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トイレの神様よ,もう一度

トイレには それはそれはキレイな
女神様がいるんやで
だから毎日 キレイにしたら 女神様みたいに
べっぴんさんになれるんやで

日常,格別意識しているわけではない.
トイレに行けば,そこに神様がいるんだ.
そんな感覚をずっと持っているわけではない.
しかし,自分の中のどこかに,そんな感覚がある.
ずっとあるわけではないが,ふとした瞬間に,顔を出して,思い出す.

トイレの神様で有名な植村花菜さん

2010年にリリースされた,植村花菜さんのトイレの神様という曲がある.
この曲は,紅白歌合戦でもフルで歌うことになるほど人気の曲となった.
僕は,最近この曲を聴く度に涙が出てくるのだが,曲中,植村さんは,何度もトイレに神様がいることを歌う.
これは,鹿児島県のおばあちゃんの生前の言葉を元に作られた歌だという.
目には見えなくとも,トイレを綺麗にすると,べっぴんさんに慣れることを信じ,べっぴんさんに,気立てのいいお嫁さんになるべく毎日ひたむきにトイレ掃除をしたと言う.
とある記事の中で,彼女は以下のように話していた.

どうしてトイレに神様がいると思えたのか? 私は性格がすごく単純なので、おばあちゃんに言われた瞬間、信じちゃったんです(笑)

当然,トイレの神様は,我々の目には見えない.
しかし,目には見えなくとも,トイレには神様がいると信じて,せっせとトイレを綺麗にしようとするのだ.
万物に神様が宿る八百万の神の考え方は,日本における原始宗教のアニミズムと通ずるものが多い.
キリスト教やイスラム教に見られる一神教ではなく,様々なものに神様が宿るからこそ,この世界にあるものを大切にできる.
そんな感覚だ.

親から教わった東洋精神

「いただきます」
「ごちそうさま」
一見当たり前のように思えるこうした基本の挨拶ができる人というのは,地域でもあまり多くないように感じられる.
僕が今,とてもお世話になっている行きつけの店の店主さんは,僕が食事をする度に,彼にこれらの当たり前の挨拶をしていたから,可愛がってもらい,そしてお世話になっている.
食事に行った先で,作ってくれた方に対して,
「いただきます」
「ごちそうさま」
と言えるだけで,そこの店員さんから声をかけられたり,仲良くなれたりする機会が多いのだ.

料理を作ってくれた目の前の人,食材を作ってくれた人,そして食材となってくれた動植物,それらを育てた地球環境.
これらに対しての感謝と敬意を込めた「いただきます」「ごちそうさま」.
当然のようにずっと使ってきた.
そう教わってきたからだ.

これらの挨拶と同時に,「もったいないから米一粒残さないように」とも教わってきた.
見方によればケチ臭いかもしれない.
でも,それは,今思えば,本当の意味でのアガペーに近いものであるような気がする.

アガペーとは,「神の無償の愛」というような意味であるが,これはキリスト教の旧約聖書に残る言葉だ.
日本は明治時代の近代化以降,キリスト教色が強くなってきたが,それ以前は,否,今でもアニミズムの精神がかなり根付いている人種だと思っている.
僕が住む北陸地域には,白山信仰が強く根付いているし,日本全体としてそうした自然信仰が根付いているところは多いように感じる.
アニミズムの根本精神は,八百万もいる神様たちによる,無償の愛だ.
そして,その八百万の神様たちが互いに合意形成をするまでもなく,ホラクラシー組織を築き,全員が同じ方向性を向いているから成り立つ.
そうしたアガペーに支えられている.

米一粒残すその時,米の神様は僕を見ているし,その背景には米を作った土の神様も,水の神様も宿っている.
それを無碍に扱うのではなく,その神様がこちらを向いてくれているから,僕自身生かされることができる.
そんな感覚だ.

親の教え方は,行為の話しか印象に残っていないけど,それでもその行為の裏にある世界に想いを馳せることができるようになったからこそ,あの教えの意味が,今になってようやく少しずつわかってきた.
僕の根本の精神は,やはり親の教育によるものが強い.
そして,その根本の精神は,アニミズムを基点にした精神性だったのかもしれない.

「生かされる」という感覚

僕は,とても生かされているという感覚が強い.
表層的には,地域に来て,大学生という身分だから,若者だからというのもあるかもしれない.
それでも,それを可愛がってもらえるのは,目に見えない裏の世界を感じているからなのではないかとも思ったりする.
自分で言うのもアレだが,なんとなくそんな気がする.
地球という土台の上に,自然があり,そして植物が光合成をし,酸素を生み出し,その酸素は僕らの生きる基盤になっている.
日常口にするものは,自然の育んだ豊かな大地の農作物であり,それを作り育ててくれた人,作ってくれた人の労苦の上に成り立っている.
先述した行きつけのお店は,たまにビールを飲ませてくれるし,地域の方には車で送迎してもらったり,たまに野菜をいただいたり,助けていただいている.
まさに今この文章を書いている僕は,誰かが作り上げてくれたパソコンと,インターネットという仕組みによって書くことができている.
僕が今の生活をできているのは,そうして助けてくれる人がたくさんいるからであり,僕を育んだ自然と社会があるからだ.
それらを抜け落として,生きることは難しいし,おそらくできない.
だからこそ,ありがとう.
そんな気持ちになる.

