【短編】いつか風が吹く日を待っていた

いつまでも偶然を待たねばならない程、ぼくたちは愚かで臆病だった。


ぼくは特にサッカーがうまいわけでもなければ球を蹴ることに特別な情熱を燃やしていたわけでもなかった。スパイクはワゴンに積まれていた一番安いものを買っていたし、背番号も出来るだけ目立たない数字を選んでいた。それでもぼくがサッカー部を辞めずにいたのは澤村がマネージャーだったからだと思う。

澤村はぼくより一つ下の学年で、ぼくが2年生になって部活を続けることに特別な意味を感じなくなっていた頃に友達と一緒にマネージャーとして入って来た。

澤村は終始伏し目がちで、友達に誘われてなんとなく入ったような、そんな印象だった。上級生のマネージャーに対してもうまく受け答えできず、動くのも話すのも遅い。いかにもマネージャーには向いていないように思えた。

澤村はサッカーにもまるで無知だった。同級生はそんな澤村に何度もオフサイドが何なのか、アディショナルタイムが何なのか教示していたが、澤村は一向にそれらを覚える様子もなかった。

この子はきっとすぐに辞めてしまうだろう。そう思った。

それならその時にぼくも一緒に辞めようか。なんとなくそう思った。

思えばその時からぼくは澤村が気になっていたのだと思う。はっきりと好きだと自覚していたわけでもなければ、顔が好みだったということもない。ただ気になっていただけだ。澤村がどんな人間なのか。どんなことに興味を持つのか。どんな私服を着るのか。どんな家族構成なのか。

それを人は恋だと言うのかもしれないがぼくはそうは思わなかった。恋とは向こうから勝手にやってくるものだとぼくは漠然と決めつけていた。つまりぼくはその気持ちがある時急に恋となってぼくの前に立ち現れるのを待っていたのだ。そしてその時ぼくは何の根拠も無く直感するのだ。ああ、これが恋なのだ。と。だからぼくはその時すでに芽吹いていた恋心に水を遣るということはしなかった。ただ愚かにも花の咲くのを待っていたのだ。

夏が過ぎて秋になったが澤村は部活を辞めなかった。相変わらずサッカーのルールには関心がなく、みんなと打ち解けることもなかったが、それでもほとんど練習を休まずに部活に参加していた。

そんな澤村を気味悪がる奴もいたがぼくはぼくなりに彼女のことを理解していた。きっと彼女もまた何かを待っていたのだ。ある時突然彼女の日常を変えるような何かを。もし彼女が待っている何かがぼくにまつわる何かだったらいいのに。とぼくは考えた。

他の部員と同じように、ぼくも澤村と懇意に会話をするということはなかった。それでもぼくの意識は時間と共に澤村に強く向かって行った。ぼくが強く彼女を意識していると、なんとなく向こうもぼくを意識しているんじゃないだろうかと思えて来る。でもぼくはそんなはずのないことを知っていたから、相変わらず何かが起こるのを待つばかりでいつまでも臆病なままでいるのだった。

冬が来ると、ぼくは練習の後、訳も無く部室に残るようになった。冬は早くに日が暮れてしまうからあっという間に暗くなって、みんなも早く帰ってしまう。人の疎らな部室棟では人の声よりも夜の静けさの方が近くに感じられた。その静けさに身を浸しながら、ぼくは部室で澤村と二人きりになることを想像した。マネージャーは物を取りに来る時としまいに来る時以外部室に立ち入ることはなかったからそんなことはまずないのであるが、ぼくが待っているのはそんなありもしない偶然なのだった。

ただ、もし澤村の方でも同じような偶然を期しているとしたら事情は違ってくる。お互い、偶然にも部室で二人きりになる機会を得る準備があるのだとしたら、あとは時間だけが問題だ。実際、ぼくには澤村ののろまな動作が何か時間稼ぎのようにも感じられた。

冬は深まっていった。しかしチャンスは訪れない。毎日誰かしらが意味も無く部室に残ってあらゆる面倒を先延ばしにするためだけに時間を潰していた。次第にぼくはあからさまになっていった。部室で読書をしてから帰ることを習慣にし始めたのだ。すると澤村も忘れ物をしてそれを取りに来るなんてことが多くなって来るのだった。しかしそんな時に限って誰かがスパイクを磨いたりして残っているのだ。

春一番が吹き荒れた3月の初めのある日、その時は来た。

ぼくは叔父から譲ってもらった水滸伝を間もなく全巻読み終えようとしていた。風が強かったからみんななかなか帰りたがらなかった。一方で澤村は風が強いからとさっさと帰ってしまっていた。ぼくはさすがにその日ばかりは何を期していたということもなかったのが、止みそうもない風が止むのを待つついでに水滸伝を最後まで読み切ってしまおうと思っていた。

日が沈んで他の部室の灯りも消えていた。そろそろ見回りの守衛に放り出される頃だろうかと思っていると、帰ったはずの澤村が部室に現れた。ぼくはずっとこの時を待っていた癖に急にまごつきだして、どうしたの?などと馬鹿な質問をしてしまった。澤村は澤村でなにやら落ち着きが無く、やらなきゃいけないことを思い出してと言いながら何かやるべきことを必死に探している風であった。とにかくお互いちぐはぐで、振る舞いに窮していた。ぼくらはずっとこの時を待っていたはずなのにただ待つばかりで、いざやってきたこの場面でどう振る舞うべきなのかということについてはお互い全く準備がなかったのだ。

少し沈黙が続いた後、わたし鍵閉めて帰るのでと澤村が言って手を差し出した。ぼくは気の利いた言葉も思いつかず、まごまごと部室の鍵を手渡した。お互い目を合わせられなくて、したがって渡した鍵はしばらく宙をぶらついた挙げ句にようやく澤村の手に収まった。その時手と手が少しだけ触れ合った。そのまま手を握ることもできたかもしれないし、いっそ抱き寄せることだってできたかもしれない。でもぼくはそうはしなかった。できなかった。窓に吹き付ける風に急き立てられてぼくは部室を出て行った。

それから卒業するまでついにその偶然は二度と訪れなかったし、ましてぼくと澤村の関係が何ら変化するということはなかった。ただ目に見えない意識だけが二人の間を交差し続け、それは決して言葉は温もりに変わることはなかった。結局ぼくは澤村の連絡先すら知ることがなく先に高校を卒業した。卒業した後も、部活の仲間で集まる機会は何度もあったが、澤村がそこに来ることはなかった。それでもぼくは、いつかそこに澤村が現れてどうにか二人きりになれはしないかと愚かにも期待しているのだ。

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