思い出される人のこと 2

前回は、私の略歴について、三山に引っ越すところまで書きました。
ここで当時の私の行動半径の地図を示しておきたいと思います。

三山私の故郷の地図

左が1960年代の地図です。右が現在。
私が1957年生まれですから、私が小学校低学年くらいまでの地図ということになります。
左上に赤い☆をつけた辺りが私の家があったあたりです。
左側から道が伸びていて、そのにぽつぽつある家が、開発された土地を私の両親と同時期に買った人たちの家になります。そんなに数が多くはない。ということは土地を買いはしたけれどすぐには移り住まなかった人も多かったのだと思います。
私のあたりを挟んで反対側縦に一本道が走っています。これを見るとある程度立派な道のように感ずるかもしれませんが、私の記憶では畑のあぜ道。車一台がやっと通れるような道であったと記憶します。
その道の両側は何にも書き込まれてはいません。全部畑でした。
キャベツに人参、トマトにほうれん草…。季節ごとに野菜が栽培されていました。確か、私が小さかったころには、小麦も栽培されていたように記憶します。春小麦というのでしょうか。秋に植えて、初夏に収穫するサイクル。冬に麦踏みもやられていたと記憶します。

示した地図の右下の方に神社のマークがあります。これは八幡神社なのですが、これに隣接して保育園がありました。
ここに通ったのを覚えています。
多分家から、2kmくらいはあったかと思います。よく歩いたものだと思います。

 歩いた経路は、家の裏の農道を通って、市街地に出て、それから左折をして病院に出る。それから東邦大学の前を通って、郵便局までは行かずにどこか手前を右折して、保育所に向かったのだと思います。
この辺りはもともと陸軍の施設があったところで、戦後それが払い下げられて、日大・東邦大・順天堂大が入ったのだと思います。
病院は陸軍病院がもともとで国立病院になったもの。陸軍病院時代の建物を使用し、先生も軍医あがりの方が多く、けっこう荒っぽい病院とのうわさでした。

 この道を行きは、親に保育園まで連れられて歩き、帰りは病院の前までは一人で帰ってきて、そこへ母が迎えに来てくれたのでと記憶します。
 病院の前には、八百屋と魚屋、ラーメンやと寿司屋があったと記憶します。私の家から一番近い店でした。ラーメン屋はもともと違う店があったのを途中で商売換えしたのかもしれません。そうそう、思い出しました。もともとは食料品店でした。野菜やカップラーメンやいろいろ扱っていたのでした。
 病院の前ということもあり、日用品とは別に、お見舞いに使えそうな果物やお菓子も扱っていたように記憶します。
 八百屋と食料品やは競合関係にあって、片方が商売替えしたのかもしれません。
 その八百屋が集合場所でそこまでは一人で帰ったのだと思います。

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