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ChatGPTは占いに似ている?!意識とは?

 朝6時、重い身体を引きずりながらゴミ出しのため外へ出る。年々徐々に記憶力が低下している自覚を余所に、身体に溜まった疲労だけは夏の猛暑の記憶をはっきりと刻んでいる。記録的な猛暑がまるで嘘であったかのように、秋晴れが身に沁み入る。チュンチュラチュンと数羽の小鳥たちが朝の会話を愉しんでいる。真っさらでどこまでも透き通った青空に鳥の囀りはあまりに完璧にまでに溶け込んでいる。目を凝らして見てみると顎から腹までが黒い四十雀だ。4〜5羽かな。軽快な身軽さで、桜の枝から枝へ気持ち良さそうに飛び跳ねている。それはそうと今年はアメリカシロヒトリにやられて、9割も既に葉を食い尽くされ、そこかしこの枝が剥き出しなのだ。花の咲く前、3月の様相へ逆戻りしたかのよう。それはそのまま78年余り米国の属国と成り果てて、主体性を見失い、民が主権者だということすらも半ば放棄し、自分の見たいモノしか見ない亡霊のような姿を晒しているようこの国の姿のようにも感じられ、それが日本を象徴する桜の木であることも何とも因果な気分にさせられた。逆さに見れば、かつての敵と仲良くし友愛の関係性を築く。国と国の際を国際と言い、外との交わり方を外交と言う。政治経済について何も分からないに等しいが、「際」や「交」については自分なりに感じ考えてきたはずだが、全くもって掘り下げが足りない空っぽな自己の内を見つめる。心の底から笑ったのは、泣いたのはいつだったか。つまらぬ大人にだけはなるまいと心に決める。そんな半人前の思考を、叱咤するわけでも慰めるわけでもなく、桜の遥か上空には半月が静寂さを讃えている。

 四十雀も朝の食事をしながらの談笑だったかもしれませんが、前回の記事「落ち葉を部屋にひとつ」を書いて思い出したのが「動的平衡」です。生物学者の福岡伸一さんが著作や講演でも言及されているものです。簡潔に一言でいうと、「食べ物そのものが身体になっていた」という驚くべき実験結果だったというお話。ユダヤ人生物学者ルドルフ・シェーンハイマーの研究が元だそう。ふつう私たちは身体を動かす為に、食べ物がガソリン・エネルギーだと思っている節がありますが、でも実際はそうではなかった。目から鱗ですよね。もちろん、私もその実験結果を全て鵜呑みにせず、どんな課題でも再考察する必要性は忘れずにいたいと思っています。福岡伸一さんは、それらの実験を踏まえて生命とは「動的平衡にある流れである」と定義付けていらっしゃいます。

 福岡さんに限らず、様々な分野からも言われていることですが、去年と今年の自分は身体的には全くの別人と言ってよいと。けれど、私たちの意識は去年と変わらない同じ自分であると思っている。そう思っているそもそもの「意識」とは何かという問題を今回は考えてみようと思います。

 意識とは何かということは、わたしも幼少期からずっと不思議に思っていることです。皆さんもそうだと思いますが、なぜ私に私という意識があるのか?宿ったのか?ということです。ひとつの結論はそう思い込まないとマトモに生きてはいけないってことなのでしょう。それにしても不思議ですよね。ある卵子と精子が受精し生命と成り誕生して、そのうちに自我が芽生え始めますが、この身体になぜ別の意識ではなく、あなたはなぜあなたで、私がなぜ私なのか。

 意識の問題を深掘りするためにも、恰好の題材が昨今話題のOpenAIでしょう。(2022年11月に公開した人工知能チャットボットであり、生成AIの一種)実際に日本語版のチャットに「意識とは何ですか?」と聞いてみると、「主観的な経験や自己の存在を意味する心の状態」と返答が帰ってきました。

 先に勝手な意見を言いますとChatGPTは占いだなぁと。そんなはずがあるかいな?と思われるかもしれませんが、あながち的ハズレでもないと思っています。これは私の友人のナオさんと話しているなかで出て来た意見なのですが、最終的に頼るところはヒトの意見ではなく、AIボットの意見を参考にする。自分で決めずに根拠があるのか、意識があるのかないのか分からないモノに決めてもらうということです。もうこれは占いですやん!と。先程から何度も言っている“意見”とは果てなんであるのか?という疑問も浮かびますよね。実は意見とは大したものではないということを気づかせてくれたのは西部邁さんのお話や著書「昔、言葉は思想だった ーー語源からみた現代」(時事通信社2009)でした。

