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#1 【物理世界と概念世界の流浪手記】まえがき、言葉。

ひとへに風の前の塵に同じ。

平家物語「祇園精舎」冒頭

この世界は言葉に溢れている。
きっとこの記事も言葉の嵐に消える塵となる。

ずいぶん言葉の価値が下がったように感じる。スマホを開けば言葉の大海。SNSには絶え間なく言葉が記録される。

手紙をもらったときに、心から温もりを感じるのは1文字1文字に思いが込められてるからで、それは伝えたい言葉だけを抽出しているからだとも言える。限りある紙面の中で、言葉を最大限有効活用しようとする努力が滲むのであろう。

生成AIのおかげで、既存のメディアが組み替えられ再生産され続けている。創造性は民主化され、多くのひとはガチャガチャでもするかのように、確率的に自分の好みにあった新たな創作物を生みだす。
言葉、写真、動画、デザイン、アート、あらゆる媒体はインフレーションに陥り、その価値が暴落している。

それでも、言葉に固執したい。
言葉が好きだから。
言葉に縛られているから。

人間は論理的な動物である。言葉というものは対象を概念化するツールである。言葉があてがわれたものは意味を有する。同じ言葉を共有する者同士で共有の概念を形成する。それはまるで、言葉を得る前は、ぼやけて抽象的だった世界に、言葉という道具を使って輪郭を引いていくようなものに近い。そういう意味で、論理が通る。「この言葉はこれを表して、この言葉はあれを表す。」というように、言葉と対象の間に関係が生じるのだ。私はこの"関係"が論理の最小構成単位だと思う。
そして、その論理を通してでしか、人間はわかり合えない。表現し合えない。言葉に束縛されているとはそういうことである。概念化・輪郭化されたものしか表現できない。表現できるものが至極狭いのが問題であり、だから美しい。そして多様である。

ひとりひとり喋る言葉は違うし、使う言葉遣いも違う。パーソナリティとリンクしている部分もあるだろうが、その人が使う言葉はその人をよく表していると思う。だからこそ、他人の言葉に触れ合い、自身の論理世界との違いを味わったり、新たに構築された語彙を使ってみたりするのが楽しい。そして新たに言葉を練りだす作業が創作的で美しい。結果を一瞬で出す生成AI時代では、より結果までのプロセスに価値を置かれるのではないかと思う。私はそのプロセスをじっくり楽しみたい。


とにかく、言葉による自己表現をさせてくれ。ただそれだけの欲である。
誰かの考えに寄り添わない、自分の中から湧き出る言葉をつらつらと書きたい。その一心でこの「物理世界と概念世界の流浪手記」を不定期で書きたいと思う。

私はふらふらとこの世を生きている。一定の場所に長くは留まらず、常にどこかを放浪している。というかとどまれない。
概念世界もそうだ。区切られた学部にとどまり、大学という檻のなかで、機械的に学習するのが無理である。どうしてもできないのだ。学部の勉強をしっかりできて、就活をこなす人は心より尊敬する。私には向いてない。勉学は好きであるが、自分のペースで好きなものを学習したい。だから私なりに、身勝手な熱意でたくさんの学問をボーダーレスに学んでつながりを悠々自適に楽しんでいる。

ここ「物理世界と概念世界の流浪手記」でもそこで得た気づき、考察などをテキトーにまとめる。

大事なことを忘れていた。
まえがきとして伝えたいことがある。


「不用意に読まないでほしい。」


言葉には人を死に至らしめるほどの暴力性がある。
暴力的なことを書くつもりはさらさらないし、誰かを言葉で傷つけたくなどない。けど、どんな言葉がその人にとって暴力的かなんて想像できるだろうか。

その気はなくても受け取り方は人によって千差万別である。どんな言葉がどんな人にどんな作用をもたらすのか。考えても考えても永遠に答えにはたどり着かない。この人間の想像力の欠乏と諦めを多様性と呼ぶらしい。便利な言葉である。この言葉をあてがえば、とりあえず聞こえは良くなる。

後で、多様性についても雑多に論考しようと思うが、これほど深い多様性の考察を記した本は見たことがない。


私の文章は、多様性を十分に考慮しきれていない。文字に責任を付与せずに、自由に踊らせたい。この文章は誰かを傷つける可能性について自覚的でない。ひとりあるいて、塵になる。

その謙譲なしの乱文を受け止める用意のない場合は、読まないほうが得策である。
それでも、読んでくれてなにかの役にたったのならば、こちらとしては幸甚極まれりである。ついでにハートボタンを押してもらえると、承認欲求が満たされる。

中・高と大切な思春期の時間を真面目に勉強に費やし、いい学校に入れば何か救われる気分になるだろうと信じ続けて、勉強してきた。他に得意もなく、私は見た目も特段良くなかったので、自身の学力や学術的な能力に居場所を求め続けてきた。テストのたびに出るランキングを見ては、他人と比較し、上位のほうまで言ったときの全能感、優越感といえばこの上なかった。

中・高と多感な時期に、あの能力比較をさらし続ける制度はえぐいと思う。だからある程度私は歪んだ。卒業してからも、人とよく比較するようになった。それも能力で。あいつよりはうまくやってると。比較していることをメタ認知するたび、空虚な自己肯定感にすがっている自分がいて、自己嫌悪に苛まれる。この悩みは私だけじゃないだろう。

社会に出てからは能力ゲーがほとんどで、私みたいに自身の学力に居場所を求めてきていたら、能力的な部分を褒められたとき快感になる。会社で褒められるために、働く。それを否定するつもりはないが、それが目的化してしまわないことを願う。これは自分自身への自戒でもある。

また、SNSもどれだけいいねをもらえるかが目的化しつつある。あれほどよくできた他人との比較の罠にハメる機械はない。

ついでにハートボタンをもう一回押して、もう比較の呪縛にとらわれることないようにしてもらえると嬉しい。


というわけで、これからよろしくお願いします。
誰かのためになるかはわからないが、毎度好きな言葉で擱筆しようかと思う。

美術手帖(2017年 9月):志賀理江子さんのインタビューより引用
「社会は目が見える身体を前提につくられているけども、目で見ぬ全盲の彼女たちはもっと違うように世界をとらえている。すぐとなりに全く違う世界があった」











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