことなんだと思う。
過去は忘れ、未来を予想しないで、今目の前にあることに100%集中していれば、価値ある資産は自然と積み上がるし、予想できないより良い未来が来ると信じたい派。

4月4日
50年生きてきたのに新卒入社の社員に自信を持ってアドバイスできることがなさすぎた。
でもリクエストしたいことはたくさんあるんだよ。
それが正しいか、あなたにとってプラスになるかは僕には判断できないけれど、僕と、あるいは僕らと働くならこうして欲しいというリクエスト。
アドバイスできるリーダーじゃなくてリクエストして、相手からもリクエストされて、それを擦り合わせて折り合いをつけていく系の大人として頑張っていきたい。

4月5日
自分を省みたり、一緒に働いている人を観察していると失敗、停滞、相対的に未熟であること、負けることなどに本当に弱い。
弱いから頑張ってそうならないようにしてる人と、他責にしたりより弱かったり不遇だったりする人にマウントしたりすることで自分の心を守ってる人が多いし、自分も基本的にはその人たちの一人だと思う。
結局頑張る人も、他責にしたりより弱いものを叩く人も失敗、停滞、未熟、敗北から逃げ続けているし、そうである限り逃げ続けなきゃいけなくなるという点でしんどさは変わらない。
僕が目指したいのは失敗、停滞、未熟、敗北を受け入れてそこにとどまれる人になることだ。
とどまれるだけでなく、とどまってなお「希望」し続けられる人、自分と他者と世界を信頼し続けられる人になること。
難しい、難しすぎる。。

4月7日
来週のカンブリア宮殿にクラシコムが取り上げられることになりました。
自分たちでも当日になるまでどんな番組になっているか分からずある意味非常に怖くはあるのですが、制作スタッフの方たちが街頭やSNSで僕らのお客様を探して取材してくださっているのでそれをみれるのがすごく楽しみです。

4月7日
https://open.spotify.com/episode/6VewSu7DiAyGtlgbNcuEnU...
仲良しの倉貫さん、仲山さんのザッソウラジオにソース原理本監訳者の山田さん出演という僕には最高の布陣の回を聞いてて、仲山さんが「分業がきっちり決まってる仕事にはチームワークはそもそも必要ない。チームワークはチームワークが必要な仕事がたくさんないと生まれないし育たない」的なことを言っててなるほどー!!!ってなった。
そこから派生して昨今のリモートワークGAFAMとかは今オフィス回帰を求めてるよ、うかうかリモート続けてたら危ないよ!っていう風潮の一方で、心配で社内でリモートでも大丈夫そう?っていくら聞いても大丈夫じゃない事例がどこからも出てこない弊社の何が違うのかといえば、おそらくジョブ型ではなくメンバーシップ型で、多能工化の度合いが高く、産休者が3年連続で社員の20%に達するので人のやりくりがハードモードでありつつ、一つサービスをさまざまな機能に分かれた他部署が調整しながら事業を進めていく。個別にKPIを持たされているわけではないが、より自分たちらしく、より良くしたいという思いは強く共有している。変化が激しく再現性が低く、あらゆるところでクリエイティビティが求められてる。みたいな仕事状況であるため部署内、部署間、階層間、ステークホルダー間で絶え間ないコミュニケーションとすりあわせが必要であることが、とてもめんどくさく、いろいろな苦労も多いが、その状況こそがチームワークの良さを育み、リモートワークだろうが何だろうが大量の率直なコミュニケーションを生んでるのかもしれない。
一方で事業が十分に成熟し、独占の度合いが高いから再現性が高く、ジョブ型でスペシャリストを重視した組織で、雇用の流動性が高くなっても問題ないサスティナビリティがあるGAFAMのような会社からリモートワークでは機能しないのはチームワークが必要とされない環境(それぐらい強い)があり、結果チームワーク弱いからなのかもしれず、GAFAMがリモートワーク止めるならそれがベストプラクティスだからうかうか続けてられないってのは別の話かもしれない。
自分達の仕事がどういう仕事で、どういう組織で、どういう文化があるか。結果チームワークがどのくらい必要で、鍛える機会がどのくらいあるかによってさまざまな答えがあるんだろうなと。

4月12日
コンテンツとかソフトウェアのような形のないものが商品の場合、あるカテゴリが生まれて立ち上がる最初の時期始はすごくコスパ良く、効率よく、自由度も高く始まるけれど、だからこそ参入も多くなり、お金も集まるから急速に高度化して、複雑化して気がついた重厚長大な勝負に変化していく。
一方で物理的な物が商品の場合、立ち上がりにおいては重たいし、一定以上に効率や利益率を上げるのは難しいが、だからこそ高度化、複雑化の度合いも限界があり、さらにだからこそそこまで多くの資本が集まらず、そもそもマーケットが重厚長大化しにくいから永久に市場の独占が起こらない。ユニクロがどんなに発展しても永久にいろんな服屋があるし、マクドナルドとサイゼリアがどんなに大きな企業になっても飲食店は無限の選択肢があるし、ニトリやダイソーがすごいとはいえ、家具や雑貨の店は無限の選択肢がある。
そう言う意味で生きやすいし、より多くの事業者にとって尊厳あるビジネスが長期にわたって続けられる特徴があるのかもしれないなと思いました。

