memo(脳みその中)

※このnoteは、自身の思考のためのメモとして書かれたものであり、読者という存在を想定したものではない。ゆえに、説明に不足があったり、論理に飛躍があることもあるだろうが、ご容赦いただいきたい。また、コメントを頂いてもそれに答えられるかはわからない。

※このノートはある一つの仮定を築くために書かれるものであるが、結果的に僕の頭の中で考えていることを隈無く書き尽くすことになるだろう。そこで「公開」という形をとってみようと思う。ただ一度に書ききれるはずもなく、随時更新という都合上、わずかに期待される特異な「読者」のために有料設定とし更新の度に通知が行くようにする。本文は無料で全文読めるようにするつもりである。また、値段は予告なく変更される場合がある。

※また、僕が信仰を持っていないということもここに公言しておく。特定の神や思想といったものを賛美・宣教したり冒涜するような意図はない。純粋な思考実験として捉えていただけたら幸いに思う。


以下、本文である。



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存在に先んじて「予感」というものがあるとしたら。ということを考え始めたら収拾がつかなくなったので、メモとして残しておこうと思う。

散々考えた挙げ句、「存在に先んじて『予感』というものがあるとしたら。」という話になるかどうかもわからない。というか自信がない。

第三者から見たら非道く読みづらいものになるだろうが、書くことで自分の脳みそを整理いたいというのが目的であるから容赦していただきたい。

この考えにはいくつか前提があるのだが、どういう順番で考えたら良いものかわからないが、とにかく思いつくままに書き進めてみようと思う。

もくじ(随時更新)

1 永劫回帰について

2 時間について

3 存在しないが確かにあるものについて

4 存在するものすべては本質的に無意味である

5 すべての物事に意味がある(予定)

6 名前について(予定)

7 my神学論(予定)

その他 書く予定のもの・・・「予感について」「我々は永遠なるものを何も持ち得ない。ただそれに気付くことができるだけである。」「たとえばタイムマシンがあったとして過去に戻って歴史を変えたら何が起こるのか?」など(未定)


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まず「永劫回帰」というものに対する自分なりの考えが前提となる。

永劫回帰というのは、ニーチェの思想で「すべての瞬間が永遠に繰り返される」という感じの意味だが、まず僕が疑問に思ったのは「瞬間」とは何かということである。

「時間」とは何かということに関してはもしかしたら後で書き記すことになるかもしれないが、僕が行き着いたのは「永劫(永遠)」という次元においては時間は意味を持たないのではないかということだ。無限にあるものを数えるなんてナンセンスだということだ。

すると、そこでは1秒と1年は同じ重さ(質量)を持つことになる。(同じように重さを持たないと言った方が正確かもしれない。)

そこで「瞬間とは何か?」という問いに戻ると、瞬間とは1秒であり、同時に1年であり、また100年でもあるということになる。わかりにく表現になったので言い直すと、永劫という次元では、質量においては1秒=1年=100年と言えるので、1秒を「瞬間」と呼ぶとしたら、同じように1年、100年も「瞬間」と定義できるはずだということである。

つまり「すべての瞬間が永遠に繰り返される」ということは1秒が永遠に繰り返されると同時に1年が永遠に繰り返され、同時に100年が永遠に繰り返されているということになる。

たとえばA君が、中学の時に好きな子に告白しようか迷った挙げ句できなかったとして、その10年後Facebook上でその子の結婚式の写真を眺めながら「あの時告白しておけばよかったな。」と思ったとする。するとその途端、時は10年前の告白しようかどうか迷った時間に戻る、そしてなにが起こるかといえば、まったく同じことが繰り返されるのだ。それと同時に、中年になったA君が同窓会でまるまる太ったその子に会って「あの時告白しないでよかったな。」と思うと、やはり中学時代に時間は戻ってそこから同じ人生が繰り返されるのである。

つまりニーチェが言いたかったことは「人生は一度きりであり、死後別の人生が用意されているということはない。」ということなのではないだろうか。と、僕は考えたわけである。

しかしここでの要点はそこではなく、「永遠という次元では時間は意味を持たない」ということである。

時間が意味を持たないということは、空間が意味を持たないということである。(相対性理論によると確か時間と空間は一体であったはずだ。)

