情に棹さして流されたい

智に働けば角が立つ情に棹させば流される意地を通せば窮屈だとかくに、人の世は住みにくい

夏目漱石「草枕」

こう急に秋めいてくるとぼんやりしてしまう。ぼんやりついでに『エドワード・ヤンの恋愛時代』という1994年の映画を観に行ってきた。
経済発展に華やぐ台北で、智に働き意地を通そうとしながらも結局は情に流されてしまう男女の群像劇だ。
映画館を出て新宿の街を歩いていて、人々が情に流されていた時代は終わってしまったのかもしれないとしんみり思った。
今はみんながみんな智に働こうとあくせくしているように見える。コスパとかタイパとか、そういう言葉は元々はケチな人間が使うものではなかっただろうか。それがいつの間にやらスマートさの物差しになっている。
しかも、現代は智に働いても角すら立たない。皆がそれぞれスマホの小さな画面の中でそれぞれ一生懸命に智を働かせているだけだ。角が立つのはやっぱりそこに情が流れているからである。
映画の中で、登場人物たちが口々に「寂しいんだ」と言うのが印象的だった。
思えば「源氏物語」なんかでも光源氏が意中の女性にみっともなく縋り付く描写が多い。そっけなくしていた女性も、つい流されてしまったりする。
昨日、新宿御苑の緑の中で寝転がっていたら、近くで若い男が投資の話で盛り上がっていた。彼らは絶対に「寂しいんだ」とは言わなそうだ。
僕もいつかは「寂しいんだ」と言ってみたいし言われてみたい。そう思いつつ、絶対言わなそうだなとも思う。

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