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日記|外に出ない

水曜日まで外に出る用事がないので、好き放題している。家族を送り出したあと、パジャマのまま、家事も最低限にインスタント焼きそばの大盛りを食べエナジードリンクに黒霧島をたぷたぷと注いでドーピングをしている。糖分とカフェインとアルコール。普段はかなりまめに料理をしバランスの取れた食事をしているので、こんな機会でもなかったら自制心が働いてしまってまず摂らない食事。眠くなったらその場で眠り布団の中で好きなだけ本を読む。この数ヶ月ずっとこの時間を心待ちにしていた。

なんのためにこんなに無茶しているのか自分でもよくわからない。生活費を稼いで子を見守り育ててのんびり暮らしてさえいれば良いのに、なぜ詩を書き人前で読み録音をしさらには踊ったりしているのか。意味。突き詰めて一言で言うと「寂しいから」で、書いても読んでも孤独からは逃げられないどころか深く潜っていくだけなのに作ってる最中はなぜかどこかで孤独から解放されるかもしれない気になる、矛盾してるし、気がするだけだけど。掘り続けたら大海に出られるような気がする、それを10%でも信じていたいからそうしている、としか言えない。作らないと0%だ。

そもそもの話、人間は寂しい。生まれてきてから死ぬまで、周りにどんなに人がいて、その人たちが優しく温かな人であっても、人間はみんな寂しい。直視してるかしてないかの違いだけだ。そして直視しないことは悪いことではないし逆に直視を続けた人はどうにかなってしまう。直視してきたわたしは自意識がどうかしていると自分でわかる。エンタメをエンタメとして消費できない。2000円支払って映画を観て映画館を出たらきれいさっぱり忘れる、そう言う清々しい消費ができない、かといって明日から頑張ろう的な栄養にもできてない。作った側の意図しないものまで必要以上に汲み取って禿げるまで病的に反芻する。これはわたしが詩を書く人間だからなのか、こんな人間性だから詩を書くようになったのか、おそらくもともとあった性質が書くことで助長されたのかと思う。じゃあ観なきゃいい、それはそう、それはそう。アルコールもカフェインも、なくなって取り乱すぐらいなら最初から摂らなきゃよい、みたいな話だ。

ヨガの八支則で「ブラフマチャリア(禁欲)」と言うのがある。快楽を貪るな、少しだけ一口だけと手を出したらもっともっと欲しくなるのが人間のさがだからルールとして示されてるのだろうけど、必要以上に受け取ってしまうわたしのような弱い人間が穏やかに暮らすためには刺激物に近づかない以外に方法がない気がする。でも穏やかな暮らしは…………つまらない。どう考えたって、つまらない。そんなことになるぐらいなら、他人のためだけの他人軸の幸せを取り繕う人生を送るぐらいなら、明日死ぬことになったって無茶な人生を送る方がよっぽどいい。どうせ寂しさからは逃れられないのだから。


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