そして、あらゆる存在が意味を持たないということだ。強いて言えばただ「無意味」だけが意味を持つことになる。だから「『永遠』は『存在』するのか?」という問いは成り立たない。「永遠」は「存在」とは相容れないのだ。かと言って「永遠は存在を超越している。」という表現もしっくりこない。永遠は存在を包み込んでいるようで、存在の中に含有されているようでもある。とにかく「永遠」を語る時、言葉がとても不自由になる。差し当たって「永遠は存在しないが、確かにある。」と表現することにしている。「ある」とは「存在している」ということになってしまうのだが、ここでは便宜上別の意味合いの言葉として捉えて欲しい。

すると次に「存在しないが確かにあるもの」の話をするのがいいかと思うのだが、その前にここで「時間」について書き記しておこうと思う。

が、今日はここまでにしよう。つづきはまた今度。(2014.6.2)

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時間とは何か?と考えるようになったきっかけはやはり「瞬間」とは何かという問いである。

瞬間とは1秒であり1年でも100年でもあると前述したが、先ほどの話と区別しておくと、先ほどは永遠という次元においての話であったのに対し、今度は我々が生活している「時空の世界」においての話である。

「一瞬の出来事」とは一体何秒を指すのか?

そんな疑問を持った時、まず思ったのは「一瞬」とは時間の最小単位ではないかということだ。

では時間の最小単位とはどのくらいだろうか?1秒だろうか?いや、そうじゃない。1秒は0.1秒という単位に細分化できるからだ。では0.1秒だろうか?やはり違う0.1秒は0.01秒という単位に細分化できるからだ。

そうやって考えて行くと時間はどこまでも細分化できることになるから、結局「一瞬」は明確には定義できないのではないか?ということになる。

ここで思ったことがある。

時間とはそもそも数字のことなのか?

時間とは円盤の上やカレンダーに並んだ数字のことではないはずだ。

では時間とは何か?

それは目元や口元に刻まれてゆく皺である。少しずつ伸びてゆく爪や髪の毛だ。海に溶けてゆく太陽であり、花が咲き、枯れてゆくことである。

つまり「時間」とは「運動」なのだ。

心臓の筋肉が鼓動すること、果物が酸化して腐ってゆくこと、水分が蒸発して水たまりが乾いてゆくこと、それらのすべてが運動なのだ。

すると時間とは、あらゆる個別の運動のことであるから、

世界に一定の時間が流れているのではなく、世界とは個別の時間の集合体であると言えるのである。

ここで「瞬間」とは何か?という問いに戻ろう。

瞬間の「瞬」という字は「瞬く(またたく)」という意味だ。

「瞬間」とは「瞬く間」であるから、「一回のまばたきの間の時間」が「瞬間」であるということができる。つまり、瞬間とは秒数で定義できるものではなく、「運動」によって定義される言葉なのである。

しかし、一回のまばたきに要する時間は人によって違うはずだ。まばたきに0.2秒かかる人もいれば、0.001でできてしまう人もいるかもしれない。更に言えば、同じ人でも毎回同じ秒数でまばたきしているとは限らない。

すると「瞬間」の長さは人によって違うということが言えるはずである。

これは「時間」においても言えることで、人によって流れている時間の速さは違うということになる。(更に言えば、人の中でも器官・細胞ごとに流れる時間は異なっており、一人の人間に流れている時間はその総体であるということになるが、そこまでいくと想像の域を脱することになりそうだ。)

だから同じ歳の人でも同じようには老けていないはずだし、同じ歳の感じ方はしていないはずである。当然同じ一年でもその中で流れた時間の量は人によって違うということになる。だから40歳で死んだから早死にで、100歳まで生きたから長生きだとは一概には言えない。歳を多く取っているから偉いとも当然言えない。

一人に人間に流れる時間の速さや量を測る尺度は存在しないが、同じ数的時間の中でもたくさん運動している人の方が長く生きていると言えるのだ。(一応補足しておくと、運動とはあらゆるレベルで起こっている物質の移動・収縮・膨張・生成・消滅などなどを指した言葉であり、ここでは必ずしも筋肉運動やエクササイズのことを言っているわけではない。)

補足した通り、運動とは物質運動であるから、その点で相対性理論のいう「時間と空間は一体」という理論とも矛盾しないはずだ。きっと。(空間は物理運動によって成り立っているはずだから。)

さらに相対性理論では「光速に近づくと時間の速さが変わる」というようなことを言っているわけだが、言って見ればそれも光速「運動」のことであるから大体同じことを言っていることになるわけだ。(ん?ということは僕がこれまでたらたらと述べて来たことはすでに色んなところで何百回も繰り返し述べられて来たことなのか?まあ、いいや。これは自分の文学的世界のための記述でいるのだから。)

