見出し画像

広告主のCM保存に望むこと

テレビ局から、古いCM素材についてしばしば問い合わせを受ける。

「昭和のとあるCMを番組で使いたいのだが、広告主も制作会社も映像を持っていないようだ。どこかに保存されてませんか?」

私はこういう問い合わせがあるたびに、映像が保存されていそうなところをいくつかあたって、見つかったら情報提供してきた。しかし残念ながら、見つからないほうが多い。

こうしたやりとりの中で痛感するのは、思いのほか多くの広告主が、過去のCMを適切にデジタル保存しておらず、自ら映像を提供できない状態にあることだ。

持っていないわけではないと思うのだが、おそらくどこにあるか分からないのである。えっ!?そんな有名作まで見つからないの!?ええっ!?そんな大手広告主なのに分からないの!?とビックリしたのは一度や二度ではない。なかなかに悩ましい話だ。

古い広告に愛着のある社員がどんどん引退して、保存がおざなりになっていることもあるだろう。管理部門を分社化したり、社史編纂を外部化したりするうちに、どこに何が保存されているのかよく分からなくなってしまったのかもしれない。統廃合のどさくさで行方不明になったものもきっと少なくない。

廃棄や散逸ではないと思う。映像はきっとどこかにある。どこにあるのか分からないだけだ。ただ心配なのは、そのまま放置しておくとやがて保存メディアが劣化して、再生できなくなる時がくる。そうなったらもうどうしようもない。

広告主が過去のCMを適切に保存してくれるよう、願ってやまない。

もちろん、1970年代後半以降であれば、かなりの数のCMが一般視聴者によって録画保存され(番組を録画保存するついでに残ったものがほとんどだが)、それはレトロ映像マニアによって発掘され、デジタル化されて、Youtubeにアップロードされている。その数は大量である。素晴らしい情熱に心から感謝している。

しかし、残念ながら画質がよくない。ノイズだらけで色味も悪い640*480の映像を、現在のハイクオリティなテレビ画面に映したら目も当てられない。

私の手もとにもそうした映像があり、そこから何度かテレビ局に提供したのだが、あるCMのオンエアを見たとき、あまりの画質の悪さに思わず目をそむけた。とある大物俳優の若手時代のCMだというのに、最後まで本人かどうかよく分からなかった。そのくらいガビガビでボンヤリしていたのである。しかしそれしか素材がないのだから仕方がない。

使用許諾を出した広告主も、さすがに苦い顔をしたのではないかと心配になったが、そこまでの思い入れはないのかもしれない。

この映像は、とあるレトロ映像マニアたちにいただいたものだが、彼らのデジタル化の仕方に問題はない。彼らは膨大な収集物を、限られたスペックで効率よくデジタル化しなければならず、そのくらいの画質でやるしかないからだ。ただ、世の中にそれしか素材が現存しないという状況には、なってほしくないのである。

広告主、制作会社、広告代理店のどこかに、フィルムやテープの高画質媒体で保存されたCMがあるならば、それは必ず、高画質のままでデジタル化してほしい。そしてすぐに取り出せる状態で保存してほしい。やっぱりテレビ番組で引用するならば、そういう素材を使うべきだ。

昭和の視聴者の多くは、小さなブラウン管で、ノイズだらけの画面でテレビCMを見ていたわけで、高画質のテレビCM体験なんか、たぶんどこにも存在しなかった。「高画質の昭和のテレビCM」という存在はリアルではない。しかし、だからといってCM保存は低画質でよいという話にはならない。

文化資源というものは、過去の文化を過去にとどめるのではなく、現代の社会の中で活用して、新たな命を吹き込むことに意義がある。古いCMも、いまの番組や、いまの動画の中で引用され、再解釈されてこそ救い出す価値がある。だから、現代の画質にできるかきりなじむほうが望ましいと、私は考えている。

YouTubeなどは、現状そうであるように低画質でも気にならない。しかしテレビ番組は低画質では使えない。だから昭和のCMは、高画質な素材であればあるほど、文化資源としての可能性が豊かに広がるのである。

フイルムの映像に糸くずが飛んでいたり、VHSの映像がノイズでゆがんでいたりする汚さは、レトロで風情がある。でも、低解像度の動画を無理やり拡大して、ガビガビでボンヤリしているのは何の味わいもないのだ。