見出し画像

良い質的研究とは?:Tracy(2010)の紹介

良い質的研究とは、どのようなものなのでしょうか?
量的研究に比べて、質的研究の良さ、品質、クオリティを判断する基準は曖昧であるように思います。
今回は、良い質的研究とはどのようなものなのか?について考えるための一つの手がかりとして、Tracy(2010)を紹介します。

Tracy, S. J. (2010). Qualitative quality: Eight “big-tent” criteria for excellent qualitative research. Qualitative inquiry, 16(10), 837-851.

Tracy(2010)には、質的研究の品質を考えるための8つの基準が示されています。
それらについて考えることで、今後、質的研究の学会発表や論文に対するコメントや査読がより有意義なものにできるのではないか、と考えます。
この基準は、質的研究に親しむ研究者だけでなく、量的研究に親しんできた研究者にとっても有益だろうと思います。

なお、この記事では主に、Tracy(2010)に書かれていることを紹介しますが、その際、所々で私の拙い考えも交えて(区別なく)書きたいと思います。本来は、厳密にTracy(2010)と私見を厳密に区別すべきでしょうが、note記事ということでご容赦ください。

要約

Tracy(2010)では、品質の高い質的研究かどうかを考えるための基準として、次の8つを指摘しています:(1)価値あるテーマ、(2)豊かさと厳密さ、(3)誠実性、(4)信憑性、(5)共振性、(6)貢献性、(7)倫理性、(8)一貫性。
これら8つの基準は、教育的モデルとしても有用で、質的研究を評価するための共通言語となり得ます。もちろん、この基準があったとしても、質的研究の品質に関してこれからも対話し、より良い基準を模索していくことは求められるでしょうし、個々の研究においてこの基準から外れる即興の余地は残されています。



1.価値あるテーマ

価値あるテーマとは? 

  • 価値あるテーマを取り扱った質的研究とは、直感に反するような研究、当然と思われている前提に疑問を投げかけるような研究、あるいは、よく受け入れられている考えに挑戦するような研究のことをいいます。

  • 単に既存の前提を確認するだけの研究では、その真実性は認められるものの、価値を否定されてしまうのです。
    聴衆からは「それはもうわかっている」とか「それで?」と言われてしまうということです。

価値あるテーマはどこから?

  • 価値あるテーマは、多くの場合、学問的な優先事項から生まれ、理論的または概念的に説得力があります。

  • しかし、価値あるテーマは、しばしば、時宜を得た社会的、または個人的な出来事からも生まれます。

取り組みやすく、論文になりやすいテーマを選んでしまっていないでしょうか?
現在、私たちが取り組んでいるテーマがどこからやってきて、どこに向かうのかを一度立ち止まって考えてみる時間は決して無駄にならないでしょう。

2.豊かさと厳密さ

(a)豊かさ

  • 豊かな記述や説明とは、文字の通り、豊富に提供され、寛大で、惜しみない記述や説明のことです。

  • 豊かさは、概念、データ源、文脈、サンプルの「必要な多様性」(Weick, 2007, p.16)によって生み出されます。
    ここで「必要な多様性」とは、道具や手段は、少なくとも研究対象の現象と同じくらい複雑で、柔軟で、多面的である必要があるということです。

  • 複雑な人間・社会の現象を捉えようとする質的研究においては、研究者は、その複雑さを捉えられるだけの武器を備えている必要があるということです。

(b)厳密さ

  • 厳密さとは、適切な時間,労力,注意,そして徹底した努力を払っていることです。

  • 厳密な質的研究者は,特定の問題を研究するのに適したサンプルや文脈を賢明に選択することができます。

  • 厳密さを備えた質的研究は、一見して合理的で適切であるかのように見えるのです。

厳密な研究をするために最も重要なことは?

厳密な研究をするために最も重要なことは以下のことについて研究者が自らの研究を振り返り、研究成果を公表する際に聴衆に提示することでしょう。

  • データは,意味のある重要な主張を提供し,それを立証するものであるか?

  • 重要な主張を裏付けるのに十分なデータか?

  • 興味深く重要なデータを集めるために十分な時間を費やしたか?

  • 研究目的に対して文脈やサンプルは適切か?

  • 研究の目的を達成するために適切な手順を用いたか?

  • どれだけのデータがあればいいのか?

  • データ収集と分析手順に注意しているか?

  • データの分類,選択,整理のプロセスが説明されているか?