と、ここまで時間について長々と思ったことを書き連ねてきたわけだが、あることに気がついた。

本旨と関係ないのではないだろうか?いや、それどころかこの後書こうとしている内容と事によると矛盾するのではないだろうか?いや、やっぱり矛盾しないかもしれない。わからない。まあいいや。今日はここまでにしよう(2014.6.9)

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「存在しないが確かにある」ものがある。いくつもある。

たとえば心がそうであり、あらゆる感情がそうである。

もちろん感情にはその原因物質はあるのだろう。オキントシンとかセロトニンとかアドレナリンとかそういうやつ。でもそれはあくまで原因物質であって、感情そのものではないはずだ。

心はどこに在るのだろう?という疑問については誰もが考えたことがあるのではないだろうか?たいてい胸の中か脳みそにあるというところに落ち着くのではないだろうか。

僕の場合、心が本当に満たされると、胸のあたりに物質感のあるざわめきが起こる。

じゃあ、「心は胸の中にある」ということで。

と片付けてしまっていないだろうか?(そう片付けることに全く問題はないのだが。)

じゃあ、胸の中に「心」という臓器があるかというとないわけで、そんな生々しい「こゝろ」があっては文学にもならないだろう。

では心はどこに在るのか。

どこにもない。というのが答えだろう。

心は存在しない。当たり前といえば当たり前のことだ。

じゃあどうして涙が溢れて来るのだろう。どうして人に会いたくなったり会いたくなくなったりするのだろう。

それは心の作用によるものだ。としか言いようがない。

心は存在しないのに、作用しているのか?

そう、心は存在しないのに作用しているのだ。

じゃあ心とは何なのか?

心とは現象である。(今思いついた)

あらゆる感情もそうだ。

現象とは何だろうか?

現象とは物質の反応と運動、その過程や結果、あるいはそれらの総体。だろうか?(考えがまとまらない。)

ともかく、一旦「存在しないが確かにあるもの」=「現象」ということにしておこう。

身近な例をあげると、雨は現象だろう。

雨は存在しないのか?

そうだ。雨は存在しない。存在しているのは水。雨は現象であり、物質ではない。だから雨は「永遠なるもの」といえる。存在しないものだけが永遠なのだ。

では、同じく現象としての「心」はやはり永遠なのか?

やはり永遠なのだ。永遠なのではないだろうか?(というのがこの文章全体のテーマでもあるので、ここで簡単に結論づけることはできないが)

心が永遠だと言うと、霊魂やら死後の世界というものに簡単に結びついてしまいそうだが、そうではない。ただ、仏教の輪廻転生に出て来る阿頼耶識に近いイメージを僕は持っている。ただ僕は輪廻転生自体を支持しないので、やはり阿頼耶識とも違うものだということになる。(阿頼耶識については三島由紀夫「豊穣の海」で読んでそのほんの一部を理解しただけなので引き合いに出すのは憚れるのだが。)

心が現象ならば、「個人としての人間存在」そのものが一つの現象であるとも言える。

しかし、肉体は老い、そして死ぬ。肉体が死んだ時、永遠なる心はどうなるのか?

うまく説明できないが、それは雨が止むのと同じことである。雨が止んだからといって、雨が消滅したとは言えない。かといって、その雨の霊魂が漂っているとも言えない。またどこかで雨は降るし、厳密に同じ雨は二度と起こらないかもしれないが、雨は現象であり、現象とは反応と運動と過程と結果であるからそこで同一性というものは問題ではなくなる。

つまり、ある個人の人生(あるいは心)というのはそれ自体ひとつの現象に過ぎず、それが個人の所有物であるかの思うのは錯覚なのだ。

現象はどこにでも起こりうる。たとえ砂漠でも、条件が揃えば雨は降る。雨という現象は砂漠にでさえその発生の可能性を持っている。その発生の可能性を「予感」と呼ぶことにしようと思う。理由は単純で「予感」という語呂が個人的に好きだからである。

少し話を戻すと、人生や心は個人の所有物ではないのだから、自分が自分である必然性はないのだということになる。では自分が存在している意味は何なのか?あるいは人生に意味などないのだろうか?