4月23日
八丈島でヴィムホムメソッドのリトリート講座に参加して0.5度のアイスバスに3分入る体験をしました。
すごい。自分の体への信頼感と興味が増すとんでもない経験でした。
まだ整理つかないですが、いろいろぶっ飛びました。

4月29日
村上春樹の「街とその不確かな壁」
1週間くらいかけて読み終えた。
久しぶりに二十代の頃読んだ紛れもない村上春樹作品という感じがした。
僕は起業する以前には影を切り離して壁の中で暮らすことに憧憬を感じたり、あるいは切り離された影として丁寧なルーティンを守りながら喪失感を抱えて生きていくことをリアルに自分ごととして共感したりしてたと思うけど、起業して一番高い椰子の木のさらにその上に登らなきゃ行けなくなって、落下しても受け止めてもらえることを信じざるを得なくなったことで、気がつけば影を取り戻して元の世界に戻るようにして生きるようになりその時間の方が気がつけば長くなったのかもしれないなと思いました。
だからこそもはや消えちゃう女の子も、コーヒー店を営む女性も、壁の中の街も、図書館も、もはや強く惹かれるものかないのかもしれない。
とても良い読書体験だったけど今の僕には実家の六畳の自室のベットでありまる時間と集中力と自意識を持て余しながら彼の作品を貪るように読んでた二十代の僕に迫ったのと同じような切実さを持って迫ってくる事はなかった。

5月1日
IVEのあまりに良くできた生成系AIによるMVと実際のリアルな本人たちのMVを見比べてみようとIVEのMVをじっくりみてたら、なんか大好きになりつつある。。ボーイズグループ専門だったのだが、ガールズグループも良いかもw

5月1日
会社は誰のものかという問いが議論を呼ぶことがあるが、会社が誰の持ち物であったところで影響するのは権益の分配の加減についてだけだ。
だが会社の在り方に影響する重要な問いで、かつほぼ議論なくみんなが合意できる問いは「会社は誰のためにあるのか」という問いだ。
答えはシンプルで「ステークホルダーのためにある」じゃないだろか。
誰の所有物であってもステークホルダーのためにあるものであることで握れてれば、結果的に誰かが過度に割を食うことのない健やかな経営にならざる得ない気がする。
会社「誰のものか?」ではなく「誰のためにあるのか?」こそが重要な問いなんじゃなかろうか。
この件会社に限らず、国民国家にとって最善なのは資本主義か共産主義か、民主主義か権威主義かみたいな論争にも同じことが言えて、国家の主権者(所有者)は誰かみたいなことや、資産はだれのものかというかはあまり重要じゃない割にはみんなで合意できる答えに辿り着くのは難しいが、「国家は国民(ステークホルダー)のためにある」ということではほとんど全ての国民国家が合意できるはずで、国民の幅広い支持なしに国家が長期的に繁栄することはないことを考えると、どんな政体やイデオロギーの国であれ国民の長期的の福祉のために成すべきことを成せば良いだけであり、どちらが正しいかを争ったり競ったりする必要は一ミリもないかもしれないと思いました。

5月6日
なるほど保守主義と国家主義や権威主義を分けて考えてるから僕は保守主義者を自認できてるのか。
国家主義や権威主義が長い時の洗礼を受けてマジョリティのコンセンサスになっている社会がありそこに所属しているなら国家主義的、権威主義的な価値観に対してそれを肯定するし、その合意事項を大切にしながら漸進的に社会を良くしていこうと思うだろう。でも僕らの住んでる日本においてはむしろ伝統的価値とリベラリズムが渾然一体となった折衷社会で折衷の良い塩梅でマジョリティの合意形成ができてるから、単純な権威主義や国家主義に戻ろうとする事は保守の振る舞いではなくて方向の違う革新だ。一方で伝統的価値を全部否定してリベラル一辺倒になろうとするのも社会的合意ができてないから革新的にすぎる。この中途半端な折衷の合意形成の空気を読んで、それを肯定して、そこから漸進的に社会を改善し続けるのが現代日本の真の保守主義者の態度なんじゃないかなー

5月12日
AIカンブリア期に入ったことを前提に新しいweb3.0の定義考えてみた
web1.0サービス提供者がデータを収集して自分で整理
web2.0みんなでデータベースをつくる
web3.0AI時代になって整理されたデータベースは不要となり、データがどこかで公開されていれば良い

