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日本語教育の教育企画とアチーブメントとプロフィシェンシー ─ 一部、Can doに基づく教育企画批判

 基礎日本語の教育企画と、アチーブメント(achievement)とプロフィシェンシー(proficiency)について書きます。

1.アチーブメントとプロフィシェンシー
 アチーブメントは、教育企画で設定された目標が達成されたか、あるいはどれほど達成されたか、です。それを測るテストは、アチーブメントテストとなります。プロフィシェンシーは、教育企画との関係で言うと、コース終了時に、一般的な尺度で言って「日本語がどれほどできるようになっているか」です。それを測るテストはプロフィシェンシーテストです。
(英語のテストでいうと、面接試験(口頭試験)もあるIELTS(ブリティッシュカウンシル)はプロフィシェンシーテストと言っていいでしょう。TOEFL(ETS)も、面接試験はありませんが、まあ、プロフィシェンシーテストと言っていいでしょう。OPIは、その名の通り、口頭の言語能力のプロフィシェンシーを測るテストです。日本語能力試験は、どうも「微妙」です。「微妙」の原因は、詳しくは論じませんが、日本語の書記言語の「奇妙な」姿にあります。端的に言うと、英語の場合のように、一元的に「英語力」というふうに能力を想定することができません。そこに日本語能力を測定する際の大きな困難があります。)

2.教育企画における最終目標と下位目標
 教育の企画においては、教育課程の終了時に、何を習得し、何が(どの程度)できるようになるかという目標を設定します。これが最終目標となります。言語教育の企画としては、教育の目標設定は、最終目標と下位目標の2段階くらいで行うのがちょうどいいでしょう。下位目標は端的にいうと、ユニットの教育目標です。
 最終目標は、「測定・評価ができる」という条件を満たしつつも、プロフィシェンシーの性質をもった形で設定するのがふさわしいでしょう。最終目標は、いろいろな「〇〇ができる」をリストするのではなく、一般的な表現での「こういう範囲のことが、こんな程度にできる」というように表現するのがいいでしょう。CEFRの全体的尺度(global scale)のような具合です。
 下位目標は、「測定・評価ができる」というよりも、「確認できる」ような形での目標が適当でしょう。下位目標は、評価論で言うところの形成的評価の一種とも言えます。しかし、厳密に言うと、形成的評価ではないかなあと思います。形成的評価は、教育課程のそこまでの学習で所期の知識や能力が順調に身についているかの評価です。それに対し、ユニットの教育目標という下位目標は、当該ユニットの目標の達成に割合焦点化されます。

3.自己表現の基礎日本語教育の教育企画における最終目標について
 自己表現の基礎日本語教育の教育企画*での主要な最終目標オーラル日本語に関する目標で、「わたし及びわたしの周辺のことについてのさまざまな話題について、基本的な日本語で、話す、相手の話を聞いて理解できる、会話(相互行為)ができる」です。そして、副次的な最終目標として、書記日本語に関して、「同様の話題について、目標の300字程度の漢字を含む基本的な日本語で書かれた短めの文章を読んで理解することができる。また、同様の話題について、目標の300字程度の漢字を含む形で基本的な日本語で自身のことについてワープロを使って書くことができる」という目標が設定されています。さらに、付随的な最終目標として、言語事項に関して、「同様の話題の言語活動を運営するさまざまな言葉遣い(語彙、文型、文法事項を含む)を適切な文脈で想起して正しく用いることができる」
 いずれの最終目標も、2で論じたように、「『測定・評価ができる』という条件を満たしつつも、プロフィシェンシーの性質をもった形」で表現し、設定されています。そして、これらの最終目標を評価するにあたっては、各々の内容に該当する日本語パフォーマンスの適切なサンプルを引き出して評価するということになります。(言うまでもありませんが、測定・評価というのは、所期の習得内容のすべてを確認するのではなく、今言ったように全体の内のサンプルを引き出して測定し評価することになります。測定・評価の常道です。)
*その教育の実践をサポートする教材が、NEJです。

4.自己表現の基礎日本語教育の教育企画におけるユニットの目標について
 
自己表現の基礎日本語教育の教育企画では、各ユニットで「自己表現の話題について、基本的な日本語で、話す、相手の話を聞いて理解できる、会話(相互行為)ができる」という主要な目標を設定しています。それと連動する形で、副次的な書記日本語の目標と付属的な言語事項の目標も設定されていますが、論述は省略します。自己表現の基礎日本語教育の教育企画では、各ユニットの最後部で、(a)ユニットの話題について自分のナラティブを書くこと→(b​)それを教師が最終チェックすること→(c)完成したナラティブの発表あるいはペアでの読み聞かせ合いとすること、を授業実践者に要請しています。ユニットの最後部でのこうした活動は、ユニットの最後部の活動としてひじょうにふさわしいもので、同時にこうした活動における学習者のパフォーマンスを観察することで、ユニットの目標の達成状況を確認することができます。(厳密に言うと、大部分の学習者がこうした活動で期待されるパフォーマンスができていない場合は、適切な補強的指導を実施するべきです。また、一部の学習者ができていない場合は、その学習者に対して補習指導を実施するべきです。)
 各ユニットの学習は、直接あるいは間接に、先行するユニットまでで身につけた知識や能力を土台としてさらに知識を補充を能力を一層形成するという形で行われます。ユニットの話題は、単に「難易度を考慮して」ということではなく、知識や能力の拡充ということを考慮して選定し、設定されています。つまり、教育課程全体として言うと、課程全体として目標としている知識や能力、つまり最終目標の知識や能力が着実に形成されるように一連のユニットが企画されているということです。
 このポイントはひじょうに重要です。今、日本語教育で喧伝されているCan doに基づく教育企画というのは、個々のCan doという目標が孤立的で、知識や能力を着実に形成するという観点が欠けていると思います。

