【短編小説】老木と雲

晴れ渡った空のあちらこちらに小さな雲が浮かんでいた。

今にも消えてしまいそうな小さな雲たちは、実際に消えてしまうものもいたが、様々に形を変えながらもかろうじて形を保ちながら、風まかせに空を漂っていた。

海を一つ越えて、小さな島に辿り着くと、島の中央に大きな山が見えた。

雲たちは風が吹くままにその山に向かって流れて行った。しかし、風は山にぶつかるとそこで吹くのをやめてしまった。流されて来た雲たちも、流れるのをやめ、仕方なく山際に居座ることにした。

すると、後からさらに雲たちがやってきて、散り散りになっていた雲たちは山際に群がった。消えそうなほど小さかった雲たちは、少しずつ合わさってやがて大きなひとつの雲となった。それも始めはうっすらとした雲の広がりであったが、どんどん密集していくと、触れそうなほどはっきりとした白のかたまりとなった。と、同時にその大きな雲にははっきりとした意識が目覚めていった。

雲は初めて世界を眺めるようにして辺りを見回した。そのすべてが雲にとっては初めて見るものの様に新鮮であり、同時に雲は散り散りになったかすかな記憶からそれらを初めからから知っているような気もした。

雲はしばらく自分が渡って来た海を眺めていた。海は雲にとって母親である。いつまでも見ていられるような気もしたが、わずかな時間の間に雲の意識はどんどん成長し、海以外のものへの興味が湧いて来た。

山の麓を見ると、老いた木が立っていた。

雲はどんなに記憶を探ってもこんなに老いた木をそれまで知らなかった。それでいて雲にはその木がとても老いていることがわかった。

「いつからそこに立っているの?」

雲は老木に話しかけた。

老木は返事をしなかった。

眠っているのだろうか。しかし雲はどうしてもその老木と話がしてみたい気になった。そのためならいつまでも待っていられそうに思えた。

一晩が経った。

「誰か私に話かけたかな?」

朝陽と共に静かに目を覚ました老木が言った。

雲は夜の間中待っていたのだが、その間にも雲は後からどんどん集まってきて合わさり、昨日よりもずっと大きな意識のかたまりとなっていた。

「おはようございます。あなたとお話できますか?」

「ああ、なんだ雲か。こんなに大きな雲は久しぶりに見たな。」

「どのくらいぶりですか?」

「さあ。覚えていないよ。」

「いつからここに立っているのですか?」

「それも覚えていないな。ずいぶん昔からだ。」

「昔の世界はどんなだったんですか?」

「美しい時もあればそうでない時もあったよ。でもそれは今も同じさ。美しい日もあればそうでない日もあるだろう。昔のことはむしろ君の方がよく知っているだろう。何しろ雲は私が生まれる前からあったからね。」

「僕はつい数日前にできたばかりなんです。」

「君は数日前にできたかもしれないが、その元になっているものは昔からずっと変わらずに循環しているはずだ。よく思い出して見なさい。」

「それがひどく曖昧なんです。僕の身体はそれぞれ色んな所を旅してそれを記憶しているのかもしれませんが、僕はやっぱり思い出せないんです。」

「残念ながら私も同じだよ。歳を取ると記憶がひどく曖昧になってくる。確かにこの目で見たのに、どうにも思い出せないことだらけだ。」

「歳を取るってどんな気持ちですか?」

「君は歳を取らないのかね?」

「雨になったり、海になったり、空気になってそれからまた雲になったりしていつも形を変えているから、歳は取らないんです。」

「そうか、知らなかったよ。歳を取っても知らないことだらけだな。」

「ねえ、どんな気分なんですか?歳を取るって。」

「さあ、どんなだろうね。それでも知っていることは増えるかもしれないなあ。できるようになることも増える。でも、同時に多くのことを忘れて行くし、できないようになることも増えてくる。」

「それじゃあ、あまり変わらないですね。」

「そんなことはないよ。歳を取ると少しずつ強くなっていくし、少しずつ弱くなっていくんだよ。」

「強くなるんですか?それとも弱くなるんですか?」

「どっちともだよ。」

「よくわからないけど、なんだか楽しそうですね。歳を取るって。」

「楽しいことばかりじゃないさ。大きな台風に吹かれたり、雷がすぐ近くに落ちたりすることもあった。」

「ああ、本当に申し訳ない。僕は天敵だったんですね。」

「天敵とこうして話ができるようになったのも歳を取ったおかげかもしれないね。昔は本当に腹を立てていたんだ。虫や動物たちは私の陰に隠れるのに、どうして自分ばかりが風に吹かれなくちゃいけないのかって。でもある時、雨の降らない日が続いたんだ。その時、初めて雲がなければ自分たちが生きて行けないことに気がついたのだよ。」

「僕たちはわざと台風や雷を起こしているわけじゃないけど、やっぱりみんなのために雨を降らせているわけでもないんです。ただそれが僕たちにとって自然なことだからそうしているだけで。」

「ほう、そうだったのか。また一つ君から学んだな。歳を取らない君から。」

「僕も多くのことをあなたから学びました。」

「私からも質問をしていいかね?」

「いいですよ。ぜひ。」

「君は歳を取らないけど、生きていて楽しいかい?」

「楽しいけど、それだけじゃない気もします。」

「そうか、やっぱり私と一緒だな。」

「そうですね。」

「歳を取ることが楽しいんじゃなく、生きることが楽しいんだなきっと。苦しみもまた同じさ。」

いつの間にか雲は島を覆い尽くすほど大きくなっていた。白かった雲はくすみ始めていて、時たまゴロゴロと身体をうならせていた。

「そろそろ雨が降るかな。」

「僕もそんな気がします。」

大粒の雨が老木の真上に落ちると、葉から葉へと伝って滴った。

「これはひどい雨になりそうだ。」

「恨まないでくださいね。」

「恨まないさ。」

すぐに大雨になった。虫や動物たちはすでに老木の陰に隠れている。

雨は七日間降り続いた。雲はあちこちに雷を落としながら、少しずつ少しずつ海を渡り始めた。

雨を降らせながら、雲は少しずつ小さくなっていき、沖に出る頃にはまたうっすらとした広がりとなっていた。

同時に雲の意識はぼんやりと消えてしまおうとしていた。雲は名残惜しい気持ちにもなったが、やはり消えて行くのが自然なことだとも思った。

雲はその記憶を雨粒に託して、少しずつ少しずつ海と空気に還っていった。



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