「殺人小説の書き方」 第十話

「あの人が好きなの?」
 と北斗が尋ねた。刑事二人は軽井沢に向かっており、残った二人は地下鉄に乗っていた。神保出版に向かっているのだった。鳥井に尋ねたら、連絡を取ってくれたのだった。これから三十分ほど時間があるというので、二人で会うことになった。
「あの人って?」
「鳥井さん」
「そう見える?」
「見えるけど」
「小説は好きだよ。すごく好きな感じだった」
「早坂雄一郎のも?」
「好き……いや、どうかな。価値判断と好悪は別じゃない? 面白いと思ってたけど、別に好きじゃない」
「そういうもの?」
「面白いとは思ってた。でも好きじゃない」
「どういうものが好きなの?」
「どうって……色々じゃない? 緻密で隙がないのもよければどうしてこうなるのかっていう意味わかんないのもいいし、何か……何かを見せてくれたって思えるものが、いいのかな。新しいものとか。知らなかったものとか、その人固有の何かを。別にそれが技術によってでもいいし、情熱によってでもいい。いや……いや、でも、わかんないな。そんなん言ったら全部好きになることになるし。でもつまんないとか好きじゃないってものもある。結局、好きになるのに理由はないかも」
「そうなんだ」
「理由があって好きになるんじゃなくて、好きになってから理由を探すんじゃない? 意識の働きとしては」
「そういうものかな」
「自分の感情すべてを理解できるほど私は賢くない」
 それらすべての言葉がひどく率直で、なにもかも本当に聞こえるのに、その言葉から須藤鏡花という人間が見えてこないことが、北斗は不思議だった。驚くような率直さとぬけぬけとつく嘘。それが須藤鏡花だ。
「桐生は?」
「え?」
「鳥井さん好き?」
「いや……」
 鏡花は笑った。
「好きじゃないんだ」
「好きとか嫌いとかいうほどの関係じゃないから」
「じゃあ誰なら好きなの?」
 北斗は言葉に詰まった。鏡花はそれを見て、ほんの少し得意げにした。そういう顔だ、と、北斗は胸が痛くなった。そういう顔が、可愛かった。なんでもしてあげたくなった。
「桐生って、人当たりいいけど他人にそんなに深入りしないよね」
 そうではなかった。そうではないことを、本当は鏡花も知っていた。その優越感が、うっすらと彼女に漂って、大人しい子供じみた彼女をひどく魅力的にしていた。彼女は魅力的だった。初めて出会った時からずっと、彼女は魅力的だ。何をしていたところで、魅力的だった。善悪の判断とはまったく関係のないところで、彼女の魅力は色褪せることなく鮮烈だ。否定できない。
 だが彼女を好きだと、言えるのだろうか。伝えることが弱みだから言いたくないのではない。ただわからないのだ。これは、好きとか嫌いとか、そういう言葉で言い表せられる感情だろうか。北斗には、もうわからない。