この次は「存在するものは本質的に無意味である。」ということについて書こうと思う。(こういうネガティブな内容は疎まれそうなので、先に言っておくと、更にその次には「存在するものすべてに等しく意味がある」ということについて書こうと思っている。)

余談になるが、今回書いた「存在しないが確かにあるもの」について初めて考えたのは、祖母が亡くなってしばらく経ってからのことであった。詳しくは書かないが、ふと祖母の中にあったであろう意志が自分の中に根付いていることに気が付いたからだ。単純に祖母の言葉が自分に影響しているとも言えるのだが、その意志はまるで自分のものであるかのように思えるほど深く根付いており、自分のあらゆる行動や態度に透徹されるようになっていたのだ。その時、実感として「確かにある」と思ったのだ。

今日はあまり頭が冴えていなくてうまく説明できていないこととか、前述したこととの矛盾がありそうな気もするのだけど、気にしない、気にしない。(2014.6.29)


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人生に意味などあるのだろうか?

と、センチメンタルな気分になったことは誰にでも一度や二度あることだと思う。

僕もこのことについては何度も考えたことがある。

そして、その度に絶望的な気持ちになるものだ。

なぜなら、どう考えても人生には意味がないからだ。

それどころか、存在するあらゆるものは本質的には意味がないといえる。

休日の昼時、渋谷のスクランブル交差点で信号を待っていると途方もない気分になる。

眼前には夥しい数の人がいて、信号が青になると、その夥しい数の人々が近寄って来て、夥しい数の人々とすれ違うことになる。

その時、ふと思うのだ。

たとえば今この世界から僕が消えたとして、何かが変わるだろうか?

今、目の前にいる人々のうちの誰か一人でも困ることがあるのだろうか?と。

きっと何も変わらない。少なくとも、目の前の夥しい数の人のうちの誰も困らないだろう。

確かに僕がこの世界からいなくなったら困る人だっているし、知らず知らず誰かに影響を及ぼしていることもあるかもしれない。

しかし、この星から人がいつかいなくなるとして、あるいは地球そのものがなくなる時が来るとして、その時、僕がこの世界に生きていた意味はあるのかと考えれば、当然意味なしということになる。

人類が滅亡した時の話や地球がなくなる時の話を引き合いに出すなんて大袈裟だし、それを言っちゃあ元も子もないだろうという風にも思われるだろうが、今言いたいのはその元も子もなくなった時、何かひとつでも意味を持つものがあるだろうか?ということなのだ。(その辺の話は以前書いた短編でも示唆しているので、よかったら読んでほしい。)

そう考えると、存在するすべてのものは最終的には意味がないということになる。

別の言い方をしよう。

そもそも「意味」とは何だろうか?

意味とは「言葉の表す内容」という意味の言葉だ。

こういう言い方をするとややこしいので、便宜的に意味=言葉である。ということにしておこうと思う。少なくとも意味と言葉とは切り離せない関係にある。

では僕は言葉だろうか?

「僕」は言葉だが、「僕という存在」は言葉ではない。

僕は「高山康平」という「人間」の「男」である。

そして僕は「高山康平」、「人間」、「男」という言葉から切り離されたとしても尚ここに存在する。

あらゆる存在がそうだ。あらゆる存在は言葉と切り離されたとしても存在することをやめない。

意味=言葉であるから、つまりあらゆる存在は意味と切り離されたとしても尚存在するということになる。(もしそうでなければ、言葉を知らない赤子にとって世界は存在しないことになる。)

まだ誰にも発見されたことのない花がどこかにあるとして、その花には当然名前もなければ、誰かに知覚されたこともない。それでもその花は存在している。「意味」からまったく解放されて。(「存在」すること自体が一つの意味だとすればその花は存在しないことになるが、話をややこしくしたくないし、どちらかの立場に立たなければ話は進まない。)

このように存在するすべてのものは本質的には意味を持っていないのだ。(本質的に意味を持っているものがあるとすれば、それは言葉によって存在しているものだ。たとえば「神様」がそうだ。しかし、その話はもう少し後でしよう。)

この後の話のためにひとつだけ付け加えておこう、

存在するすべてのものは本質的には等しく無意味である。

特に説明は必要ないだろう。最後に昔Twitterで投稿した短い詩を添えておく。それではまた。(2014.7.15)

”海は本当は美しくはない。汚くもないし、優しくもなければ恐ろしくもない。

海は海でしかない。いや、本当は海ですらないかもしれない。

しかし言葉は海を美しくしたり、優しくしたりする。

どんなものでも言葉になった途端に無垢ではなくなる。”

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