5.自己表現の基礎日本語教育の教育企画における最終目標について ─ 再論
 何らかの行動目標を達成するコミュニケーションを実用的コミュニケーションと呼ぶならば、自己表現の基礎日本語教育で目標とされているコミュニケーション能力は、実用的なコミュニケーション能力ではなく、社交的なコミュニケーション能力です。喧伝されているCan doに基づく教育企画では、実用的なコミュニケーションにばかり関心が向けられて、社交的なコミュニケーションはほとんど忘れられています。しかし、CEFRのAの全体的尺度やA1やA2の記述を見ても、言語習得の基礎段階であるAレベルでは、むしろ社交的コミュニケーションが注目されています。CEFRのAレベルでは「basic userを育成する」となっていますが、その「basic」の意味の中心部分は「社交的なコミュニケーションがふつうにできる」ということであって、いわばそれに付属する形で一部の実用的コミュニケーションが目標としてあげられています。日本語教育における「Can do狂奏曲」は、そうした「basic」を正確に把握していないと思います。(日本語教育における「Can do狂奏曲」:には、実は、お役所的な事情あるいは政策的な事情も絡んでいます。簡単に言うと、お役所あるいは政策として「おしゃべりの日本語の支援をすることはできない」ということです。)
 社交的コミュニケーションに注目して基礎的な日本語力を育成するというのが、本来的にも、また理論的にも、言語能力の基礎を形成しうる教育企画だとわたしは思っています。

6.自己表現の基礎日本語教育における「初心者教師」と「エキスパート教師」
 最後に、自己表現の基礎日本語教育における「初心者教師」と「エキスパート教師」ということについて話します。
 「初心者教師」はまだ十分に、学習者の日本語力の形成ということを俯瞰的に見て実践することができません。つまり、当面のユニットの目標を達成しようとする教育実践に集中することとなります。そうした「初心者教師」が教育を実践したとしても、一連のユニットの企画が4の後半で論じたような考慮のもとに設計されているので、一定の基礎日本語力を形成し養成することはできます。
 しかし、学習者の日本語力の形成ということを俯瞰的に見ている「エキスパート教師」は、各ユニットの教育を実践しているときでも、総合的な日本語力の着実な形成・育成ということを考慮した教育実践を行うことができます。ですから、「エキスパート教師」のチームで自己表現の基礎日本語教育を実践するとめざましい効果が上がります。わたし自身は、そういうことを何度か経験しています。

7.豊かな日本語習得環境を能動的に形成する優れた学習者たち
 言語教育においては、もちろん、教育企画も教材・リソースも教育指導も重要ですが、学習者という要因は、それらを凌駕したり、打ち消したりしてしまうほど、大きな要因であることは、認めなければなりません。
 学習者という要因としては、まず挙げられるのがモチベーションでしょうか。2番目は、学習者間での協働とサポート。そして、3番目は「一般的にお勉強ができるかどうか」でしょうか。そして、4番目くらいに、言語学習適性あたり。漢字系か非漢字系かがきわめて大きな要因となることは言うまでもありません。
 わたしがここで報告したいのは、豊かな日本語習得環境を自分たちの周りや日常に形成しながら日本語の習得を進めていく学習者たちのことです。かれらは、とにかく能動的で積極的に日本語学習活動の中に入るし、常に日本語を我が物にしようとしているし、クラスメート相互でも日本語を使おうとしています。また、クラスメートといっしょに教室や学校の外に出ていろいろな「経験」や「冒険」を積極的にします。そして、その現場でもできる限り日本語を使おうとし、日本語を「盗み取ろう」とします。
 西口(2015)のエピローグで、Ann Brownの「fostering communities of learners」のことを紹介しました。「学んでいこうとする学生集団を育成・支援する」ということです。教育企画も教材・リソースも具体的な授業実践もこのFCLをも視野に入れる必要があるだろうと思います。そして、稚拙な教育企画や教材・リソースや教育実践は、FCLを促進するどころか、学習者の自己効力感(自分はがんばれば身につく/成果を得ることができるという感覚)を喪失させてしまいます。従来の初級日本語教育や、今喧伝されているCan doに基づく教育企画は、どうも「稚拙」系になっているように思えてなりません。





 
 


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