 神保出版に行き、鏡花が山崎に会いに来たというと、会議室に通された。そこに現れた山崎は痩せた五十歳ほどの男だった。水色の襟付きのシャツにチノパンという格好で、髪は長め。ファッションというよりいつも切りそびれているような様子だった。民間人のみで警察の捜査と言うのははばかられたので、鏡花がこの事件についての取材をしているという名目にしている。北斗は鏡花の助手ということになった。
「どうも。須藤さんお久しぶりですね。あ、これ」
 山崎はプリントアウトした用紙をくれた。かなり分量がある。
「打ち合わせのチャットと修正分の原稿です」
「いいの? ありがとう」
 鏡花は山崎に敬語を使わない。編集者にはそうなのかと北斗は思ったが、会議室に案内してくれた女性にはごく普通に敬語を使っていたので、鏡花なりに区別しているのだろう。
「いえいえ」
 鏡花はぱらぱらとめくり、ふうん、と言った。
「早坂雄一郎とはいつもチャットで打ち合わせしてたの?」
「え、はい。そうですよ。文字ベースで」
「いつから?」
「いつ……いつからですかね? かなり前からですよ。僕が担当してたのは五年ぐらい前からですけどその前からずっと……うーん。ちょっと正確にはわからないですけど」
「ふうん」
 鏡花は使っていたチャットサービスについて尋ねた。早坂は基本的にひとつのサービスを使っていて、編集者のほうで都合がつかなければ別のものも使うようだった。北斗は普段チャットは使わないので詳しくないが、鏡花はさすがによく知っていた。
「それでこれ、著者校正は鳥井さんが?」 
「え? ええ。鳥井さんがやってくれました」
「そういうことってよくあるの?」
「いや、緊急事態ですよ。でももともと早坂先生それほど直しもないですし、特に問題はなかったです」
「ふーん」
「しかし須藤さん、取材って何を書くつもりなんですか?」
 何も考えていなかったので北斗はぎくりとしたが、鏡花は平気な顔をしていた。
「さすがにこんなすぐ解決もしてない事件のノンフィクションを書く気はないけど、もともと早坂雄一郎の失踪から思いついたアイディアがあって。忘れてたんだけど鳥井さんに会ったついでに色々話聞いてみようと思って」
「今までの本とはだいぶ違った感じですね?」
「いつまでも中学生のままじゃないしね」
 北斗が追い付けないスピードで、鏡花はぱらぱらとプリントを捲って、概要を把握したようだった。北斗に押し付ける。
「鳥井さんと早坂雄一郎のなれそめって知ってる?」
「へ?」
「知らない?」
「いや……そんなに詳しくはないですが」
「私全然知らないの。教えてくれない?」
「うーん。二十年……もうちょっと前か……二十五年は……経ってないな。そのぐらい前の話だからなあ。確か早坂先生が鳥井さんに声をかけたんじゃなかったかな……いや、ナンパとかそういうことじゃなく、有望な新人作家に指導する感じでね。早坂先生そういうの好きだったでしょう」
 鏡花は頷いた。
「私も声かけられた。身の程知らずだよね」
 山崎は苦笑したが、そこには触れなかった。
「鳥井さんって目立ってたの?」
「いや……そういうわけでもなかった……かな。ええと……新光出版の……なんだっけ。もうなくなった新人賞の。佳作でひっかかって、二作目が出てから次がなかなか出なくて……短編はいくつか雑誌に載ったのかな。読んだ記憶がある。地味だけどよく出来てたな。うまい人だったけど」
 鏡花は首を傾げた。
「そういう人はたくさんいる?」
 山崎は頷いた。
「そういうことですね。いい資質は持ってた……と、思いますよ。他の編集者もそう思ってたんじゃないかな。でもわざわざ拾って磨くほどでも……という」
「へー山崎さんせっかく出版業界に来てくれた新人にそういう見方してんだ」
「いや、いやいや。力をつけてもっといい原稿を見せてくれたら喜んで仕事しますし、そういう可能性はだいたいのデビューまでたどり着いた人にはありますよ」
「磨くのは自分でお願いってこと?」
「まあ……まあね」
 鏡花はつまらなそうに唇を尖らせた。
「で? 鳥井さんは早坂に指導を受けてた?」
「いや、そこまでは知りませんよ。ただ気が付いたら結婚して。早坂先生は押しも押されぬ作家になって、鳥井さんは書評なんかのほうに行ったってことですね」
「ふーん」
「結婚式とかもしてないんじゃなかったかな。本当にいつの間にかって感じで結婚してて」
「気持ち悪くない? そういうの?」
「え?」
 山崎は何を言われたのかわからないという顔をしてから、生ぬるい笑みを浮かべた。
「まあ、ねえ。男女のことはねえ、わからないから」
「いや他人の知らない間に誰かと誰かがくっついてることじゃなくって、指導者っぽく近づいといて性的な関係に持ち込むの気持ち悪くない? 無理なんだけど」
 そう吐き捨てる鏡花の顔には社会活動をする中でそうそう見ることのないはっきりした嫌悪が刻まれており、北斗の目を奪った。
「ああーまあ、はい……そうかもしれませんね……まあ……いい大人のやることですし……」
「どーせ私が十代のときにそのへんのじじいと性的な関係結んでたら「女の子は早熟ですからね」とか言ってたんでしょ。無理なんだけど」
「いやいやいや」
「どうせ今も「なんかそういうことあったのかな」って下世話な気分になってんでしょきもちわる。無理」
「ははは」
 山崎の笑い声は空疎だったが、図星をつかれたのは明らかだった。北斗は息苦しくて目を背けた。自分もそう思ったからだった。
「で? 早坂ってほかに噂になってた人とかいないの?」
「え、いや、覚えはないですね」
「じゃあ鳥井さんと親しくしたときって噂になったんじゃないの」
「いやーパーティーで作家同士が話してたところでね、別に……」
「ふーん」
「本当にいつの間にか結婚までしてたんですよ」
「ふーん」
 もうすっかり関心を失ったかのような雑な相槌に、山崎は笑った。愛想笑いのようだが、そこにもっと生々しい感情がにじんでいる。既視感に居心地が悪くなる。山崎のその反応は、北斗が学生時代にしょっちゅう見かけたものだった。ある程度の年齢の男に鏡花はおおむね反抗的だ。不穏な空気になることもあるが、結構な場合、相手は喜んでいるのだった。鏡花の行動は常識から外れている。外れたことを若い女性にされるのが、嬉しいのだ。編集者の山崎にとって作家須藤鏡花はひとつの権威ではある。あるが、それ以上に目の前にいる鏡花は小さな女の子なのだった。彼女は強力な個人だが、多くの権威が持っているような自分以外の権威者のうっすらとした共感の連帯の外にいる。高圧的にしたところで、子猫の甘噛みぐらいにしか思われない。親しみの表現にさえ感じる。鏡花ももちろんそれは感じ取っている。だが、穏当にふるまえばそれはそれで、単純に侮られ、近づかれる。
 北斗は結局、鏡花の無礼にも何か理由をつけて納得しようとする自分を笑う。目が曇っている。間違いない。
 鏡花の手が北斗の方に伸びる。なんの断りもなく北斗の手元にあったプリントを再び手に取ると、ぱらぱらと山崎に向かって捲って見せた。
「これ」
「はい」
「本当に早坂が書いたと思う?」
 鏡花は何か楽しそうにしている。山崎は頷いた。
「はい。警察にも聞かれましたけど、まず間違いなく先生の文章ですね」
「直しでしょ?」
「直し方でわかります。訂正するにしてもこういう元の文章の活かし方、先生のやり方です。わかりますよ」
「打ち合わせのチャットの文も?」
「それはもう間違いなく。先生の文です」
「ふーん。間違いなく?」
 山崎は戸惑ったが、頷いた。
「間違いなく」
「命かける?」
 鏡花は微笑んでいる。山崎はひるんで、あいまいに笑った。
「いや、命とは言いませんが……でも、これが早坂先生の文じゃなかったら、僕は編集者としてやっていく自信、なくなりますね。本当にどこをどう見てもなんの違和感もない。完璧に早坂雄一郎です」
「ふうん」
 鏡花はそう言うと、満足しきったように、目を細めた。

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