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小説 | 団地の夢 3

母への抗議も虚しく、嫌なら断りなさい!引き受けたのならやってみなさい!の一言で打ち消されてしまった。

母はすっかり団地の生活に溶け込んでいる様で、鍼灸処でお灸をしてもらった時に、今回の話を持ちかけられたのだと言う。私がいないところで話を進めるのはどうなのか。母を問い詰めるが、嫌ならはっきり断ればよかったじゃないと一蹴される。たしかに断る権利はあったのだ。

「一度引き受けたなら最後までやりなさいね」
母はピシャリと言い放つ。

「じゃあ、お仕事行ってくるから。晩ご飯は冷蔵庫にあるからね〜早く寝るのよ〜」

母は10時から15時までは保険のセールスとして働き、その後19時から23時までは駅向こうのスナックで働いている。

保険のセールスに行く時はグレーの地味なスーツを纏い、黒のありきたりなローファーを履いている。

しかし、スナックに行く時は、エルメスのバッグにマルジェラのヒールを履いてビシッと決めている。スナックへ向かう母の姿は凛とした美しさがあり、私は大好きだった。

父が居なくなってからお金に困っている素振りは見せないが、一家の大黒柱としてかなり無理をしていることは私にもわかる。

父と母に何があったのかはよく知らないし、詳しくは母も教えてはくれない。
心の中では"なんでどうして"が渦巻いているのだけれど、一所懸命に働いてくれている母を見るとそんなことは言えないのだ。

キリリとした母を見送り、自分の置かれた状況に辟易する。

「はあ…どうしよう…」
鍼灸処かねひらの受付バイトは明日と明後日の二日間だ。

本当なら遅くまでテレビを見たり漫画を読んだりできる自由で最高な金曜日の夜なのに。バイトのせいで最悪な気分だ。
明日は9時に近所の神社まで行かねばならない。

ユウコに話を聞いてもらおうとも思ったが、今日は家族で食事に行くと言っていた。今頃、お洒落なレストランで真鯛のカルパッチョなんかを食べてるんだろうな。

私はバランス釜を備えた古い風呂に入り、母が用意してくれたオムライスを食べた。

22時を回ったあたりで自分の部屋に戻り、薄汚れた天井を眺めていた。どんなに悩んでも朝はくるのだ。明日の準備をしようと、渡された制服や地図に目を通すことにした。

地図は手書きで、団地裏にある神社までの道のりが描かれていた。
仕事内容は受付、お茶出し、お話相手の3つが箇条書きされていた。お話相手とは、何なのか。

管理人の男から渡された制服は神社の巫女さんが着ているような袴だった。

「制服の趣味…」と呟きながら袖を通してみるとサイズはぴったりだ。
袴の色が深い紺色だったため、弓道部みたいな様相に笑ってしまった。案外悪くない。下には薄手の肌着と体操着のハーフパンツを履いていこう。

「時給3000円×5時間×2日間…30,000円かあ…」

高校生にとっては大金だ。
あの男の手伝いをする代償としては案外悪くないように思えてきたではないか。なんとも現金な性格だ。

ヨーコは30,000円の使い道を考えながら床にはいった。

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