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『演技と身体』Vol.50 内臓一元論③ 内臓と身体意識

内臓一元論③内臓と身体意識

前々回の記事では内臓感覚と感情の結びつきを確認した上で内臓が無意識の領域に属することを説明した。
また前回の記事では、内臓感覚を活性化させるための身体の使い方などについてお話した。
今回はより積極的な内臓への働きかけを考える。

内臓反応をいかに方向づけするか

内臓感覚が無意識の感覚なのだとすると、そこを意識的に動かすことは難しいし、狙った感情に簡単になれちゃうのもちょっと白ける。感情はあくまで自然と湧き上がってくるものだからこそ観ていても意表を突かれるわけである。
かと言って、演技が行われるのはそもそも自然な場ではないので、表現として自分を方向づけする必要がある。
前回の内容は、あくまで内臓への余計な負荷を減らして、環境への反応を高めるもので、方向づけを含んではいない。
では、無意識である内臓反応を方向づけするにはどのような方法が考えられるだろうか。

動いてはいけない

それは体に制限を課すことだ。
感情とは人類が進化の中で手に入れたものだが、周囲の環境の中で身体のホメオスタシス(恒常性)を維持する上で役に立ったからこそこれほどまでに発達したものと考えられる。
そこで体の動きに強い制限を加えると、身体は環境との不調和を感じ取り内臓が反応し始めるわけだ。
役者の中にはとにかく動きたがる者が多い。セリフのない時でも常に何か動いていなければ気が済まないようだ。しかし、そのような自由を体に与えてしまうと感情的な昂りは弱くなってしまう。無理やり引っ張り出したような感情表現になってしまうのだ。
必要がなければ動かない。必要があっても必要以上に大きく動かない。抑制を効かせることが大切だ。当然だが、これはただぼんやりしていて良いという意味ではない。動いていない時でも気を張っていなければいけないし、動いてはいけないという制約を課した結果の「動かない」なのだ。

意識と無意識の対決

ところでこれは意識の話である。
「何がなんでも絶対に動いてはいけない」という意識を持つのだ。だが結果としてまったく動かなかったら演技にならない。
前回の記事で注意の向け方の重要性を説明したが、この時注意が自分の身体で完結していたら、実際に全く動かないだろうし、それはひどく退屈な表現になるだろう。
ところが、注意を相手や周囲に向けていたらどうだろうか。相手や周囲からの刺激を受け取って内臓は反応しているが体に制限を加えることで表現に蓋をすることになる。表出されずに押さえ込まれた内臓反応はますます大きく活動するようになる。そして、内臓反応は無意識なのであった。
ここに意識と無意識の対決が起こるわけである。

感情の揺らぎ

さて、意識と無意識の対決が起こるとまず感情の揺らぎが発生する。
この揺らぎ自体をある種の発声技術として使える人もいて、それはそれで結構なのだが、その器用さが表に立ちすぎて内面的な高まりが伴っていない感がある。
意識と無意識の対決による揺らぎは両者の押し合いによって生まれる微妙なもので、正確にコントロールすることができない分、観ている側にとっても予測がしにくいのは良い点である。
さらに、その対決は膠着状態を抜けて、どちらかの勝利に終わる。つまり変化する。
感情的な昂りが強ければ無意識が意識を突き破って表出することになる。感情がただ表出されるのではなく、意識による制限を突き破って出てくるのだ。
感情の昂りが十分でなければ意識による抑制が勝つこともあるかもしれない。しかし、それは一時的なものだろう。抑制されたとて、感情の昂りが消えるわけではない。それはさらに抑圧を受けて燻ることになるのだ。だから、十分に感情が高まらなければ無理に出すのではなく抑えてしまった方が状況によっては良いかもしれない。そうすれば次の機会(次のテイクや次のシーン)でより良い表現が実現されることになるだろう。

制約と離見

このように、身体的な制約を自らに課すことによって却って内臓反応を高めることは、世阿弥の言う「離見の見」を実現する方便になるのではないかと僕は考えている。詳しくはVol.21離見の見で解説しているが、自分の身体に制限をかけて意識し続けるということは自分の姿を客観的に捉えるということに他ならない
そしてその意識が全身・全方位に行き届いた時に「離見の見」が獲得されるのだ。
身体への意識を全身・全方位に行き届かせるためには、ボディ・マップを開発することや、意識のサイズを拡張することなどが考えられる。
また、体に制限をかける具体的な方法はVol.16演技のドラマ性が参考になるかもしれない。

さて、1年に渡って展開してきた演技論を「内臓一元論」の名の下に3回でまとめてみた。
この連載を始めた経緯を話すと、元々僕は日本の俳優の演技の水準ははっきり言って低すぎると感じていて、しかもアカデミックなアプローチを毛嫌いする傾向に不満を持っていたのだが、ある映画のキャストの選考過程で多くの役者と対話して、彼らがとても真剣に演技について考え努力していることを知って非常に胸を打たれたのである。彼らの悩みの多くは、演技を学ぶ上で拠り所にできるものが少ない上に広く知られていなかったりアクセスしにくかったりする現状に起因しているように思われたのだ。
他方、何かの記事で能楽師の体内ではアスリート並みのエネルギーが使われていると知り、日本の演技の水準を改善するのに海外に範を求めるのではなく、650年続く日本の伝統芸能から何か掴むことはできないかと考えたのだ。すると、能の動きでは深層筋が重要な働きをしているとわかり、そこから芋づる式に様々な身体論と出会ったというわけである。
ワークショップや舞台の演出を通して、できるだけこれらの理論を実践してきた。まだ課題も多く徹底するには長い時間が必要ではあるが、理論の大きな方向性については強い確信を持つに至った。
誰の目にもわかるような効果を上げるにはまだまだ時間がかかるだろうと思うが、修正を加えながら理論の精度を上げていく所存である。
定期更新は一度ここで終わりにするが、まだ世阿弥の伝書の紹介をやり残しているので、今後も不定期で続けていきたいのでよろしくね。


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