見出し画像

def.

現在はベビーマッサージインストラクターというとても穏やかそうな仕事をメインとしているが、以前は高校教諭という穏やかさの欠片もない仕事をしていた。

滅多にそんな話はしないが、たまにその話題になると「教科はなんですか?」という定型文が投げられる。

「なんだと思います?」という鬱陶しい定型文を投げ返すと決まって英語か家庭科と返ってくる。

女性の数学教師と出会ったことのある人は少ないらしい。

数学の教員だったと分かると「理系なんですねー」と言ってくる人がいる。中には「私も理系でした」「私も数学が得意でした」という人もいる。こういう人達とは大抵話が合わない。

余談だが、教員時代、書道の先生が「私は元々理系の人間だった。数学が一番得意だった」と言って自分のクラスに数学を教え始めたときには震えが止まらなかった。

理系文系の意味もよく分からない。教育学部で数学の免許を取った私のどこが理系なんだ。経済学のどこが文系なんだ。

そんなことはどうでもいい。
今日はそんなことを言いたいんじゃないのに半分くらいまできてしまった。


数学の教員というだけで、普段から何事も論理的に考えてそうだ みたいに言われるけど、それはちょっと違う。いや、だいぶ違う。

数学において論理的思考能力が大切なのは確かだけれども、論理的に正しいということが強みを持つのは、そこに必ず定義が存在するからである。定義が全てなのである。

一方、言葉を言葉で定義するのは難しい。不可能に近いとすら思っているし、それが良さでもあると思う。

言葉を介して人とコミュニケーションを取るとき、その一つ一つの言葉の定義は曖昧で、あなたの定義と私の定義は、微かに違う。

だから、そんな曖昧な定義の上でいくら論理的に話をしたとて、解釈は人それぞれ、ちょっとずつ違う。いや、ものすごく違う、かもしれない。だから、論理的であることなんて、日常生活においては大して重要ではない。

以前「私、忙しい、っていう言葉は使わないようにしてるんです!忙しい、って言う代わりに、充実してたーーーって、言うようにしてます」と爽やかに言い放つ人がいた。その後不倫騒動で一世を風靡することになるベ○キーだ。(誤解ないよう言っておくが私は○ッキーは嫌いではないし、川谷絵音なんて大好きだ)

私はこれを聞いたとき、彼女の単語の定義が自分とは違いすぎて、この人と会話すると疲れそうだなと思った。心配しなくてもベッキーが私と会話してくれることなどないけれど。

私にとってはほぼ閲覧専用になっているツイッター上でも、毎日のように、私もそう思う・私はそうは思わない、というような論争が、十分な定義の確認もなされぬままおこなわれている。まるで算数のようだ。

「良い」「悪い」だけを取ってみても、この明確な差は分からない。対立しているようで同じことを言っていたり、勝手に汲み取ったつもりが全く違っていたり、そんなことがほとんどかもしれない。お疲れさまです、とほうじ茶ラテを出して差し上げたい。

こんなにも定義が曖昧な「言葉」というものを重ねに重ね、我々は今日も論理武装するのである。このnote然り。ほうじ茶ラテを飲もう。

そうそう、定義といえば、もう一つ面白いなと思ったエピソードがあるのだけれど、それはまたいつか書く。眠い。ぐぅ。。。

#ひとりごと #定義 #definition #論理的思考能力

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?