5月12日
メーカー1.0プロダクをつくってマーケティングする
メーカー2.0すべてはマーケティング
メーカー3.0すべてはプロダクトづくり

メーカー1.0 プロダクトをつくるのが仕事
メーカー2.0サービス(便益)を作るのが仕事
メーカー3.0 存在意義を作るのが仕事

5月24日
老子を読み、それが儒家全盛の時代にアンチテーゼとして書かれた部分が大きいことを知ると、老子荘子の流れを汲む道家が成さんとしたことを経営とかマネジメントでやりたいのが僕なんだなと思ったり。
今もある意味儒家的なマネジメントが全盛な気がするので、その中で細々と道家的なマネジメントを確立していきたいな。

道家的経営をオルタナティブじゃなくてオーソライズされた選択肢にはしたいよな。
医療に例えると、西洋医学では無いけれど、漢方、中医学とかはオーソライズされていて、たとえばその他の民間療法とかオルタナティブとははっきり異なるポジションになってる。
儒家的経営ではない道家的経営もそんな立ち位置になると、今まで経営に向いてると思えなかった人たちを経営に巻き込めるようになると思うんだよね。それはこれからの社会にとっては良いことだと思うんだよね。

5月25日
プロジェクトが大きくなって不確実性が高まったり、精度が落ちるのは、日々の不断の小さな変革、改善、改修が滞ってしまい負債が大きくなってから手をつけることが原因。
なので大きな決断、投資、計画が必要になっている時点でそれ以前に何某かの不足、不明、失敗、怠慢があった可能性がある。
そこに目をやらないと大きなプロジェクトも失敗してさらに窮地に陥る。
最高なのは日々正しく変化し、改善し、改修を続け、不確実で大きな判断が不要な状況を維持することだ。

6月2日
僕の勝手な解釈だが、
ソース原理がいうソースが繋がるビジョンは、老子が言うタオのことで、ソースがソースたるためにはタオを体現すること=徳があることが必須である。
クリエイティブフィールドが活力を生むためには徳のあるソース=リーダーが必要で、ソースの継承は同じくらいに徳のあるリーダーが後を引き継げれば成功するのではと言う仮説。
僕が思うにソースがアクセスしてるビジョンは個人的なものではなくて、世界の道理とか、人類共通知みたいなもので、老子で言えば道、仏教で言えば阿頼耶識、スピリチュアルっぽく言えばアカシックレコードみたいなものじゃないかと。

6月2日
徳とは東洋的に言えば道(≒世界の理的なもの)を体現していることを指し、
西洋的には慎慮、勇敢、節制、正義を体現してることです。

6月3日
超僕的な
徳、仁、義、礼の違い。
オフィスにゴミが落ちてたのを拾ってゴミ箱に捨てた人に「なんでゴミを拾ったの?」と聞いた時の回答の違いで表現してみる。
徳)
「えっ?拾ってた?なんでだろ?でもなんか気持ち悪いだろ」
仁)
「このオフィスに集う仲間が気分悪くなってほしくないから」
義)
「人間としてそうあるべきだろ。お前も拾えよ!」
礼)
「入社時のオリエンでそう教えられたので」

6月3日
「貴族とは何かーノブレス・オブリージュの光と影」君塚直隆
めちゃくちゃ面白い本を読んだ。
僕の中学生の頃の将来の夢は貴族だった話はいろんなところでしているが、別にお金持ちになりたかったからでも、社交界でチヤホヤされたかったからでもなく、徳を身につけた高貴なものになりたかったのだなーと思わされた。
貴族がどのような背景から特権的な立場を形成し、それを維持してきたのか、その源泉は何か。なぜ衰退したのか、また特に面白かったのがフランスをはじめとした欧州大陸の貴族の没落に対してイギリスの貴族がしぶとく生き残り、現代まで貴族院を残せているのがなぜかなど、すべては財産でも権力でも名誉でもない力の源泉が理解できた。
著者の後書きの一文も一緒に載せとく。郊外の団地っ子出身だが、精神的貴族を目指して行く!

6月16日
新たにアートの価値をも事業の価値に取り込む構想を持ちつつあるんだけど、アートそもののやエコシステムになんの土地勘も知見もないのだけど、結構筋の良いイメージを持ててる気がするので、知見ある人、エコシステムのインナーな人たちと壁打ちさせてほしいなー
今までアートは触ってきてないのだけれど、触り方がわかればアートの価値を内在化して自己拡張に繋げていくイメージが持てそうな気がしてる。