意見(opinion)「意」は「思」のうちの一つの在り方、つまり「推量し懐疑する心のはたらき」のことにすぎません。それは「念」(心にいつも確かに思っていること)の対極にあるもので、「コンフィデンス」(確信、confidence)には、ましてやビリーフ(信念、belife)には、まだ至っていないのです。
「意見」には、不確かな根拠しかないのであって、したがってそれは公表するのには多少の躊躇を覚えて当然の思いにすぎません。

西部邁 著「昔、言葉は思想だった ー語源からみた現代」(時事通信社2009)

 不確かな根拠しかない、確かにそうだなぁと。わたしも多少の躊躇を覚えながら意見したいと思います。しかしながら前回の記事「落ち葉を部屋にひとつ」は、素直な気持ちから行動を経て確信に変わって書いていますので、堂々と落ち葉を部屋にひとつ置いて眺めようと思っていますが。

 さてお話を戻して、「占い」について。遡ると、獣骨に傷を付けて火で焼き、亀裂の入り方で吉凶などを判断する占いの一種である「太占(ふとまに)」にひとつ行き着きます。権力者が大きな決断の時、最終的にヒトではなくその占いを信じて実行するということなんです。

 電気ガス水道、安全便利快適な生活をシステム化しその中で生きていると、私も含め多くの一般市民も昔の権力者、王様と同じような生活をするようになったわけです。そうした市民が最終的に頼るところが、ChatGPTだなと。昔からヒトの考え方、考える意識の流れは何ら変わっていないなと。テクノロジーが発達し今や、映画の007の世界が現実になってしまいました。世界のスマートフォンユーザーは55億人を超え、その普及率は70%を超えだそう。7割がジェームズ・バンド化していると言っても過言ではない?いやそれは言い過ぎですね。決死の行動、アクションで悪事を砕き、真相を暴き、人を助ける。ボンドを真似ようと思ってもそうはいきません。太宰治さんの「走れメロス」のメロスもボンドと少し似ているかもしれません。川が行き手を阻もうが、何が何でも友人のために走り抜く、そう王様に約束したが故にそれを死守し行動する。揺るぎない信念のもと行動出来る人は本当に立派だなと思います。見習わないといけませんね。見習う姿勢といつより「覚悟」というべきでしょうね。生きることを覚悟している様のことを“生き様”と人は言うのだと思います。その対義語は“成り行き”にまかせるということでしょうか。生き様と成り行きはそもそも表裏、渾然一体となっているものだと最近は感じています。

 問題はひとつは常に自分自身がどう在りたいか。ヒトの意識の方にあるわけですが、問題はそう簡単なものではなく、そう意識させられているのか果たしてあなた側の問題なのかといえば、そうではないとも言えます。

 物事を捉える時に五感を使って感じとっていますが、その感じ、フィーリングを昨今「クオリア」という言葉で表現していますよね。芸術はそのクオリアを何かに置き換えて表現しているわけです。ということは意識はあなたの中からも発生してはいますが、対象物を感じて初めて意識が上がってくるとも言えます。もしかしたら主体が対象物の側にあるのかもしれません。ここまでくるとアフォーダンスとシグニファイアのお話も出てきます。知覚と認知です。アフォーダンスは端的に言えば、私達が椅子に座ろうとするのではなく、椅子に座ってねと自然と呼び掛けられて座ってしまうということです。シグニファイアはヒトが一般的にもっているイメージを活用し、連動させて行動を促すという感じです。信号機の赤は止まれ、青(緑)は進めということです。赤は注意の色と人々は広く認識しているため、そこを活用しているわけです。

 実は意識はわたしたちの中にあるはずだが、対象物、モノがなければそもそもそれは立ち上がってこないということなんですね。言い換えれば意識は向こうからやってくるということです。

 ではその向こうとは何処か?

 おまけとして、チャットに「わたしはあなたのことを一種の占いだと思っていますが、どうですか?」と聞いてみると、

「私は占いの代わりに、情報提供やアドバイスの形でお手伝いすることができます。ただし、私は予測能力を持っているわけではありませんし、未来の出来事を正確に予知することもできません。私の目的は、ユーザーの質問に対して可能な限り正確かつ有用な情報を提供することです。占いを信じるかどうかは個人の信念や意見によるものです。」との返答が。いやはや、面白いですねぇ、なかなか手強い相手です。

最後にGPTの原語は、Generative Pre-trained Transformerとは、「生成可能な事前学習済み変換器」という意味だそう。 

 さて続きはまた次回。

 お読み頂きありがとうございました!
 感代謝

 恒星a.k.a長谷川康円

 a ri A Ru Creationz代表
 星座を歩くアートクラス主宰

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