「死ぬこと」と「生きること」

いつからか,こうしたテーマで言葉を紡ぐ機会が減っていた.
でも,こうした話が嫌いなわけでもなく,本当はもっと語りたいと思っていたのだろう.
このnoteでは,僕が「生命を生き切る」ことが大切だと謳う一番根底には,こうした想いがあるということを,綴っていきたいと思っている.

▼生命への冒涜

中学高校時代を振り返ってみると,僕は人に対して,気軽に「死ね」や「殺す」という言葉を使っていた.
振り返ってみるととても怖いが,その時は別に何も考えていなかった.

きっと,こうした言葉を使う中で,たくさんの人を悲しませてきたんだと思う.

でも,それが傷つけているとは気付かずに,
生命がどうのとか思うこともなく,ただひたすらに暴言という凶器を振り回していた.

きっと,生命を生き切るなんて,当時の僕に言ったって何も響かなかった。
それはただの言葉だったから.
「死」はリアルではなかったから.

▼「死」がリアルになる

現実味のない「死」が,僕の中で急に輪郭を帯びたのは,高校を卒業してから1年と少しした頃だった.
19歳から20歳になろうとする一年間の間に,僕は友人を二人亡くした.
当然,ものすごく悲しい出来事だったし,とても泣いた.
しかし,何も別に被害者ぶろうという話ではない.
ただ,友人が二人,あの世へと旅立ったという事実があり,それが僕にとっての大きなきっかけだったという話だ.

一人めは,2013年5月.
その年浪人を経て大学に進学した友人が,車の事故で亡くなったという連絡が後輩から入った.
大学に入学してまだ1ヶ月.
世間がGWの楽しさの最中,彼は命を落とした.
連絡が来た時の頭の真っ白さと言ったら,なんと表現していいものなのか,僕には未だにわからない.
きっと彼の親も,世間が休みで浮かれている中,絶望に打ちひしがれたに違いない.

二人めは,同年9月.
サッカークラブで一番と言ってもいいくらい仲が良かった友人が,病気で亡くなったという.
彼とは中学の頃同じクラブに所属しており,彼の家族も含めて近隣の県にサッカー観戦に行くくらい仲がよかった.
だから,彼の両親も,弟も,妹も,僕は知っていた.
何がどうなって,彼が亡くなったのかと,当時はものすごく考えた.

二人ともの通夜に参加した.
その空間で一番印象的だったのは,彼らの家族の姿だった.
自分の家族を亡くすということがどういうことなのか,
彼らの泣いてる姿,悲しんでる姿がとても強く脳裏に焼き付いている.

その後,僕は何度も何度も,繰り返し自分に問うた.

「もし,僕が同様に家族を亡くしたら,どうなるのだろうか?」
「もし,僕が死んだら,家族はどう感じるのだろうか?」

そんな簡単に答えが出るような問いではないし,答えが見つかるかもわからない.
しかし,きっと,いや間違いなくそうした体験は耐えられるようなものではないと思う.
とても悲しくなるだろうし,あまりの悲しみに,この世界に対して絶望をするかもしれない.
どうしていいのかわからない悲しみと,怒りと,そうした様々な感情に押しつぶされて,僕の生命がその先あるのかだって保証できない.

友人の遺体と顔を合わせた時に,もう動くことのない彼らに色々ぶつけてみた.

「お前は,生きててよかったと思ってんのか?」
「お前が死んで,俺が生きるということに,どんな意味があるんだ?」
「お前らに恥じない生き方とは何なんだ?」

こんな言い方をしたら怒られるかもしれないが,
彼らが自らの「死」をもって,僕に教えてくれたことは何だったのだろう.
そんなことを考えた.

それまであまり考えたこともなく,身近でもなかった「死」というテーマが,たった一年間のうちに,急にリアルになった.
それまで当たり前のように使っていた「死ね」や「殺す」という言葉に恐れを抱き,ついには使えなくなった.
それまで感じたことのなかった生命の重みが,少しずつ僕の中に芽生えてきた.

▼生命を生き切るということ

「死」をリアルに感じてから,
僕は,僕らは,この世界でどう生きていきたいのだろうかとずっと考えている.
彼らが旅立ってから5年が経過したが,僕は未だにその問いに対する答えを明確に持っているわけではない.
もしかしたら,答えは僕が死ぬ時にだって見つかっていないかもしれない.

でも,彼らがその生命の大切さを教えてくれたなら,きっとその大切な生命を丁寧に生き切ることが,わからないなりの暫定解かなという気がしている.
でも,僕だけが丁寧に生きてたらいいわけでもなくて,
きっと僕の周りの人もそうだし,僕の周りにはいない見知らぬ誰かにもそうあってほしいと願っている.

「生命を生き切る」ことのできる社会を創ることと,
「生命を生き切る」ことのできる人を増やすこと.

この二つこそが,今の僕にとってはやりたいことであり,やらなければならないことだと思っている.

もし今このまま死んだら,「生き切ったぞ」って言えるのだろうか?
誰にも恥じることなく,自分に与えられた生命を,ちゃんと使い切ったって言えるのだろうか?
僕はきっと死ぬまでこの問いと向き合い続ける.

現代に合わないルールやシステム,文化は未だに強く残っており,
納得できないし,したくないと思いながらこの世界を生きなければならないことが多い.
システムが,生きづらさを感じる人をたくさん生み出している.
様々な常識や世間体,人との比較競争の末のあれこれ.
そうした中で,本当に自分の生きたかった生命を生き切ることができるのだろうか.

僕の周りでも,
本当にありたかった姿がわからないと悩む人,
本当にありたい姿はわかるけど,様々なしがらみの中でその姿にたどり着けていない人,
などをよく目にする.

彼らの,本当の心の声が求めているありたい姿を実現でき,
どの瞬間に生命の灯が消えようとも,
「僕は/私は,この世界に与えられしこの生命を,ちゃんと生き切ることができたんだ!」
って言えるような,そんな世界がただ純粋に見てみたい.

だから,僕は,
人々がちゃんと自分の心の声にアクセスできるように,
彼らの音色を奏でられるような場やコミュニティを創るし,
その土壌を整えるために,
みんなで望む未来を考えられるような場を開く.

一人一人の生命のエネルギーを引き出しながら,
それを引き出せるように,社会システムを整えていきたい.

「ポスト資本主義」や「ディープデモクラシー」などと言えば,流行感に溢れていて,どこか流行りに乗っているように思われたり,僕という人間との接続性が見えにくくなってしまう.
しかし,僕の想いの根底には,こうしたみんなが生命を生き切っている世界を見てみたいという強い想いがある.
「生命が生き切れる社会」ってどんなものだろう.
それを描けば描くほど,バズワードに近付いていき,
社会もそういう流れなのかという安心感や嬉しさを感じる.

僕はそういう想いで生きているし,
「生命」の美しさを僕に遺してくれた彼らに恥じないように,
最期,
「俺は人生を生き切ったぞ!」
「いやあ,いろいろあったけど楽しかったわ!」
って報告して生命を終えられるように,
「生命を生き切れる社会」を創る.

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Kohei Satake

「生命を生き切る」をテーマに22世紀に想いを馳せる人.経済学徒.石川県加賀市に移住しました.
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