3.誠実性

  • 誠実性とは、研究者の偏見や目標,欠点,それらの研究の方法などへの影響について,正直さと透明性を有することです。

  • これは、(a)自己再帰性、(b)透明性から構成されます。

(a)自己再帰性

  • 自己再帰性とは、ここでは、自分自身,研究,そして聴衆に対して正直であること,真実性があるということです。

  • 質的研究では、研究者が研究協力者や研究対象と相互に深く関わりながら進められます。

  • このため、例えば以下の問いについて内省し、聴衆に開示することが求められます。
    バイアスや動機は? 選んだ場所やテーマを今調べるのに適するか?
    容易に入手できる知識,隠される知識は何か? 参加者からの反応は? 等

(b)透明性

  • 透明性とは、研究プロセスを正直に説明することです。

  • どのように文脈に入ったか,参加と没頭のレベル,フィールドノートの実践など、透明性の高い研究は,研究の課題や予想外の紆余曲折,研究の焦点の時間的変化の様子を開示します。

荒谷の考えでは、「質的研究においてまず問われるのは私たち研究者自身」です。
質的研究においては、どこから、誰が、どのように見たのかを研究の過程で絶えず内省し、それを論文で正直に書くことが求められます。
研究協力者や研究対象を隠れ蓑にして、研究者自身の立場や動機などが述べられていない論文、言ってしまえば、研究者の顔の見えない「カオナシ」の論文にならないように気をつけたいものです。

他者について語ろうとするとき、私自身についてもまた語らねばなりません。

4.信憑性(Credibility)

  • 信憑性とは、ここでは、研究結果の信用性(trustworthiness),真実味(verisimilitude),もっともらしさ(plausibility)のことです。

  • 信憑性の高い報告書とは,読者が十分に信頼できると感じ,それに沿って行動し、意思決定を行うことができるものを言います。

  • (a)厚い記述、(b)トライアンギュレーションと結晶化、(c)多声性、(d)メンバーの省察から構成されます。

(a)厚い記述

  • 読者がその場面について自分なりの結論を出せるように十分な詳細を提供すること

  • 優れた質的研究では,表面的な部分だけでなく,研究協力者の暗黙知を探ります。

  • 暗黙知にアクセスするためには現場でかなりの時間を過ごすことが必要になります。
    誰が何を話しているか?だけでなく、誰が何を話していないのか?までも記録していくのです。

(b) トライアンギュレーションと結晶化:技術的には一致するが,パラダイムが異なる2つの実践

b-1. トライアンギュレーション

  • 複数の種類のデータ,研究者の視点,理論的フレーム,分析方法を用いることで,問題のさまざまな側面を探り,範囲を広げ,理解を深め,一貫した(再)解釈を行うことが可能になるというものです。

  • これは、偏見を取り除くことを目的とした実在論的パラダイムで誕生し,単一の現実を前提としています。

  • なので、解釈的,批判的,ポストモダン的なパラダイムの研究には,うまく当てはまらないこともあります。

b-2. 結晶化(Ellingson, 2008)

  • 結晶化は、複数のデータソース,研究者,レンズを使用することに関連する用語で、ポスト構造的でパフォーマティブな前提に基づいています。

すみません。ここはよく理解できませんでした(泣)
おそらくですが、単一の現実を前提とするトライアンギュレーションとは異なり、研究対象を多元的に捉え、複数の現実を前提とすることに関する考え方なのかなと思います。

(c)多声性(multivocality)

  • そもそも声とは、「テクストの語り手を特徴づけるテクスト上の記号のセット」(『質的研究用語事典』, p. 78)です。

  • 多声性のある研究では,報告や分析に複数の様々な声が含まれます。

  • 多声性のある研究は、研究協力者との密接な共同作業によっても達成可能です。

単一の声だけを聞き、別の声を聞こえないふりをしてはいないでしょうか?
単一の声だけでは、現象の一面的な理解にとどまってしまいます。
いかに複数の声を聞き、それを報告や分析に組み込んでいくのか。
絶えず検討していきたいものです。

(d)メンバーの省察 (Member reflections)

  • メンバーの省察とは、研究結果を研究協力者と共有して対話し,質問,批評,フィードバック,肯定,協力の機会を得るものです。

  • なお、「省察」の語を用いるのは,「メンバーチェック」や「妥当性の確認や検証」が単一の真の現実を示唆するためです。

  • メンバーの省察は、研究結果をテストすることよりも,研究協力者との共同作業の機会や再帰的な精緻化の機会を設けることを意味しています。

質的研究に投げかけられる批判の一つは、研究の信憑性に関わるものでしょう。
(a)厚い記述、(b)トライアンギュレーションと結晶化、(c)多声性、(d)メンバーの省察を通して、読者が十分に信頼できると感じ,それに沿って行動し、意思決定を行うことができるような信憑性の高い論文を目指したいものです。