6月19日
「私」の根拠を開示する ブルデュー ディスタンクシオン 岸政彦
勧められてこれを読んだんだけど、面白かった。
一番印象的だったのは
「趣味(すなわち顕在化した選好)とは、避けることのできない一つの差異の実際上の肯定である。趣味が自分を正当化しなければならないときに、全くネガティヴなしかたで、つまり他の様々な趣味に対して拒否を突きつけるという形で自らを肯定するのは、偶然ではない。趣味に関しては、ほかのいかなる場合にも増して、あらゆる規定はすなわち否定である」
という部分。
趣味、もう少し今っぽい言い方をすればセンスというものが発揮されることの暴力性みたいなものを見事に言い当ててる。
クリエイティブの現場がとかくギスギスする理由もここにある。
ダサい、サムい、イタい、キモい。趣味の合わないものに直面すると人はかなり生理的な不快感を強く感じて拒否感を持つ。
これを実際に直接相手にぶつけなくてもそこはかとなく感じる拒絶感、不承認感は相手も感じる。
趣味の輪郭がはっきりしてればするほどうちと外がハッキリして敵と味方を生み出す。
僕らがこの輪郭をつくる上で一貫性を持たせながらも、中庸であろうとしてる(それでも一定線は発生しているが)し、クリエイティブを扱ってるにしてはマイルドであろうとしてきた理由もこの辺にありそうだ。
センスの表現による拒絶感発動は避けられないとはいえ、そのメカニズムには一定自覚的でないといけないのかもな。

6月20日
去年の今頃は自分の中で空前の「オーセンティック」ブームだった。「オーセンティックとは何か」「オーセンティックにたどり着くためには自分たちに何が足りないのか」が問いだった。最近は空前の「徳」ブームが来ている。でも一貫して同じものを掴みたくて掴みきれず、それでも諦めずに求めてるなと言う感じがする。去年の瞬間風速だった「モダン」は「科学的」とは違うという気づきと、であるなら科学的=要素還元的かつ定量的思考でなく2020年代の「モダン」をそれと別の軸で見つけようと言うスタンスは今もあるな。それが老荘思想の徳の概念の個人的ブームにつながってるように思う。
振り返ると面白い。

6月20日
荘子のエピソードで大盗賊も聖人の徳があるから大盗賊になれるわけで、善人は少ないんだからむしろ悪人の聖人の方が多くなりがちだから聖人は社会の毒で聖人なんていない方がいい的な話があって、ここでいう大盗賊の聖人が持つ徳は聖勇義智仁だと。
忍び込んだ屋敷の中のどこに財物があるか直観的に見抜く「聖」、リスクを負って一番乗りする「勇」、しんがりを守りながら逃げる「義」、適切な状況判断で手を引いたりする「智」、公平に分前を仲間に分ける「仁」
こう言った徳は悪人にもあるしだからこそ大成すると。
これ自体面白い話なのだけれど僕が特に面白いと思ったのは「忍び込んだ屋敷の中のどこに財物があるか直観的に見抜く徳目のことを「聖」」と表現しているところ。
聖ってそういう意味なの??と思って字義を調べていくと、聖という字はまっすぐに聞き語る人(天とか道の声をまっすぐ聞いてその通り行動する人)という意味で耳と口つくりの王は旧字では壬でまっすぐ立つの意らしい。
つまり「見えてる人」「聞こえてる人」現代的に言えばヴィジョナリーみたいな徳目をして「聖」というのかと。
確かにキリスト教の聖人も基本的には神やキリストの教えをまっすぐ聞き、その通りに話した人だなと思ったり。
じゃあ翻って企業が自分たちのビジョンを前提にステークホルダーにとっての「聖地」を作ろうと思う場合、そこが「聞こえる場」「見える場」にする必要があり、「聞こえる人」「見える人」と一緒に作る必要があり、ここに企業を含むコンセプチャルなコミュニティとアーティスト(聞こえる人、見える人)との協業余地があるのではないかという仮説が生まれた。
宗教とアートが常にコラボレーションしてきたわけがやっと腑に落ちた。
貴族の権威性の基盤である徳も多くの場合様々なアートを持って表現されてきた。
僕は所謂アート界隈に詳しいわけでも、コレクターなわけでもないが、アートを事業の価値の中に取り込み、アーティストをステークホルダーに加える経営ってあり得るのかもしれないと思えてきた。

