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[連載1]アペリチッタの弟子たち~プロローグ~1.アペリチッタの弟子

毎晩夢にでてくるようになった魔法使いアペリチッタの書いた本、という体裁で語られるこの連載は、ことば、こころ、からだ、よのなか、などに関するエッセーになっています。

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1 アペリチッタの弟子

 ぼくが、「続き物の夢」を毎晩連続してみるようになった正確な理由はわからない。
 一応、みんなには、コロナウイルス対する非常事態宣言による自粛期間を利用してウクレレの練習を始めたら、毎晩ウクレレの先生が夢に現れるようになった、と説明している。でも、もしかしてそれは、ぼくの女友達がつくる「くまさんクッキー」を食べるようになっていたせいかもしれない。
 とにもかくにも、毎晩夢に出てくる先生は、実際のところ、ウクレレの指導などはしなかった。
 彼によれば、この世界のみんなは、悪い魔法にかかっているのだ、という。
 彼は言う。
 例えば、テレビのニュース。実は、あれは、日本のお話ではなく、東京、しかも、その中でもごく一部の限られた場所にいる人々のお話あるいは感想にすぎない。にもかかわらず、あたかも、それらが日本全体のニュースかのように皆が思っていること。
 それはみんなが魔法にかかっているせいだ。
 例えば、東京で出前をするウーバーイーツは、ぼくの住んでいる街までは食べ物を運んでくれない(出前館、は最近できたが)。
 フェイスブック、インスタグラムや、X(旧Twitter), You Tube, Tik Tokやこれから次々でてくるいわゆるITメディア。実際のところ、これらは、すべて、今この世界を支配する魔法使いの片棒をかついでいる。
でも、こんなことをいう人は誰もいない。
 なぜなら、ほとんどの人は、自分たちが魔法にかかっていることさえわからないからだ。
 それは、この世界には、魔法を解くことを隠す魔法が「二重に」かけられているからだ。
 魔法を解くことを隠す単純な方法の一部は、例えば「そのことを言わない」こと。あるいは「それとは別のことを言うことで、肝心なことを隠す」という方法もそうだ。
 だが、さすがに、コロナウイルスのパンデミックくらい大きな事件がおこると、人々の中に、自分たちが魔法にかかっていたことに気づく人がでてくる。
 事実、コロナウイルスは、社会によって隠されていた社会の様々なことをあらわにした。
 そして、ぼくの夢の中に現れたウクレレの先生でもある彼は、自分こそが全世界に、このコロナウイルスのパンデミックをひきおこした張本人だ、と主張した。
 今回のコロナ禍は、今の魔法使いではない、別の魔法使いである自分が、代わって、新たに世界を支配しようと起こしたひそかな戦争だ、と。
ぼくは彼に尋ねた。
「なぜ、あなたは、人類を危険にさらしてでも、コロナウイルスを流行させるという賭けにでたんですか?」
すると、彼は、ぼくにこう言った、
「何事も、『すべての面でいいとこ取り』はない、ことを知ってほしい。あることをなしとげるには犠牲がいる。No Pain, No Gain.さ」
それに。
「『人類滅亡』という『全面戦争』のフィクションと違い、実際の戦争とは『部分戦争』だ。戦争後も、世界は維持され、人口と生産力は残る。わたしがばらまいたコロナウイルスにしても、『部分戦争』でしかない。そして、『コロナウイルスによるパンデミック』という、わたしが仕掛けた戦争で、われわれは既に成功をおさめ、それによって、今や、新しい時代に変わりつつある」
 彼の名は「アペリチッタ」といった。
 その名前は、彼自身が、自分を紹介したときに自身で名乗った名前だ。