5.共振性

  • 共振性(Resonance)とは、研究が聴衆に意味のある影響を与える能力を指しています。

  • 当該テーマの直接の経験を持たない聴衆に対して、共感したり,認識・識別したりできるような実践が必要となります。

  • 共振性を高める実践として、(a)審美的メリット、(b)転用可能性(transferability)と自然主義的一般化(naturalistic generalizations)の2を取り上げます。

(a)審美的メリット

  • テキストが美しく,喚起的で,芸術的な方法で提示されていることを言います。

  • 質的研究は、専門用語を避け,対象となる聴衆(研究協力者を含む)が理解できるように明確に提示される必要があります。

  • 喚起力のある文章は,驚き,喜び,そして心の中の何かをくすぐるものです。

小説のように誰かの心をうち、行動や信念を変えられるような、そんな文章をいつか書きたいです。。。

(b)転用可能性(transferability)と自然主義的一般化(naturalistic generalizations

  • 質的研究では、歴史的・文化的に裏付けられた知識を得ますが,これらを一般化したり、将来の予測に用いたりすることはできません。

  • 聴衆が行うプロセスによって共振を得ることができるのです。

b-1. 転用可能性(Lincoln & Guba, 1985)

  • 聴衆が研究のストーリーが自分の状況と重なっていると感じ,直感的に研究を自分の行動に移すことができることを指します。

  • 喚起力のあるストーリーは,同じことを別の場で経験したことがあるという考えを聴衆にもたらす力があるのです。

  • これは、研究論文などに直接の証言を盛り込むことなどによって実現可能です。

b-2. 自然主義的一般化(Stake & Trumbull, 1982)

  • 「生活への関与を通して,あるいは経験の代行を通して,研究者と読者の双方が到達する推論」(『質的研究用語事典』, p. 7)のことです。

  • 量的研究における一般化とは異なり、時間や文脈に縛られた個々の事例における個性記述的な言明のみが可能であるという立場です。

  • 「自然主義的」とありますが、これは「自然科学」というときの「自然」とは異なった意味で使われています。ここでは、実験法などの人工的な研究とは対置されたものとして「自然」の語が用いられているようです。

質的研究のある論文(や表現)が共振性を備えているかどうかは個々の聴衆に委ねられるものではないかなと思います。
だからこそ、質的研究者は聴衆にどのような影響を与えるのかについて考えながらより良い表現を模索していく必要があるでしょう。

6.貢献性

  • (a)理論的意義、(b)発見的意義、(c)実践的意義、(d)方法論的意義から構成されています。

(a)理論的意義

  • 貢献のうち、学問的な知識を拡張・構築・批判するものを言います。

  • 既存の理論や概念が新たな異なる文脈でどのように意味をなすかを検証することでも実現可能です。

  • ただし、既存の理論を単に(再)適用するだけでは不十分です。

  • 過去の研究を基礎としながらも,将来の研究者が利用できる新しい概念的理解を提供することを言うのです。

(b)発見的意義

  • 貢献のうち、人々を将来のさらなる探究,研究,研究に基づいた行動へと向かわせるものです。

  • 他の環境でさらに疑問を持ち,探究することができる新しい概念を開発するもので、様々な人々に影響を与え,行動や変化を促す研究も発見的であり,その場合は次の(c)実践的意義と重なります。

(c)実践的意義

  • 貢献のうち、ある知識が有用であるかどうかを問うものです。

  • 現代の問題に光を当てたり,枠組みを作ったりするのに役立つか?
    個人を不公平から解放するようなストーリーを提供するか?などを研究者は考えることが求められます。

  • ただし、すべての質的研究が,変化を促したり,政策に影響を与えたりすることを目指すわけではないので、注意が必要です。

(d)方法論的意義

  • 貢献のうち、研究の方法に新たな創造性や洞察力を持たせることです。

  • 新たな方法論を導入・説明することで,意外性のない理論的知見を得た研究であっても,重要な貢献ができる可能性があると言うことです。

  • 例えば、これまで定量的・実験的にしか検討されていなかった概念を定性的に研究することが挙げられます。   

質的研究は、記述や理解、解放や変革などなど、様々な目標で行われます。
質的研究の過程においては、それぞれの研究がどのような貢献性を有しているのかを検討し、聴衆に明確に訴えることも大切でしょう。

7.倫理性

  • 倫理性は、単なる手段ではなく,パラダイムを問わず,質的研究が目指す普遍的な最終目標です。

  • 研究協力者と深く関わる質的研究だからこそ、倫理的配慮や行動が研究を始める前から、研究の最中、そして研究成果を公表し、現場を離れる時に至るまで求められます。

  • 倫理性は、(a)手続き的倫理(カテゴリー的倫理)、(b)状況に応じた倫理的配慮、(c)人間関係に関する倫理的配慮、(d)研究の終了に際した倫理的配慮の4つに分けて整理されています。

