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キブラー他「燃え尽きていく社会的企業家たち」

まず、簡単に要約したい。社会的企業家の多くが、ビジネス上の目標達成と、意義ある貢献を実現することとを両立しようとする中で、多くの責任を背負いこみ、過度な多忙に自らを追い込んで、家族との時間や十分な睡眠を得ることができなくなっている。

このジレンマを解く鍵は、自律性にある。いつ、どこで、どのようにして事業に取り組むのかを、自らの意思で決めることができるかどうか。しかし自律性を維持することは難しい。創業初期や規模の小さな組織では、事業継続性を単独のクライアントに依存しており、彼らによって自律性を奪われていることが少なくない。

社会性の高い取り組みを奨励する際には、その危険性にも目を向け、当人の自律性を守る配慮が不可欠だ。彼らを疲労困憊に追い込んでしまっては、持続可能な仕方でソーシャル・インパクトを創出することは叶わない。

さして面白い記事ではないのだが、元NPO職員であり、「社会的企業」とみなされる事業会社に籍を置く身としては、様々な記憶、思いを刺激されるものだった。

震災前後、東京都内の大学生、若手社会人の狭いコミュニティの中で「ソーシャル・ビジネス」の言葉が躍った時期があった。その機運はあっけなく萎み、震災の記憶の薄まりとともに、勢力を弱めつつも地方創生に軸足を移していった。過労死事件の報道を転機として、話題はワークライフバランス、働き方の多様性、個人のキャリアの問題へ取って代わられた。そのことに善悪はない。流行ったが、それはブームに終わった。何故だったんだろう。

「誰かの役の立ちたい」「社会性の高い事業に関わりたい」という言葉は聞こえが良い。一方で、その言葉に、他人の人生の「悲惨さ」を自分の存在価値を際立たせるための道具として利用しようとする、そういった仄暗い欲望が隠されていることも少なくない。

社会的企業家に憧れること、それであろうとすることに伴う欲望。「社会的企業家を支援している私」という物語と、誰かの個人ブランディングによって消費される社会的企業家。そこにおいて置いてけぼりにされる当事者。

社会性の高い事業を志す時、そこに安易に感嘆、称賛、憧憬が集まってしまう。それに踊らされ、操られるとき、当人の自律性はすでに奪われており、たくさんの「支援者」たちの欲望に、心が乗っ取られてしまう。

社会的な事業に関わろうとする際、その事業が誰の欲望によって回っているのか、その純度を見極めることが必要のように思う。5年間、非営利組織の経営に携わる中で、沢山の人が善意で関わりを求めてこられた。善意を受ける側から眺めた際に、継続の可否を決めるのは、その方の欲望の純度だったように思う。当人のやむを得ない衝動が、そのテーマに向いているかどうか。ハードルをあえて上げることを非難する向きもあるだろうが、私は、当人の本当の欲望が働かない場所に時間やお金を充ててはいけないように思う。そのようでしかあれない自身の欲望のあり方を探すために、「当事者」を利用しないこと。あるいは、利用することの申し訳なさ、居心地の悪さに耐えること。

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