6月21日
僕は長いこと、不確実性のマネジメントに興味を持ってきていて、例えばイタリア企業のマネジメントスタイルを研究してた時はそもそも国家や社会の基盤に脆弱性や不確実性を孕んでいる国の企業はどういう構えでマネジメントしているのかが興味の対象だったし、社外取の倉貫さんに教えてもらったソフトウェア開発におけるアジャイルの考え方もそうだった。
で、それとは別に女性が80%でマネジメントも女性比率が高い組織を経営する立場として、これまでの常識的マネジメント体系は軍隊とか土木建築のような危険な仕事を男性に強制的にさせることから派生してきていることもあり、女性が女性中心の大きな組織を率いるのに向いてないのではと考えるようになり、どうやったら女性のリーダーが千人以上のホワイトカラーの女性を無理なく(男性化せずに)率いることができるのかの新たなマネジメント体系の構築に興味がありました。
この二つが最近結局一つの「不確実性が高い状況下でのマネジメントスタイルの探求」という一つのテーマだったことに気づいた。
「女性用のマネジメントスタイル」が必要だったのではなく、現代社会で仕事上の責任を引き受ける上で女性の方が「不確実性」が高い状況があり、男性が大きな責任を引き受けるよりもマネジメントすべき不確実性が高く、結果的に女性中心の組織も男性中心の組織以上に不確実性が高くなる。なのでより高い不確実性の中でもそれを所与のものとして落ち着いて経営できるマネジメント体系が必要なだけだった。
これで相当思考的前進が得られた。

6月21日
ビジネスパーソンってキャリアの始まりにおいては「つくる」ちからと「うる」力を磨くことでキャリアアップしていくんだけどあるレベルから上は「かう」力の方がよほど成果には相関性のある能力になる。
経営というのはヒトモノカネ情報を有利に「かう」ことから始まる仕事でそれができないと、上手に「活用」して「つくる」も「うる」も始まらないんですよね。なので圧倒的に「かう」力が大事。
「かう」力の本質はどこに何が売ってるかを知っている土地勘と適正な値段は幾らかがわかる相場観で成り立っててそれがないのに交渉力だけ発揮しようとしても結局うまくいかない。
なので経営レイヤーの仕事をするためにはとにかく土地勘と相場観を磨いて課題を「かう」アプローチで解決することに慣れる必要がありますよね。「かう」とは言ってもM&Aとかそういうことだけじゃなくあらゆる事業活動が「かう」から始まっていて、経営レイヤではない仕事は実は経営者が「かう」アプローチで獲得した経営リソースを運用しているだけなので、その違いがわからないとシフトチェンジができないかもっていうことなんですよね。

7月5日
天下泰平の世を作るために天下を統一した人が最初にやるべきなのは「刀狩」だ。
そのために統治者がやるべきなのは治安維持(警察機構の整備)と安全保障(軍事力の整備)だ。
これをやることで個人や国家内の個別集団が「自己防衛」する必要がなくなり、武装した個人や非公式な軍事組織を武装解除することが可能になる。これによって国内の暴力によるコンフリクトが大幅に少なくなり平和が実現する。
これと同じように機能する組織を作るためには構成員個々やそれぞれのチームや部署が「自己防衛」をする必要がない状況をつくり、それを理解させ、社内政治、派閥形成、縦割り硬直化、不要なアピールや陰口などの「武装」を解除する必要がある。
ほとんどの社内のよくない行動はその行動する対象が自分は「危険」にさらされており「自己防衛」しないと安全ではないという世界観に基づいて行われており、それが不要な仲間作り(派閥)、不要な配慮(社内政治)、不要なセクショナリズム(縦割り)、不要なコミュニケーション(陰口や過剰な自己アピール)につながる。
同時に社内が社外から脅かされていると感じると構成員が安全が脅かされていると感じ自己防衛に走る。なので自立自尊で適正なマージンを確保したビジネスを構築し、基盤を日々強固にすることも当然に必要だ。
今も昔も統治者の最も重要な仕事は安全保障と治安維持で民心を安定させることなんだよなと。

7月6日
感情的になるのが悪いのではなく、
感情的なったことを本人が恥じて、その反応が正当であること主張するために時空を歪めて正義を主張したり、誰かに責任を転嫁したりすることが悪いのだよな。
あるいは感情的になった人を「ダメなことをしたダメな人」と解釈するのではなく「チャレンジ中の人」「ストレッチ中の人」として受け止めて抱擁できれば(間違った正当性を主張したり誤った責任転嫁が行われてなければ)良いのだよな。
そしたら感情は邪魔者じゃなくて、日々を生き抜いていくための大事なエネルギー源になる。

7月10日
成功ってお腹いっぱいとか、暖かいとか、心地よいとか、そういうフィジカルな感覚がないから、それをフィジカルに実感したいと思うと際限がなくなって、いろんな極端なことを試したくなって、結局道を踏み外す気がする。
成功とかは本当は存在してないし、相対的にそういう位置付けにあるように思える人でも、それを真から実感できてる人なんかいないんじゃないだろか。
なので結局はどれだけ成功しても、お腹いっぱい、暖かい、心地よい、安心、痛かったり苦しかったりがない、みたいなものを得れる以上のことなんてないんだよな。
身体的に強く実感できないものを、何か特別な経験や体験をすれば実感できるという幻想に惑わされたくないなぁ。