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 今も、コロナウイルスに対する非常事態宣言による自粛期間中で、ぼくは自分の店をずっと閉めている。
 このところ、ぼくがずっと過ごす場所は喫茶店だ。ネットカフェや漫画喫茶ではない、普通の喫茶店。これではありふれていて、「社会現象を象徴する話題のルポ」にはならないだろうが、ぼくには寝泊まりするアパートは他にちゃんとある。
 飲食業にもかかわらず、料理下手なぼくは、ここの喫茶店で食事をする。あとは、ただ、喫茶店に置いてある雑誌を長い間かけて隅から隅まで読む。
生まれてくるときは一人だし、息絶えるときも一人だ、なんてことはとっくに知っている。だから、ナンバーワンにもオンリーワンにも興味はない。
でも、この町のどこかで、ぼくを待っている人がいる、ということは,未だに信じている。
 だから、パンデミックに、お手上げ、バンザイ、であっても、「今日はさよなら。明日はいい日さ」と毎日思う。
 ところで、ここからの話は、ここだけの話にしてほしいが、実は、今回、自粛への協力金として入手したコロナ補助金の金額は、普段のぼくの店の売り上げをはるかに超える金額だった。
おかげで、ぼくは働かずに、こうやって日々おくれるのだ。とても助かっている。
 飲食業といっても、普段からもうかっているところばかりではない。コロナ補助金で、助かったと思っている飲食業者も、ぼく以外にも少なからず、いると思う。
 だが、そんなことをあえて口にしても「話題のルポ」にはならないし、あえてそれを口にしてなんの意味があるのだろう?
 ただ、ぼくは、その補助金でコロナウイルスのパンデミックに少しだけ感謝したことは確かだ。大きな声で、人前ではいえなかったことだが。
 そして、こんな風に密かにそう思っていたぼくは、ある記事を目にしたときに、衝撃をうけ、このことについてさらに考えなおしたほうがいいかも?と真剣に思い始めた。
 それは、コロナウイルスのパンデミックの2020年の1年間の日本人の総死亡者数が、コロナウイルスがまだ無かった2019年より1万5000人減ったという記事だった(注1)。
 この記事を読んだとき、ぼくは一瞬、頭が混乱した。
 思わずもう一度読み直し確かめた。すると2019年の日本の総死亡数が126万5000人だったのが、コロナウイルスが猛威をふるった2020年の日本の総死亡数が125万に減ったのだという。
 これは、コロナウイルスのパンデミックのもつ大きな負の要素がなくなったということだ。そうであれば、パンデミックを歓迎するということの罪悪感も減る。
 確かに生活は「窮屈に」なったかもしれない。でも、コロナウイルスによって、年間死亡者数が減った。これは、まちがいなくパンデミックのもたらしたいい結果だ。
 その他、大げさではない身近なできごとを例にとっても、外国人のいない静かな観光地のよさ。混雑してないスペースをとれたレストランでの食事の豊かさ。あるいは、混雑さが減った電車などの公共交通機関や、車の台数が減った道路。それらを経験したとき、われわれは少し得した気分になったのではないか?
『コロナウイルスのパンデミックは素晴らしい!パンデミックがおきてよかった!パンデミックにバンザイ!』
 実は、そう思っているが、声に出してそう言わない人、あるいは言えない人が、今の日本にはけっこう多いのではないだろうか?
 さらに、たとえそう口にだしても、世の中はその声を黙殺し、外に出さないように封じ込めてしまうのではないか?
 ここで言う、世の中=いわゆるマスコミ、あるいはSNSの場や、それぞれみなが所属する会社や学校や様々な集団内、のことである。
 だからこそ、ぼくは『コロナウイルスのパンデミックをひきおこした』と自称するアペリチッタに弟子入りしたのだ。たとえ、現時点で、「パンデミックに万歳」でネット検索しても、ヒットするものはゼロであるにしても。

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 これからここに記していく多くの言葉は、ぼくが書いたものというより、ぼくが「続き物の夢」の中でアペリチッタが話したことを書き留めたものだ。
 ぼくが書けることは、ぼくの生きてきた狭い世界の中のことがらだけだ。そして、ぼくは、つまらない、経験も財産も貧しい人間だ。
正直に告白すれば、ぼくは昨日食べたごはんのメニューさえも、思い出せないくらいなので、世界でおこっている戦争や問題点のこととかは、すぐ忘れてしまうのだ。
 だから、アペリチッタの言葉を借りようと思う。彼は、ぼくにない、言葉をもっているのだから。
 ただ、ひとつだけ、ぼくのことも。
 ぼくは、「すごかった。マジ笑った。はいおしまい」と言うだけの羊の群れからはみ出していることは確かだ。だからこそ、アペリチッタの言葉に興味をもったのだ。
 いや、これも、単なる「ええかっこしい」かもしれない。
 本当のところは、いつも「周りの人は幸せなのに、どうして、ぼくだけこんなに辛いのか?」と思っていたぼくが、アペリチッタの話を聞いていたら少しだけ気が楽になったからなのかもしれない。
 
 アペリチッタの話は多岐に及んだ。
「ウクレレのコードは、ギターの5フレットから先の、1から4弦でつくるコードと同じ。つまり、ウクレレはギターの一部なんだ。だから、例えば、ギターの第4弦がDである一方、ウクレレの第4弦はGだ。だから、ギターのD7のようにウクレレで抑えれば、それはG7となる。」
「ややこしい魔法の呪文みたいなコードには、ごく一部だが、隠れた法則がある。それで、コードの複雑さが単純になるわけではないが、少しとっつきやすくなる。それは、例えば、Am7=rootA+Cだ。そして、FM7=rootF+Amだ」
 こんなウクレレや音楽のコードの話をするよりも、アペリチッタは他の話をぼくにすることの方が多かった。
 本当に、彼はウクレレの先生なのだろうか?
 



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