【随想】天気の話の話

梅雨入りしたらしい。だろうね、といった感じの雨模様の一日だった。雨それ自体はたまに降るくらいなら、「たまには雨もいいね」なんて思えるけれど、あまり続くと滅入る。去年の夏や一昨年の秋には一ヶ月ほとんど雨か曇りなんて月があって、あれには参った。あの時ほど毎日天気予報をすがるように眺めたことはなかった。
しかし、天気の話というのは大変都合がいい。昨日もエレベーターで年配の同僚と一緒になって、あまり話す気分ではなかったけれど気まずかったので「暑いですね」ととりあえず言ったら非常に当たり障りのない会話運びができたのだった。昨日が暑くて本当によかったなと思った次第だが、何、寒ければ「寒いですね」といえばいいし、雨なら「雨ですね」と言えばいいのだ。梅雨になったら「梅雨ですね」、もうすぐ春なら「もうすぐ春ですね」だ。
実は以前は天気の話をするのはなんだかズルいような気がしてあまりしないようにしていたのだが、こうも便利だとわかってしまうとやめられなくなってしまうものだ。そして、天気の話をするようになって思ったことがある。「今年は暑いですな」なんて会話をみんなよくしているし、僕も使うフレーズではあるのだけど、「今年は暑いですな」ってなんとなく例年比で言っているような言葉のニュアンスがあって、でもみんな例えば去年の夏が特別暑かったかそれとも並だったかなんて覚えているのだろうか。
僕は覚えていない。去年の夏が暑かったか、桜が咲くのが早かったか、台風が多かったか、全く覚えていないのだ。しかし、それでも「今年は暑いね」とあたかも例年と比べているかのような口ぶりで言っている。そして実はみんなそうなんじゃないかと思っているし、できればそうであって欲しいとさえ思っている。
季節や天気を感じることは知覚行為であってある種の感情でさえあると言って良い。「今が一番幸せです」という表現は「非常に幸せの度合いが高い」という感情表現であって、「統計を取り始めた2001年からでオキントシンの分泌量が最大値である」というような意味では決してない。同様に、「今年は暑いね」は「とても暑いね」という知覚を表しているに過ぎないし、「去年と比べて暑いね」の意味よりそっちの方がずっと良い。
しかし、近年どうやら「〜年ぶりの・・・」みたいなのが多くて大変興ざめしている。この間、数日冷える日が続いて友人に「寒いねしかし」と言ったら「この時期で3日続けて15度を下回るのは20年ぶりらしいよ」と返された。まあ、たかが天気の話だしそのまま適当な相槌を打って流してもよかったのだが、その時はなぜだか急にムカついてきて、「それを聞いて一体何を感じればいいの!?」と詰め寄ってしまった。分かち合いたいのは今寒いよねという感覚であって、その感覚の客観的な正当性を証明したい訳ではないのだ。
スーパームーンにしたってそうだ。「〜年に一度のスーパームーン」という言葉でまくし立てて、写真を撮って満足している。今や人々は言葉とカメラで月を眺めているのだ。「月が綺麗ですね」は「〜年に一度の」という条件付きのものになりつつあるのだろうか。
そんな想いから書いた掌編小説があったのを思い出したので貼っておく。
【掌編小説】「通勤・通学中に電車の中でつぶやくだけ」の仕事
https://note.mu/koheitakayama/n/n5bc47973c097
  

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