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僕が受けてきた教育から見る未来の教育について

加賀に来て,自分より年下の人間と触れ合う機会が増えた.
彼らは大学生ではない.
0歳から高校生くらいの子供たちだ.
加賀に来てから,様々な方にお世話になっているが,またそれと同時にその方々のお子さん方にも遊んでもらっている.
 
そんな中,僕がお世話になっている藤永さんという方が言い出しっぺとなり,教育のイベントを開いた.

現状,加賀市には大学がない.
そのため,高校卒業後,大学進学のため県外に出る人が多いのだ.
そんな加賀市でも,もっと教育の選択肢を増やせるんじゃないか.もっといい教育があるのではないか.
自分の子供が,10年15年に,より多くの教育に対する選択肢を持ってほしい.
そんな想いで,始まった.
彼はこれまで教育について何かを語ったことも,考えたこともあまりなかったと言う.
それでも,自分の子供のことを想えば,やはりより多くの,そして質の高い教育の選択肢は,インターネットが発達したこの時代だからこそ,成し遂げられるのかもしれない.
たまたま発見フットワークの軽い人間として声がかかり,そのイベントの企画に携わることになった.
さらに,気がつけば登壇することにまでなった.
僕自身,教育について思うことはいろいろある.
これまでも考えてきたし,何ができるかは今も考えている.
興味があるからこそ,さとのば大学にも一時期運営に関わっていた.
しかし,15分とは言え登壇.
何を話せるのだろう.何を話したいのだろう.
悩みに悩み,「僕がこれまで受けてきた教育から見る未来の教育について」というテーマで話すことにした.

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自分が一番考えてきた教育者としてのスタンスと,そして公教育の在り方と.
自分の内側にある問題意識,違和感を吐き出し,とにかくぶつけようと.
何が伝わるかわからないけど,必死に自分の想いを紡ぎ出した.

僕の経歴と教育への違和感

僕がこれまで受けてきた教育の経歴は,以下のようなものだ.

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幼稚園の年中から小学校1年生までをアメリカで過ごし,帰国した.
以下の写真は,僕のアメリカ時代のものだ.

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実に多国籍だ.
さほど鮮明に覚えているわけではないが,スペイン人の友人も韓国人の友人も,白人も黒人も,様々な人がいた.
だからこそ,日本に帰って来た時に,みんなが同じ方向を向いて静かに座り,そして同じタイミングで笑っている様子が,どこに違和感を覚えていた.

高校時代

それから時を経て,大きな違和感を抱いたのは,高校時代だった.

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(右側が高校時代の僕.髪の毛は,当時前髪だけオレンジ色でした.)

高校時代は,まさに反抗期ど真ん中であったということもあるが,何度も先生と戦ったことを覚えている.

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上記のような問いをひたすら投げていた.
当時のこの問いは,僕にとってはやりたくないがための屁理屈の導入だったような気もする.
しかし,こうした誰にでもふと湧き上がるような質問に対して,彼らは自らの言葉で答えられなかった.

「なぜ制服を着なければならないのか?」→「学校の秩序が〜〜.地域の住民からの視線が〜〜〜.」

僕が着なければならない理由として挙げられる答えとしては不十分だった.
僕自身が納得すれば着るし,そうでなければ着ない.
ただ,それだけのことだ.

「先生も着なくてもいいと思っている」
そんな一言でもよかったのかもしれない.
ただ,何か本心らしきものを見せずに,真正面から生徒と向き合わずに,上部の綺麗事を語るような大人に,心の底から失望したことを覚えている.

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当時の僕はとても未熟だった.
だから,先生に対して攻撃をした.
おかげさまで,2度の停学と校長訓戒(校長先生直々に説教をするというイベント)になった.
先ほども書いたように,確かに,僕がやりたくないから,それから逃げるための屁理屈の導入だった.
それでも,今振り返っても,これらの問いを自分の内側にしまい込まなかったこと,それは褒めてあげたいと思っている.
単発的にでも問いを立てるということは,この頃の反抗期の僕自身が身に付けたのだと思う.
それはそれで大事なことだったと,後々思う.

