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言語教育においては「主体的学び」ではなく、「主体的(言語活動)従事」である!

はじめに
 教育の世界で主体的学びが喧伝されて久しい。言語教育(日本語教育や英語教育など)でも主体的学びが注目されている。しかし、…。

1.内容の学びにおける主体的学び
 学校の教科の学習は内容の学びとなります。そして、当面、それと対比して言語教育の場合は言語の学びと呼びます。
 内容の学びにあたっては、学習者はテーマを探究し考究するために必要で十分な言語と思考の能力を身につけています。つまり、現在のテーマをめぐって、現象を一定程度記述したり言語化したりすることができ、学習支援者≒教師との対話を通してテーマについての考究を進めてより高次の理解に達することができます。学びのテーマを自分とは何の関係もないものとするのではなく、自分が一つの人格として生きることや人格を豊かにし陶冶することに関わることとして位置づけて、そうした探究や考究に取り組み参画することが、内容の学びにおける主体的学びとなります。
 先に思考と言語について言及しました。思考と言語は、実際には言語的思考として一体のものです。内容の学びにおける学習課題は思考です。学習者は学習支援者との能動的な対話を通して、つまり言葉のやり取りを牽引力として、思考を伸ばすわけです。そのようにして学習者はより高次の言語的思考が可能になります。理科でも社会科でもそういうことですし、物理や化学や生物や、歴史や地理や現代社会などでも事情は同じです。ただし、どの教科の場合でも、より高次の言語的思考を伸ばすことと並行して、出来事や事実を知ったり、用語を身につけたりする側面は伴います。

2.学校での英語の学びの形態と主体的学び
 学校の英語教育でコミュニケーションのための英語教育*が叫ばれて久しいです。しかし、実態としては、現在でも英語教育は、単語やイディオムを覚えること、構文や文法を理解して身につけることが中心になっているかと思います。これでは、結局、英語というものが内容となって、英語科の教育・指導は、英語という内容の学びとなってしまいます。そして、英語の学びがそのような形態になってしまうと、言語活動に従事するコミュニケーション能力を伸ばすことは望めないでしょう。
 そのように言うと、「そんな形態でも主体的学びは可能ではないか」という声が出てくるかもしれません。しかし、その場合の「主体的学び」とはどういう意味でしょう。
 1で言ったように、主体的学びというのは、本来、探究し考究することが伴う学びのことです。自ら考える主体となって、教師により支援された探究や考究の学びを能動的に進めていくことです。そうすると、単語やイディオムや構文や文法などを探究し考究することになります。そうなると、それは英語という言語について学ぶことになります。そして、そのようにして身につけた知識はコミュニケーションのための言語能力とは異なるものです。
 そもそも、コミュニケーション(筆者の用語では言語活動)に従事する能力を伸ばすこと、あるいはコミュニケーションを可能にする言語技量を育成することと、探究や考究をすること及び探究や考究をその中心部分とする主体的学びは矛盾すると思います。
*新学習指導要領(中学では2021年から全面実施)に基づいて制作されたさまざまな教科書は、コミュニケーションのための英語教育をめざしてそれまでの教科書とは大きく様相が変わりました。本当のコミュニケーションに生徒たちを導くべくさまざまな工夫がなされています。しかし、そのためもあって、あまりにも「盛りだくさん」で「無節操」になっているきらいがあります。新しい教科書では、教師の適切な指導と相俟って、一部の「優れた生徒」は英語コミュニケーションの能力を身につけることができる可能性があります。しかし、それ以外の大部分の生徒には、すべては「難解な例文の羅列」となって、覚えるべきことが「満載」になって、コミュニケーションに「入る」ことはできないでしょう。そうなると、結局、単語やイディオムを覚えること、構文や文法を理解して身につけることという従来と同じ学習になってしまうでしょう。また、もっと本質的な部分について言うと、コミュニケーションという用語が「問題のあるイメージ」を与えていると思います。 コミュニケーションではなく言語活動と言うべきでしょう。

3.本来の言語の学び
 英語について学ぶことは、英語で言語活動に従事する技量を育成することに結びつきません。それと同じように、(媒介語を使用するか否かにかかわりなく)日本語について学ぶことは、日本語で言語活動に従事する技量を育成してくれません。
 新たな言語を身につけることには、言語活動に従事する技量を育成する側面と、言語知識を身につける側面があります。従来の英語教育や日本語教育では、教育の企画においても、各課やユニットの学習においても、まず言語知識を身につけることが扱われ、その後にその知識を動員して言語技能を育成するというふうになっていました。これは、すでに「違う」と思います。言語知識を身につける側面は、言語活動に従事する技量の育成に伴う従属的な側面です。それを言語活動の従事とは「別に」や「まず」取り扱うのは本来あるべき学習方法ではないと思います。
 言語活動に従事する技量を育成するためには、学習者に実際に言語活動に従事させなければなりません。そして、その場合の言語活動従事というのは「ほぼほぼできる」言語活動従事、つまり近接的な言語活動従事です。また、近接的な言語活動従事には「ほぼほぼ話せる」言語活動従事や「ほぼほぼ書ける」言語活動従事だけでなく、「聞いてほぼほぼわかる」言語活動従事や「読んでほぼほぼわかる」言語活動従事も含まれます。いや、「含まれます」というより、言語技量の育成のためには後ろ2者が必要不可欠な部分です。
 「「ほぼほぼ話せる」言語活動従事は聴解の活動で聴解技能を伸ばそうとすることで、「ほぼほぼ書ける」言語活動従事は読解の活動で読解技能を伸ばそうとすること」ではありません。いずれも近接的な言語活動従事の経歴を積み重ねて、言語技量を増強することに寄与することが趣旨です。
 そして、近接的な言語活動従事の最中に、学習支援者≒教師からの機動的な支援・指導の一部として言語知識を身につけることが手当てされます。そのことで、言語の学びに最適である支援のある近接的な言語活動従事の機会が創造されます。そうした機会を豊富に提供することが、言語の習得と発達のためには必須です。

4.言語の学びにおける主体性
 言語の学びを上のように考えるならば、言語の学びにおける主体性は「わたし」という主体として近接的な言語活動に従事することとなります。そして、「わたし」という主体として近接的な言語活動に従事していれば、それは自ずと主体的で能動的な学びとなります。

5.主体的で能動的な学びを実現する条件
 そうした主体的能動的な学びを実現するためには、いくつかの条件が満たされなければなりません。ざっと箇条書きにしてみます。

 (1) 学習者を言語活動の主体にする教育企画
 (2) 言語活動の主体である学習者に対話的に語りかける言語的素材
 (3) (1)の中で(2)を活用しながら、学習者を言語活動の主体にする
    学習活動

 そして、このような条件が満たされた先に、支援のある近接的な言語活動従事の機会が実現されるのです。





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