7月16日
マティス展行ってきた。
キャリアの最後にマティスがつくりあげた礼拝堂で実現したいことについ
「神を信じているかどうかに関係なく、精神が高まり、考えがはっきりし、気持ちが軽くなる。そんな場所をつくりたい」
と言っていたコメントが印象的だった。
僕が全てのアウトプットで実現したいことそのものだと思った。

7月23日
もうすぐまる17年もクラシコムを経営してることになるのか。
なのに創業時から今に至るまで全く経営がうまくなっていない。
できてたはずのことができなくなったということは山のようにあるが、できなかったことができるようになったことはほぼない。
今目の前にある状況を観察して、これがここにある意味とどう変化すると面白くなりそうか、その変化が単に面白いものに終わるのではなく、構造的強度を持ち、美しく希望のある方角にどうしたら向くのかを考え、それを実現するために誰にどう頼って、その頼る対価として自分が何を差し出せるかを考え続けてきただけの時間だった。
17年前の自分と違うのは信頼できる他者の種類が増えたこと、時の流れの力に信頼を置ける度合いが増したこと。禍福は糾える縄の如しであることを身体的に理解できてきたことだと思う。
こうなると角度を見出し、仲間を探して頼り、自分も仲間に貢献して、過程と結果を希望があって美しいものになるような解釈を生み出し、そのことによってさらに仲間を集め、その仲間にさらに貢献して、生み出される過程と結果の解釈をより美しく希望のあるものにアップデートするというサイクルを回し続けることが僕に与えられる責任となる。
あとは仲間と時間と世の理に委ねて、良い結果はさらなる美しさの礎となるように活用して、悪い結果から受ける傷の痛みを最小限としつつ、その出来事が自分たち動機の正しさや強さを磨く機会となるように解釈することぐらいである。
観察して、解釈して、説明して、委ねての無限ループ。

7月26日
栄養も運動もコミュニケーションも必要だけど過ぎると深刻な心身の不調につながる。
会社においてはお金、人材、需要がそういうものにあたると思う。
今の器を超えて取り込んでしまうと、乏しい時よりもさらに深刻な病を生んでしまう。
また人材については量が多すぎる場合と、ハイスペックすぎる、意識が高すぎる、有名すぎるというような、個人としてみたらとても素晴らしい人材でも、会社のステージにフィットしないことで取り込んだ組織に深刻なダメージをもたらすことがある。
赤ちゃんにステーキ食べさせたらダメだみたいなことと同じなのな。

8月5日
最近にわかにアートに触れてわかる自分が求めてること。
1)カラフル
2)光や水などの表現
3)サブカルっぽくない
4)ポップカルチャー的でない
5)手間のかかっているもの
6)みんなで見るより一人で見たくなる、ないしはみんなで見てても一人になれる内省的なもの
7)人物が描かれているもの
8)描かれている空間や人物の服や髪型などが好みのものなのにオシャレというよりはやや暗い印象のもの
9)内省的で影があるが希望や硬質な美しさが感じられるもの
10)自由な表現というよりはモデレートな表現の奥に自由な精神が感じられるもの
少しづつ自分の求めてるものの言語化を重ねて軸をつくっていきたい。

8月8日
今日で51歳。
10年毎に言ってるけど、50歳になった時より51歳になった今日の方がついに50代になってしまったなーという感覚が強い。50歳は40代の終わり、51歳は50代突入という感じ。
40代の最後はコロナで、コロナを通り抜けた頃に50代になり、個人的には自分自身の体質が入れ替わったような感覚のある数年でした。
それが単なる老いなのか、変革なのかは後にならないとわからないのですが、交換しようもない自分の人生の行く末を上善如水の心境で見据えていきたいと思います。

8月8日
需要は予め、在るもの、起こるもの。
その需要に応える自社のサービスや商品を、知る機会、好きになる機会、買う機会などの機会の「供給」をするのがマーケティングだ。そして「需要」が起こるに至る顧客候補が共有しているストーリーと自社のサービスや商品の存在意義を正しく繋ぐ解釈を「供給」し続けるのがブランディングだ。
あらかじめ存在している「需要」を掴んだら、解釈と機会と商品を「供給」する。
事業者の仕事は「需要」を作ることじゃなくて、全ては「需要」にフィットした解釈と機会と商品の「供給」を継続することだ。

8月17日
クリエイティブな仕事は「再現性がない」仕事だから、わかりやすく「定義」したり「ルール化」したら二回目から楽になる仕事じゃない。逆にそれを大事なところでしたらそれらしいアウトプットが出ていても「本質的な価値」が抜け落ちる。
でも現場はマネジメントに対して「定義」して「ルール化」して「再現性」を高めて「不確実性」を下げて欲しいと願うもの。なぜなら「不確実性」は「恐怖」「苛立ち」「不安」みたいな感情を毎回立ち上がらせるのでストレスだから。
だから経営がこの課題に取り組むためにやらなければいけないのは「不確実性」を取り除くのではなく「不確実性」に向き合う以外のストレスを極力取り除いて、それに向き合い続ける意欲と気力を確保すること。
だからクリエイティビティが求められる仕事の現場にこそ、良い人間関係、フェアな評価、良いリーダーシップ、働きやすい環境とルール、納得感のある説明が必要。
それは最もストレスフルな「不確実」なものを「不確実」なまま受け止めて、毎回どうするかウンウン悩んで答えを出すという仕事に向き合う意欲と気力を維持し続けるためだ。