(a)手続き的倫理(カテゴリー的倫理)

  • ここでいう手続き的倫理とは、組織や機関によって普遍的に必要とされる倫理的行動(個人データの保管・管理・公表など)のことです。

  • これにより、捏造や詐欺、隠蔽などを避けることができます。

  • 研究参加者は,研究の性質と起こりうる結果を知る権利があり,自分の参加が自発的なものであることを理解する必要があります。

  • 守ることで、より信頼性の高いデータを得ることにもつながります。

昨今、研究倫理に関する議論が行われ、倫理規定を定めている学会もあれば、そうでない学会もあります。
抑圧からの解放や社会構造の暴露を最終目標の一つとする質的研究だからこそ、研究協力者に対する手続的倫理は欠かすことができません。

(b)状況に応じた倫理的配慮

  • ある特定の状況を合理的に考慮することで生まれる倫理的実践のことです。

  • 「研究協力者と連絡が取れなくなった」など予期せぬ事態に直面することの多い質的研究では、当初予定し、審査を受けた事項だけでなく、その瞬間瞬間、その場その場で倫理的な行動が求められます。

  • 研究者は各状況で自分の倫理的判断について繰り返し考え,批判し,疑問を抱く必要があるのです。

(c)人間関係に関する倫理的配慮

  • 人間関係に関する倫理的配慮とは、研究者が自分の性格,行動,他者への影響を意識するという自己意識を伴うものです。

  • これに基づく研究者は,研究協力者と互恵的な関係を築き,「素晴らしいストーリー」を得るために他者を利用することはしません。

(d)研究の終了に際した倫理的配慮

  • 研究者がどのように現場を離れ,結果を共有するかについての配慮のことです。

  • 不当な結果や意図しない結果を避けるために、研究の成果をどのように公表するべきなのかを考えることは可能です。

  • 覗き見のようなスキャンダラスな物語と素晴らしい研究の物語を混同しないことが大切です。

  • 例えば、貧困・汚名・虐待など疎外された人々についての物語は,著者が意図せずともそのような人々をさらに否定的に描写することになりかねません。

  • 研究成果が誤読,流用,誤用されたりする可能性があることを読者に警告する文章も検討することが大切です。

優れた質的研究を行うためにも、私たちは研究計画の段階から研究成果の公表に至るまで倫理的な配慮や行動をすることが大切です。

8.一貫性

  • 意味ある一貫性とは、(a)定められた目的を達成すること,(b)主張していることを実現すること,(c)主張している理論やパラダイムとうまく連携する方法や表現方法を用いること,(d)レビューした文献と研究の焦点,方法,結果を注意深く相互に関連付けることを言います。

  • ただし、一貫性を求めることは、研究が厄介な問題に直面したり、予想外の出来事が起こったり,衝撃的であったりしてはならない,という意味ではありません。

  • また、研究が複数のパラダイムから概念を借りたり使ったりできない、という意味ではありません。

質的研究では、予期することのできなかった問題に直面したり、複数の立場や考え、視点が矛盾するかのように共存したりすることがつきものです。
その問題や矛盾について、研究者と研究協力者がいかに乗り越えたのかについて真摯に説明することが求められるのです。

意味ある一貫性のある研究の特徴

  • その研究が主張していることをもっともらしく達成している。

  • 研究デザイン、データ収集、分析を、理論的枠組みや状況的目標とうまく結びつけている。

  • 自分のパラダイムや研究目標に合った概念を利用している。

このように書くと当たり前のように思えますが、これらを当たり前に遂行することが意外と難しいものです。
意味ある一貫性のある研究のためには、自分の表現スタイルがプロジェクトの目標と一致するように注意しなければなりません。

最後に:

Tracy(2010)で示された8つの基準は、教育モデルの一つとしても有用です。
私を含めて質的研究の初学者は、質的研究について、何を、どこから、どこまで学べばいいのかわからない人が多いのではないかと思います。
特に、良い質的研究とはどのようなものかについては、大学院の指導教員から非明示的に教えられることはあっても、なかなか明確な基準に基づいて考える機会はないのかもしれません。
この点から見て、Tracy(2010)の基準は初学者が質的研究の品質について考えるきっかけとして利用できるのではないかと思います。

これからも良い質的研究とはどのようなものか?について検討・議論していくことが求められるでしょう。
質的研究の品質に関する議論は、質的研究者のコミュニティというよりも、量的研究者を含めた開かれたコミュニティーで行っていかなければいけません。
質的研究の多様性を確保しつつ、「なんでもあり」にならぬよう、質的研究については多様性と品質をセットで議論していきたいと改めて考える次第です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?