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「空の際」


 
 1、想いが立つ

「今日の空を見逃さないでね、けれど大丈夫、いつもここにいるよ」

 とある星の物語を私は聞いたのであります。聞いたというよりは、どこか不思議な空間で波を、音楽を体感した、そのような感覚と申し上げたほうがしっくりくるなと、今そう思っています。どう言う因果なのか、なぜかそれをここでお話ししてみようとそんな気持ちが雲の如く、何処からともなくもくもくと湧いてきたのであります。そう想い立ったのです。赤子が四つ足でハイハイと巡り、その運動から初めて立ち上がったあの瞬間、そんな感覚です。またそうでありたい。要するにその立ち上がった瞬間、感覚を直観的に収斂し、居合いの如く、スパッと表現したい。ただそれだけなのです。今日が最期の作品、この作品を最期に体感する作品として描こう、書こうと想い立ったのです。そのように申し上げるとすこし大袈裟で、自信過剰のように聞こえますし、誇大妄想かもしれません。しかし想い立ってしまったので仕方ありません。開き直りではなく、そもそも全方向へ元々世界は未知で開いているのですから。空は常に空隙振動、開っきぱなしです。昼夜問わず。その想いがやがて《際》と連関し、様々な事柄を発見する過程、また波打ち際で引いては返す、母なる海の水がお互いにぶつかり合い、消滅し、またその瞬間に新しい波が生まれる、そうした不規則かつ際限なく際立つ様を再度自分は想い起こしたい。すこしばかり純な氣持ちで、子供のころの無邪気なうごきで、ゆらりゆらりと腰と手を揺らし踊りたい。空と波と、ゆらめく蒼き灯火を絶えず燈しておきたいのです。(言葉と心を通して体感したいということなのであります。)

 誰もが赤子の時に立ち上がったはずですが、それを覚えているひとはほとんどいらっしゃらないでしょう。人生の中でも最も重要で感動的なその体験を本人が、自分自身が覚えていないということは、そのこと自体も考えてみれば不思議なことです。時折、更に遡って母親の子宮にいた時の記憶をお話する子どももいらっしゃると聞いたことがありますが、すこし信じられない気もします。しかし本当は誰もがその記憶を心の奥底、この身体の隅々の細胞、遺伝子に厳重に格納していて、うまくその記憶を取り出せないようになっているだけなのかもしれません。もし簡単に取り出せるようものなら、本能が暴れ出し取り返しがつかない惨事が目の前で起こるやもしれません。このお話では記憶と記録、時間と空間、それと表現について、題名でもある、空とそこから生まれる際についてのお話でございます。ほんの小さなお米の一粒に全ての前夜を観てみようという実験、試みでもあります。(子供の服についてしまったお米のように、時に執念く、また愛くるしい痕跡、記憶の遺跡か何かなのかもしれません。たっぷりと水分は含んではいますが。)

「空の際」恒星の水彩画2023.5.9

 さて皆さまにおかれましては、物語というありふれた枠組みにもいささか飽き飽きしてはおられることと存じます。お恥ずかしながら小生の場合、生まれてこのかた、飽きるほど沢山の物語を観たり、聞いたり、読んだりしたのかといえば、いささか疑わしい。未熟無知な有り様。物語がそもそも何たるかを全く存じ上げていないのです。全くもって哀しい男であります。魑魅魍魎にもなれない物語の外に追いやられた流浪人でしょうか。定住せず遊学する旅芸者。人類を一文字で表すなら“?疑問符”なのでしょうか?物語ではなく手紙でしょうか?いやはや、そんな格好の良いものではございませぬ。浅瀬に干上がったか弱い小魚が私なのだと。しかし小魚とて必死に日々を泳ぎきり、時に潮の流れに抗ってしまうもの。お魚さんたちにも、“意識”というものがあるので御座います。まあ、従順に潮の流れに身を任せ泳ぐものもいることでしょう。それぞれ懸命に生を全うしようと、全身で生きておられる。(ですので、小生も好きな作品や作家のものは、とことん掘り下げ何年も繰り返し読む、そうしたことはしてきたつもりであります。)しかし宿命とは時に残酷なものです。小魚である私は、鳥にすぐに見つかり、鳥葬、捕食されてしまう。生きることとは他の生命を頂戴し自己の生命へとかえ、循環してゆく定め。嗚呼何とブルータル、残忍な、耐え忍びなく、世の儚さを憂いておったのです。しかし捉え方、視点を変えれば、私は今度は鳥の身体の一部となってあの空を飛ぶことが出来る。こう考えれば、海と空とを思う存分愉しむことが出来る。思いもよらず、海と空ととも一体になれるではございませんか。あらゆる境界、境がなくなってゆく感覚。恍惚至極。生々流転。こうして考えてみれば、死は一つの過程に他ならず、永遠に今生、姿形を変えながら、生き続けているとも、そう考えることも出来るのではないかと、素直に直観しているのであります。

「「些か(いささか)仏教的な考えに近いかもわかりませんが、(花を贈れば、やがてそれは大輪の花になって返ってくるという奇跡のような素敵な流れを“この世”“と呼称しているようにも感じております。それも私に身体があればのお話ですが。まあ、小魚が鳥に成ったように、)」」