8月24日
事業を成長させたいのではなく、成長して多くの人に利用されるに値し、社会に長く残っていくのに値する事業を作りたいだけなのよね。
そしてその目標が達成されれば、事業の規模は自ずと成長するはずだよねと。

8月25日
社内のディスカッションで僕がこれおかしくない?とかやばくない?とかすごくない?って気づくことに何故か他の人が気づかないことがあって、それは能力とか感性の問題じゃない気がしてるんだけどなんでだと思うか聞いたら、「ふつうこういうものだろ」の形成方法が違っていて、そことのズレで気づけていることなんじゃないかと指摘してもらえた。
なるほどそれって「世界観」とか「認識」の差であって、これを埋めようとして(埋める必要あるかは別として)思考力や注意力を磨いても意味ないことなんだなと。
一般に視点とか視座の違いと言われていることは「ふつうこういうものだろ」の違いつまりは「世界観」の違いによるバイアスの違いなんだな。
じゃあ世界観はどう形成されているのか、世界観が変化するとしたらどういう経験やインプットなのかとかその辺りを最も深めて考えて見たいな。

8月26日
自分たちのビジネスを顧客視点から、企業としての効率や生産性の観点から、社会学、人文学的観点から、歴史的な観点から見てきたんだけど、今急に気になっているのは、僕らの事業活動の全てを例えば展覧会に構成し直して、アートとして見せたらどうなるのか、どう見えて、どう見た人の心と頭に迫るのかということだ。
こうして考えるとビジネス、事業、会社、仕事というものを、科学、人文学、芸術、サービス、エンタメといろんな窓から見てもちゃんとそのスコープから見た面白みを表現できるのが僕らの一つの目指すところなのかもしれない。

8月27日
発明があって、構造を持っていて、既存文脈に対して意味のあるユニークなスタンスが取れているものの、成立要件に作家本人が携わっていることが含まれているため他者による再現性が乏しい(もしくは無意味かつ無価値)なアウトプットはアートであるとして良いならば、僕らの顧客創造プロセスと関係維持アプローチ、ビジネスモデル、組織の作り方と運営方法、成長戦略、資本政策やIRスタンス、働き方、ブランドの活かし方、磨き方、外部の価値や取り込み方など、アート作品として展示して鑑賞したり批評してほしいアウトプットはたくさんある気がする。

8月30日
僕が最初に書くべき本のタイトルは起業芸術論かもなw

9月7日
真のラグジュアリって悟りじゃね?
伝統的ラグジュアリを担保したのは権威。
リベラリズムが普遍化し権威が正当性を失いつつある先進国において新たに注目される新しいラグジュアリを担保したのは社会正義(サスティナビリティ)。
でも結局教条的な基準で階層化して自分は一番上にいるという感覚=ラグジュアリという点で基準は変わっても構造に変化がない。
ラグジュアリさを担保するのが自分の認識、認知のみになり、権威や社会正義という外部の物差しを不要にするやり方はあるだろうかと考えると、悟りに導く法具がプロダクト、悟りに導く修行的アクティビティがサービス、悟りに導く経典がコンテンツなラグジュアリブランドが思いついた。

9月15日
起業家と言われている人の中には
武士、商人、職人、アーティストがいるなと思っていて、それぞれのカテゴリごとに異なる矜持を持ってる。
自分がどのカテゴリかを自分なりに判断して、他の人の言ってることを聞く時もこのカテゴリとセットで聞くことで、特に矜持の部分に関しては自分のカテゴリのものだけを参考にする方が良いかなと思う。
武士になろうとしている人と、アーティストになろうとしている人が互いの矜持をぶつけ合っても噛み合うわけないし、何も産まない気がする。

9月28日
アートってなんなのか、アートと対峙した時に自分の中で起きてることはなんなのか、人々がアートに惹かれ続けるのはなぜなのか、その辺りをちょっとでも知りたくていろいろ見聞きしたり読んだりしてるんだけど、そもそもほぼ最後のアート論かもと思ってアリストテレスの詩学を読んでみた。
短いからサッと読めた。
創作は世界の模倣で、優れたものの模倣が叙事詩や悲劇、劣ったものの模倣が風刺や喜劇で、作家としてどちらをやろうとするかはその性格による的なことが書いてあって、あー僕は鑑賞者としての立場ではどちらも楽しく見るけど、作り手の立場としては優れたもの、美しいもの、尊いものの模倣にしか関心ない。一方で真逆の作家性の人もいて面白い。
あと悲劇や叙事詩は「恐れと憐れみ」を感じる「快」を与えられるものが優れているとも表現されていていたり、恐れと憐れみを快とできないのは鑑賞者側の成熟に問題があるとか、ハッピーエンドは喜劇だとか、ハッとする表現がいろいろあった。