結局,「次問題を起こしたら退学」というチキンレースギリギリの所まで行って,なんとかギリギリで卒業できた.
卒業させてくれた先生方や荒ぶっていた僕を宥めて引き止めてくれた周りの友人には感謝している.
本当にありがとう.

浪人時代

高校3年の終わりに,ふと大学に行きたくなった.
これまでそんなことは考えたことがなかったし,偏差値50程度の高校で万年学年最下位だったので,行けるとも思ったことはなかった.
日本史のテストが帰ってくる度に,みんなに点数を聞かれたことは今でも覚えている.
公開で見せる僕の点数は,いつも10点台.
それでも,受験勉強に興味を持ち始めて,勉強した結果80点を超えるような結果もついて来た.
現役の大学受験では,どこの大学も引っ掛からなかったが,それでも勉強で成績が伸びる楽しさを感じ,浪人することを決意した.

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浪人してから(厳密には現役の受験ギリギリ前に),青藍義塾という塾に入塾した.
この名前は,
「青は藍より出でて,藍よりも青し」
という言葉から取っており,
「塾の講師に学び,何れそれを越えていって欲しい」
という願いを込めてつけられていた.

現在,この塾は,このような名前で運営されている.

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そう,ビリギャルで有名な,坪田信貴さんの経営している塾だった.

僕はこの塾で,とても大事なことを学んだ.
それは何より,今にも強く活きている問いを深掘るということだった.

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高校時代,単発的に立てていた問いの数々は,何ら物事を深く捉えることはしなかった.
ただ,瞬発的に,自分の気になることを聞いている子供と同じだった.
この塾では,何がわからないか,どう考えたのかをまず問われ,その上でどうやって考えたら答えが出そうかという動線を自ら導くために問いが投げられる.
この頃,これらを徹底的に身に付けたおかげで,今の物事の捉え方がある.
ここに僕の一つのルーツがあると言っても過言ではない.
それほど,大きな出会いであり,体験だった.

教育者としての過ちを振り返る

大学1回生の頃,ここまで言語化できていない自分の経験をもとに事業を立ち上げようと考えたことがあった.
あの頃,自分がその背景や理由から事業を立ち上げようとした際に,同様に教育分野で既に事業をされている大先輩の坪田先生に相談したことがあった.

彼はいくつか僕に質問をしてくれた.
その中で,今でも覚えているやりとりがある.

坪田先生「君は,その事業に一生を賭ける気なの?」
佐  竹「いえ,一生を賭ける気はありません!」

今振り返れば,とても舐めていると思う.
ここには,僕の二つの大きな過ちがあった.

1.誰かからの承認の手段としての事業化という選択肢
2.誰かの役に立つという上から目線での教育分野

1はよく言われる話だと思う.
今思えば事業化はかなりしんどい.
大変だ.
やりたかったことでさえ,とても苦しみ,悩み,もがきながら必死に進めていく.
前の見えない吹雪の中,それでもいつか晴れると信じてひたすらに歩むような感覚だ.

2はかなり致命的だ.
僕は,当時誰かの役に立っている感を感じたかったのだと思う.
そして,教育者と被教育者.
自分が教えてあげてる側に立つことで,優位なポジションを位置取り,自分に依存させようと思っていたのだと思う.
もちろんそうしてやろうと悪意を持っていたわけではないし,本気で何かできないかと考えていたとは思う.
それでも,後から振り返った時に,あの時自分がやろうとしていたことは,結局誰かよりも優位に立ち,誰かの役に立ち,僕に頼らせる構図を作らせようとしていたのだと思う.

これは教育者としての大きな過ちだ.
こうした教育者は,そもそも「青は藍より出でて,藍より青し」に反する.
自分に頼る構図の中でしか教育しないため,本当の意味では教育されない.
そして,恐らくそういう構図を作るための教育では,自分という藍の存在よりも青の存在が現れた時に,もしかしたら潰そうとする可能性がある.
今では,本当にあの時教育の事業をやらなくてよかったと思っている.
あのスタンスで僕は教育に携わるべきではなかった.
そこにストップをかけてくれた坪田先生には,本当に感謝しています.
ありがとうございます.