 要は生命はただただ姿形を変え、変遷してゆくだけなのだ。元を辿れば、全ては一つであった、否、それは数えられない何か不可思議な点に過ぎなかったのでございましょうか。小生のような阿呆は阿呆なりに真っ直ぐにこの物語を描こうと想い立ったのでございますので、どうか、それこそ広大無辺な宇宙のような皆々様の懐の深さで見守って頂けたら幸甚です。

「空隙の波」恒星の水彩画2023.5.4

 そもそも、このお話を聞いて、また体感してからというもの、意味はないようでいて、どこか呆気に取られた、この現代においてもなお神隠しに遭遇し、狐に化かされたような奇妙奇天烈、掴みどころのない雰囲気が脳裡から離れないのでございます。では実際この記憶が何処にあるのか?それが困ったことに私にはわからない。見当の付けようがない。見当が付けられれば、際が出現し私たちをガイドしてくれるに違いないと想い立ったということに他ならないのですが際のレイヤー、幾層にも重なった。どうも頭の冴えた人々は、脳のなかの海馬という記憶を司るところがあるとおっしゃる。長期記憶は大脳皮質へ保存されるらしい。しかし私にはそれの存在が全く感じられません。困りました。何処にあるのか定かでない、全く皆目見当もつかない。完璧な迷子。けれどほんとうは困っていません。迷子でも、構うこっちゃないのです。今ここに、この空間に私は居るとおもっていますが、そのこことは何なのか誰もわかってはいません。皆目見当がつかない、この空間ですら藪の中です。ですから海馬はここだという感覚、実感は本当に全くないのは当たり前なのかもしれません、ね。しかし殆どの皆さまがわたしと同じようにわからないと申すのですが、それも、些か《いささか》怪しくおもっています。私以外の人達はそうした感覚があるのではないか? サバン症候群の人達のように、私以外の人達は特殊な能力を秘めているのではないか。私も含め特殊と思われる能力を私たちは心身の奥底に眠らせているだけなのでしょうが。そんな懐疑的な性質を嫌悪することもしばしばありますが、物事の本質を探るため、なぜなのか疑問におもい、わたしもどうにか記憶を辿り、頭の中に絵を再現して描くことは出来る。それはまだ朧げだが、修練すればかなり鮮明な絵を自己の中に忠実に出現させることが出来るのではないか。そうおもったのです。また記憶自体が、表現作品自体が未知を生み出すことが出来るのではないか。そのための演習とも言えます。

「空隙の波/粒子」恒星の水彩画2023



「いや待てよ、物語を憶ひ出すことは出来ないのではないかい、お清さん」おもえば私は少しばかり記憶喪失なのかもしれません。色々日々、様々な事柄を失いながら、忘却する事でしか生きて行けない、そうすることが生きることなのだと。ですから、こうして今お話しすることで、その喪失感を重点的に治療する、療養するために書くのかもしれません。ひいてはこの物語の本質は何なのか、「ええ、物語ですから、単なる想像・創造の産物よぉ」私自身も少しは納得したい、これには何か深い意味があるのではないか。記憶から取り出し、表わすこととは何なのか知りたいとおもったのでございます。眼の前の事物を観察しながら描く絵画も、実際は今観た瞬間の記憶です。そして自己と思い込んでいる、おもっていることの前のつかみどころのない心のフィルターと記憶とを混色して描いていくものだと。意味などないこと、一見無駄なことに人間は時として没頭する習性があります。寧ろそればかりしていて、取り返しが付かなくなっているという顚末。火種を絶やさずに、沸いては冷めを繰り返しながらも、時に真理をつきとめ、あらゆる道具を駆使し、想いも依らない物質、品々をソウゾウしてきました。しかし実際は進歩も退歩もない、そうおもうこともしばしばです。いや、そうなのです。同じようなことを何千年と繰り返していますし。しかしそうした人間の堂々巡り、人間自身の掘り下げきれない特徴がとても興味深いのです。永遠に解けない問題を問き続ける。問いが問いを生む、知れば知るほど無知さを知る、そんな無限のループ。未知についての研究開発をやめられないという業。いやはや、あまりに沸騰し過ぎると大噴火になりかねません。ここは一息、そう生真面目に成り過ぎず、お茶でも一杯頂きましょう。風流に、粋に参りたいものですよね。縁側などが御座いましたら、それこそ小さな庭を眺めながら、そこへちょこんとお座りになられては如何でしょうか。もし冬であっても、色の飛んだ薄枯れた草たちを眺めて、そこへも美を見出すことを“冷えサビ”なども申すそうではありませんか。そういえば、あの縁側という場所は、類い稀な優れた空間に他ならず、内と外の間という、正に際の妙義、次の空間へと誘う、スムーズかつ無理のない場に他なりません。先人の叡智に感嘆至極。そんな場で飲むお茶はさぞかし美味しいことこの上ないことでしょう。

 この脈絡のない無駄の塊のような物語にも、一服、茶を点てる権利がまだ小生にも残されてはいることでしょう。
 
 また続く。。。

恒星a.k.a長谷川康円

「空隙の波」恒星の水彩画2023.4.29

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