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イバフォルニア前史。

こんばんは。
イバフォルニア・プロジェクト事務局の小池です。

前回が初noteだった訳ですが、早くも「続きはまだか?」とのお声をいただきました。ありがとうございます。

ただ、更新頻度はほんとに気まぐれなので、気長に見守っていただければ幸いです(笑)

さて、前回のタイトル「イバフォルニアが出来るまで。」についてこれからもお話して行くつもりではあるのですが、そのためにはイバフォルニアが産声をあげる前に僕が何をやっていたかをお話する必要があります。まずはそちらから。

阿字ヶ浦の黄金時代

僕は1978年に小池家の長男(姉二人)として阿字ヶ浦で生まれました。父は日立製作所の技術者でありながら、家業である民宿を営み、母は3人の子育てをしながら、民宿の女将としても働いておりました。二人ともとても働き者だったと思います。(母は今でもそうです)

その頃の阿字ヶ浦は海水浴の最盛期で、1983、84年と2年連続で来場者数日本一となっています。ピーク時で322万人の来場者数を誇ったと言う記録があります。近年人気のひたち海浜公園の「年間」入場者数が229万人なので、どれだけ凄い数字かわかります。まだ子供でしたが、夏になると家の前の道路が渋滞するほど、街に人が溢れていた記憶があります。

当時は今の母屋の前に離れがあり、客室数も倍あったのですが、夏休みは毎日のように満室でした。現在は30軒ほどとなりましたが、夏期限定のものも含めると100軒を超える宿が軒を列ねていたそうです。

大体、ひと夏で一般的なサラリーマンの年収ぐらい稼いでしまう所がザラだったそうで、母は嫁に来る時に羨ましがられたそうです。実際はそこまでじゃなかったそうですが(笑)

この頃の話はもはや伝説的になっていて、阿字ヶ浦に来るために国道50号が栃木まで渋滞していたとか、その渋滞の車にスイカやジュースを売って小銭を稼いでいたとか、海の家の売上が一日で100万ほどになるので、金庫がすぐに一杯になるだとか、当時を知る人に話を聞くとこんな話がポンポン出てきます。

みんなの思い出の場所

僕らより少し上の世代、50~40代後半の方は黄金時代にちょうど青春を謳歌しており、よく楽しかった思い出話をしてくれます。

通りには海の家や売店だけでなく、当時は茨城には珍しかったファーストフード店やおしゃれな雑貨を売る店なども建ち並び、仕事終わりにショッピングに行くのが楽しみだったと言う女将さんもいました。

週末の夜ともなると海岸道路沿いに車が列をなし、ナンパ待ちをしていたのだとか(笑)1台ずつ声をかけていって、交渉成立すると車は列を離れ、そのスペースにまた次の車が来て、と言ったようにタクシーの順番待ちのような光景が毎夜繰り広げられていたようです。確かにうちの坂の下にもモーテルがありましたっけ(母曰く「連れ込み宿」だとか)。

ある旅館のオーナーがお客さんから言われたそうですが、栃木や埼玉などの海無し県の人達からしてみれば、阿字ヶ浦は夢の国なんだそうです。半裸で街を歩いてるのが当たり前で、そんな人が大勢いるのがすごく刺激的だったみたいですね。

こんな話が止まらなくなるほど活気のあった場所が当時の阿字ヶ浦でした。まだまだエピソードはたくさんありますが、ここらでやめにしておきます。

次回は2000年代に入れるかな?(笑)
頑張ります(*^^*)

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