答えのない問いに向き合う世界へ

大学時代,僕は本当に友人関係に恵まれていたと思う.
出会った友人に紹介され,様々な場所へと足を運び,そして様々な機会に出会えた.
その中でも,くすのき学派という任意の団体に関われたことは,自分の中でとても大きな転機となった.

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(僕の人生の転機となった仲間たち.僕は今でも彼らの存在に支えている)

世界は,大きく揺れ動いている.
近代以降のパラダイムは,真実味を失い,そして未来は過去の直線上には存在しないかもしれない.
そんな時代を迎えた.
そうした未来に対して,問いというアプローチで向き合おうとしたのがくすのき学派だった.

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答えのない問いに対して,いかに向き合うのか.
これまで向き合って来た答えの出しやすい問いとは異なり,未来に対して本気で向き合う中で,それが正しいのか,答えなのかもわからず,それでも自分が信じたいものにひたすら向き合い続ける.
自分一人ではできないかもしれない.
それでも,仲間となら,きっとできる.
そんな感じがした.

問いも答えも,一人で抱え込まず,上から与えられるものでもなく,自ら問いを立て,そしてそれに対して自らの仮説とそれに対する検証をもってして答えていく.
その姿勢ができたのは間違いなく彼らに出会えたからだ.
本当にありがとう.

既存の教育の限界,そして未来の教育に想うこと

既存の教育は,特に地域では,親の価値観と公教育という仕組みに規定される.

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特に親の価値観は,子供へと再生産される.
近年「自己責任」の風潮が強いが,親だけで育てようと思うと,特にこの傾向が強くなる.
子供の価値観を親からだけ再生産して,それで立派に育てられるほど立派な価値観の親はいるのだろうか.

そして,教育機関は,僕が受けて来た教育のように,自己保身的であり,そしてさほど機能していない.
立派な想いを掲げていたとしても,それを教師一人ひとりに落とし込めているとも限らない.
生徒に接するのは現場の先生だ.
友人にも先生がいるので,先生が苦悩するのはわかる.
しかし,それでも,いや,だからこそ,公教育の限界を認めた上で,より広く世界に触れさせるべきではないだろうか.

これは,ある意味では,過去の自分に対しての言葉でもある.
5年前の自分に,言葉を届けるように,言葉を紡いだ.

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教育とは,いったい誰のためなのだろうか.
今自分が接している接し方は,いったい誰のためになるのだろうか.
教育者として,自己満足な教育をするべきではない.
自分のためではなく,本気で相手に向き合い,そして相手のための教育をするべきだ.
もしかしたら,もはや既存の"教育"という言葉で語ることに限界があるのかもしれない,そんなことを思いながら.

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教育とは,きっと補助に立つこと.
教えすぎれば,教えた気にはなれるだろう.
正解を導き出そうと助け舟を出しすぎれば,正解を導き出すことは得意になるかもしれない.

しかし,これからの時代,僕らが歩む世界というのは,答えがない.わからない.
そんな時代だ.
教えすぎれば,考える力を奪うかもしれない.
正解を導き出そうとすれば,正解のないものに向き合う力を奪うかもしれない.
そして,何より思考や合理性の限界を認識し,五感を通じた感覚や感情を感じることにも重きを置いていく必要があるだろう.
だからこそ,これから教育に携わる人間には,ぜひそこを意識してほしい.
そんな言葉で締め括った.

僕は,いかに教育と向き合うのか

正直,これから先,どのように教育の重点が変化していくのかはわからない.
だからこそ,社会の流れを抑えながら,根底と表層の流れの一致不一致を確かめながら,その都度大事にしたいことを抽出して向き合っていくしかない.
誰かが言った「死ぬまで学び続ける」というのは,自分のためのみならず,自分が教育者として,他者に向き合い続けるスタンスでもあるのだろう.
自分が今この瞬間踏み締める大地を見つめること,そして自らの上広がるに空の青さを知る.
自らが藍であることをただ嘆くのではなく,自らの藍という存在をもって青を生み出し続けたい.

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