9月29日
ビジネスは取り組み方によってはコンテンポラリーアートとして鑑賞に耐ええる作品になりえるんじゃないかと思っていたら、アンディー・ウォーホールがこんなことを言ってた。
「Being good in business is the most fascinating kind of art. Making money is art and working is art and good business is the best art.」

10月31日
立憲君主制が僕の最近の関心事なんですがソース原理を重ねて考察するとめちゃくちゃ面白い。
君主制はまさにソース継承の仕組みなんだなと思うし、君主制でも立憲君主制になるとまさに「ソース」としてだけの役割になる感じ。
そしてソースが継承されている国のほうがソースが継承されてない国(共和国)に比べて長期間うまく行きやすいみたいなのもあるかもしれない。
この辺もう少しちゃんと理解するためにも立憲君主制をもうちょっと調べていく。

11月5日
今年は「ソース原理」で始まり、「老子」、「貴族とはなにか」からの徳ブーム、ヴィムホフメソッドでアイスバスチャレンジして以降毎日呼吸法と朝晩冷水シャワー3分、龍源さんに密教瞑想のさわりのさわりを教えてもらってから毎日瞑想継続、そしてアートと事業の関係性考察からの怒涛のギャラリー周りをしてたらもう2023年があと2ヶ月切ってたわ。
決算発表したり、株主総会やったりも一応してますw

11月8日
「貴族とはなにか」「女王陛下の影法師」の君塚直隆さんの著書「立憲君主制の現在」を読みました。
これもめちゃくちゃ面白い、われわれ組織を預かる立場の者には示唆がありまくる内容でした。
世界の国連加盟国193ヶ国中、君主国は日本も含めて28ヶ国、英連邦に含まれる15ヶ国(カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなど英国王が元首を務める国々)を含めても43ヶ国と全体の20%ほどだがGDPの上位30位中17ヶ国が君主を元首に据えている国なのです。
また確かになとおもったのは写真としてあげてる裏表紙に書かれていた「民主主義には君主制が必要だ」というコピーなんですが、君主国の方が共和制を標榜する国に比べると専制的、独裁的な体制になっている割合が低く民主主義的な社会が実現されているということです。
北朝鮮も中国もロシアも、正直アメリカとフランス以外の共和国の多くは民主主義に課題を抱えていることが多いし、その二つの共和制の国も、国家元首が党派を代表しているため多様な国民を統合する象徴になり得ないこともあり分断や内紛が過激に起こりやすいという課題を常に抱えています。
これだけの差があることを考えれば「君臨すれど統治せず」の君主が果たしている「君臨」するという仕事はどんな仕事で、どんな貢献があり、それを十分果たすにはどんな資質や能力や素養が必要なのかみたいなことを理解して、評価して、生かしていくべきなんじゃないかと読んでて思いました。
英国王室をはじめ、北欧、ベネルクス、アジア、日本それぞれの立憲君主についての説明と考察が面白すぎました。
君塚さんの本はもう全部読んでやろうとおもっていますw

11月10日
メンタルが強い人などおらず、
単に不感症的に「鈍感」な人か、「繊細」だが「賢い」ので状況が的確に把握できて不必要な傷つきから自らを守れる人かのどちらかがいるだけですよね。
そして「メンタルが強い」というくくりの中にこの二種類が混ざっていてわかりにくくなっていますが、僕が目指したいあり方は後者です。
鈍感力などいらない。

11月26日
いかにリセールバリューのような経済的評価や蘊蓄とか他者からの評価という目線をを捨てて、自分の内観的直観による選択で物を選ぶか。それでも適当に選ばす、自分なりに納得する選択を胆力を持ってできるか。
合理性のない買い物をするってチャレンジだし、訓練だ。
僕は周りの評価とか、経済的な評価を気にしないんだけど、本当に自分が物を丁寧に見て、聞いて、感じて、味わって、繋がって、一体感を感じるところまで行って、必然を選択するってことが全然できてない。雑なのだ。
今一番上手くなりたいこと。

12月4日
マネジメントについての社内向けのテキストをずっと書いてきたんだけど、とりあえず初稿を書き切った。結局5万字越え。。もはや意味や意義のあるものなのかが分からなくなりながらとりあえず書き切った。
ただ長大になり過ぎて社内の人にも気軽に読んでみてと言えないものになってしまった。。これはなんのために書いたのか。。


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