自然には神が宿り,そしてその自然に生かされる日本古来の精神性の土壌は,今でもまだ根付いていると思う.
しかし,それも,明治時代の近代化によって,大きく損なわれた部分があるように思う.
近代以降輸入してきた民主主義や資本主義などの思想は,キリスト教的な価値観に基づいて作られており,それらが世界を覆えば覆うほど,その根本的価値観が蔓延し,他の精神を侵略する可能性がある.
資本主義の基本は,侵略と搾取だ.
日本に於いても,こうした資本主義の精神が根強くなればなるほど,古来から存在していた自然信仰や神道,仏教等の精神が少しずつ搾取されている.
その結果,個人主義や自由主義が加速し,まるで個人が一人立ちして,生きていられるかのように錯覚している人が多いように感じる.

しかし,実際はそうではないのだ.
生きている土台や周囲の自然や人間との関係性があり,そしてそこから得られる材料や知恵があり,ようやく生きていられるのだ.
決して一人で生きているわけではない.
その感覚がなければ,遠くにあるものが近寄って来たとて,近付けば離れてしまう.
傲慢さは,仇になる.
それを認識して生きることが,より善く生きる一歩めだと思う.

自衛の人生

今の社会は,とても生きづらく感じる.
あまりにも個人にフォーカスをしすぎた結果,個人で生きなければならないように感じる人も増えたのではないだろうか.
子育ても貧困も,全部自己責任.
自分が頑張ればそれは乗り越えられる.
生存した者が語るそれっぽい言葉たち.
その仕組みの中で勝ち上がった者の言葉のみがそれっぽさを帯び,それが真実か否かはわからないけど,それを誰かが引用して強要される.

国家の経済成長が鈍化し,低成長と化した結果,公助に対する期待は,もはやほとんどない.
であれば,もはや個人でなんとかするしかない.
そんな風潮が蔓延しているように感じる.

個人の時代が到来して,個人でなんとかしていく.
どこまでそんなことができるのだろうか.
自分が傷つかないために,誰かを傷つけ,自らのテリトリーから排除する.
自分の痛みを最小化するために,さも予測できていましたと言わんばかりに痛みを受ける際のシミュレーションを強化し,ありもしない現実に予め傷付こうとする.
痛みを避けることなど不可能だし,その痛みを避けては,本当の願いは叶えられないということを理解せず,目の前の傷を避けるために時間を消費し続ける.
そんな人生の過ごし方でよかったのだろうか.

大義に生きること

何のために人生を生きるのだろう.
恐らく,大多数は,ただ幸せになりたいだけのはずなのではないかと思っている.
でも,幸せを追い求めれば追い求めるほど遠ざかり,やがて掴みかけた幸せ,掴んだ幸せが手からすり抜けて,落ちていくことに対する恐れに苦しみながら生きているのではないだろうか.

昨今,youtuberが流行っていると聞く.
彼らは,大多数の視聴者に見てもらうことで,それが広告となり,そして収入となるわけだが,その過程でやり方に問題があり炎上するケースもないわけではない.
自分自身をコンテンツとして売って,収入を稼ぐことそのものは,決して否定されるものではないが,しかしその過程で,やはり何をやっていいのかそうでないのかを峻別することは当然のように求められる.

自らの名を売っていくこと,それ自体は手段としては必要な時があるかもしれない.
しかし,それ自体は目的にはなり得ない.
自分の株が上がるとか,自分が有名になるとか,そういったことの一歩先の目的はなんだったのかを見つめ直さなければならない.

今際の際に何を想うのだろうか.
「いやあ,たくさん有名になった」
「たくさんの人に承認してもらえた」
それが,冥土まで持っていくことなのだろうか.
この世界に名を遺したとして,名以外の何を遺したのだろうか.

僕の好きな本に,内村鑑三の『後世への最大遺物』という本がある.
その本で,いくつか後世に遺すべきものが書かれている.
そのうち,誰にでもでき,そして利益ばかりで害のないものとして,"高尚なる生涯"を挙げている.
より善く生きることは誰にでもでき,そしてそれ自体が後世へと遺っていく.

より善く生きるということは,己のためのみに生きることではない.
周囲の人間との関係性,自然との関係性,自らを生かしてくれる様々な事象との関係性を理解し,そして己の内にある善なるものを生きていくことだ.
それは己を守り続ける自衛の生き方ではなく,この世界に生かされ生きていくという積極的な生き方の話である.

僕は,特に,この世界に名を馳せたいなんてことは思っていない.
手段としてはいいかもしれないが,別に有名になりたいわけではない.
むしろこじんまりと,細々と生きていきたいと思っている.
それでも,自分が生きるこの世界のままだと,後世にこんな時代を生きたと誇れないから,僕は自分の思い描く未来に対して進んでいくしかない.
その結果,未来がより善くあるならば,僕の名前など遺っていなくとも構わない.
名にし負わずとも,思い描く未来が達成されるならば,僕はきっと,人生の最期を笑って迎えることができるのだと思う.

トイレの神様はどこへ行ったのか

この世界は,近代西洋文明社会へと化していく中で,キリスト教的一神教価値観に支配され,徐々に我々が元より持っていた東洋精神を失っているように感じる.

トイレの神様は,人類の,個人主義という傲慢さ,共生感覚の欠落という大きな危機に対しての警鐘を鳴らす歌のようにも見えてくる.
我々が忘れてしまった自然との関係性,人間との関係性,歴史との接続性,そうした様々な共生を,思い出させてくれる歌にも思える.

私たちが目指すべき社会は,きっと,トイレの神様を笑う社会ではなく,それを当たり前に感じられる社会だろう.
そうなることを,心より願って.

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