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『演技と身体』Vol.51 サブテキストの活用とクオリア

サブテキストの活用とクオリア

『世界は時間でできている: ベルクソン時間哲学入門』(著:平井靖史)を読んでいるのだが、すこぶる面白い。まだ読み途中なのだが、演技に敷衍できそうな重要な示唆があったので、思いついたままに書こうと思った次第である。

サブテキストの有効性と弊害

〈役の設定〉について僕は従来から、脚本に書かれていない設定は不要であるという立場を取ってきた。物語とは明らかに人生や生活の抜粋であり、〈物語の外〉が必ず存在するのだ。そしてその〈物語の外〉を汲み尽くすことはできない以上、そのうちのいくつかを恣意的にピックアップして設定することは役者の自己満足にこそなるかもしれないが、作品に貢献することはない。演技は基本的には“今ここ”で周囲との関係において創発するものなのだ。(詳しくはVol.17脚本の読み取り①
しかし、時に役の背景や設定が役に立つこともあるかもしれない。むしろ“今ここ”から離れて想起的な感情を表現するような場合などだ。あるいは、役全体の方向性をイメージするために設定を決めることがうまく機能することもあるかもしれない。あるいは、不要だとわかっていても自然と想像してしまうこともあるだろう。(そもそも物語の内外の境界も曖昧だ。)
そのように役の背景を設計したものは、しばしサブテキストと呼ばれ、多くの役者が実践しているだろう。
ただし、場合によってはこうしたサブテキストは不要であるだけでなく有害になることもある。サブテキストに固執するあまり、目の前の相手が見えなくなったり自己完結的な演技となるような場合である。
そこで、サブテキストをどのように位置付けて扱うべきかということが重要になる。

クオリアと〈素材〉

さて、本の話に戻ろう。
この本の指摘でまず重要に思われたのが、〈素材〉についてである。
まず「クオリア」という言葉を紹介しておこう。「クオリア」とは、「私たちの一人称体験が備えている感覚の質」のことで、物事を体験した時にそれが「どんな感じなのか」という内的な感触のことである。
演技で言えば、演じている時の“感情の実感”がクオリアであり、それがなければ演技は白けたものになることは自明である。
そして、この本ではクオリアの〈素材〉について議論が展開されている。世界を物理的に説明したとき、そこにあるのは量的な世界であり質は現れてこない。赤と青の違いは、光の波長の違いに還元されてしまい、質的な違いはなくなってしまう。しかし、人間は赤と青を質的に区別して体験することができる。それはどのようにしてだろうか。
まず思い浮かぶのは、脳の中でクオリアが生成されるという案だ。しかし、ここで〈素材〉が問題になる。つまり、何の素材もなしに脳がクオリアを作り出すことはできないはずだということである。0から1を作り出せるのは神話の中だけであり、現実には質量保存の法則が立ちはだかるのだ。つまり、クオリアが脳の中で生成されるにしても、何かしらの〈素材〉が必要になるというわけだ。
細かい説明を省いて結果だけを書くと、クオリアは感覚からこぼれ落ちた量が質に変換されることによって生じるのである。人間の感覚ははあまりに速すぎるものや遅すぎるものを捉えることができない。赤の光の波は人間の感覚で捉えきれない速さで振動しており、人間はそれを粗視化して知覚している。そして、その時、感覚からこぼれ落ちる細部が質に変換されるというわけだ。
細かい議論はここではよい。重要なのは、脳は0からクオリアを生み出すことができないという点だ。

感情クオリアの素材

感情のクオリアも同様に0から生み出されることはない。必ず〈素材〉が必要なのだ。
そこでまずは目の前の相手や周囲の環境が重視されなければいけない。目の前にいる相手は物理的な存在であり、それは十分に感情の素材になりうる。僕が身体性を重視するのはこのような理由にもよる。
問題はサブテキストに素材を求めようとした場合である。素材を周りに求められない状況やそうすべきでない場面ではサブテキストから感情クオリアの素材を得るしかなくなる。
しかし、サブテキストは端的に言って、言葉であり観念である。サブテキストがそれ自体でそのまま感情クオリアの素材になることはない。ではサブテキストが機能するのはどのような場合であろうか。
それは、サブテキストが役者自身の過去の体験を想起させたり重ね合わさる場合である。

「過去の体験」を素材とする

ここでもう一つ本の内容を紹介しよう。この本では、人格が体験によって構成されることが説明されている。(実際にはもっと特殊な意味があるが、ここでは単純化しておこう。)
ごく簡単にいうと、過去のすべての体験は現在において持続しているのである。よくわからないかもしれないが、重要なのは「過去の体験」と「想像」の違いだ。「過去の体験」も「想像」もイメージとして想起できる点では同じだが、「過去の体験」にはクオリアが伴う。つまり、体験した時の質感まで想起することができるのだ。この違いは演技において決定的である。
ここから言えることは、「過去の体験」は“今ここ”の感情の素材になりうるが、単なる「想像」は素材にならないということだ。
すると、サブテキストについて考えるとき、それが役者自身の過去の体験と結びつくか否かが重要な違いとなる。単なる思いつきではまるで役に立たない。
すると、サブテキストを有効に使うためには役者が自分の過去に直面しなければいけないという事態が生じるわけだが、その作業は常に安全なものとは限らない。場合によってはトラウマや羞恥を呼び起こすことにもなるからである。その点についてはVol.20役者という仕事の回でも触れているので、ご参照いただきたい。
(また、「人格が体験によって構成される」ということからは、役というものが役者自身から離れて存在することはないということが言える。つまり自分を離れて役になり切ることはできない。)

イメージは本当に素材にならないのか

もっとも、サブテキストの創造に当たって絶対に過去の体験を素材としなければいけないのかは議論の余地がある。
スポーツや楽器のトレーニングにおいてはイメージトレーニングの効果が実証されており、イメージが実践の代用となることがわかっている。しかし、イメージトレーニングが有効なのは実際に体験したことがあるものに限られるらしく、やはりそこでは過去の体験が素材として機能している。
あるいは、夢を見ている時にクオリアを感じるということがあるかもしれない。夢は実際の体験ではなくイメージである。すると、イメージからクオリアが得られることもあるように思えてくる。しかし、夢とは記憶の整理であり、やはり過去の体験を素材にして構成されている。
すると、当座言えることはイメージはそれ単体でクオリアの素材になることはなく、想起的なクオリアには過去の体験の素材が必要であるが、それは間接的に利用することができるかもしれないということである。その方法論は、さらなる考察と実践によって作られるものである。
サブテキストを利用するなら以上のことに注意しなければならない。


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