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[ その⑨最終]「ぼくが出せなかった7通の手紙」~胃がんに罹ったペシェへの手紙~ エピローグ/10年後のあとがき

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             *

エピローグ

 ペシェは、身寄りがなかったので、身元保証人には、片桐がなっていた。
 ペシェが亡くなると、片桐は病院によばれていった。
 ぼくも片桐とともに病院に向かった。
 ペシェの遺体を前に、片桐は泣いていたが、ぼくは目頭が熱くなっていたが泣くことはなかった。
 数多く人の死を見てくると、涙を流せない「片輪」になってしまうのだ。

 でも、年をとるにつれ、ぼくも少し涙もろくなってきたようだ。

 死亡時刻は真夜中だったので、主治医は病院に来院できず、病院の当直の医師が死亡宣告し、死亡診断書を書いた。
 看護師が、ペシェの体のエンジェルケア(死後の処置)をしている間、片桐とぼくは、わたされた死亡診断書を家族控室でながめていた。
「太田誠二」
 それがペシェの本名だった。
ぼくや、片桐さえも忘れかけていたくらいだ。
 すると家族控室に一人看護師がやってきた。
 まず、病院の会計のうちあわせ。
 日をあたらめて、入院費の支払いを病院窓口でおこなうのだ。
 
 それと、もうひとつ。
「すみません。どうやら死亡診断書の、字がまちがっていたみたいで。また新しく書き直すので、今のお渡しねがいますか?」
「間違い?」
「ええ。太田誠治、でなく太田誠二が正しいようです。申し訳ありません。カルテにも二つの漢字がまじっていて。担当者には厳しくいっておきますからお許しください」
「いえ、気にしませんから」
「本当に困ったことですわ。こういうのが、医療ミスにつながるんですわ」
(つながるものか)
 ぼくは心の中でつぶやいていた。
 すぐに医療ミスとか医療訴訟の話をもちだす、医療管理職の立場の人がどうしてこうも多いのか?
 そういうことを好んでいう人ほど、一番肝心な医療そのものについての教育や議論が少ない。というより、できる能力がない。
彼らは、ただ仕事をふやすコツを知っているだけだ。
コツは3つ。
その1『今やっていることのマニュアルつくりをすること』。
その2『仕事のルールは単純化しない』。
その3『常に問題点を提起すること』。
 暇な人の時間つぶしにはいいかもしれない。それを楽しいと思う人がいるならそれはその人の趣味だ。
 しかし、それが、日常業務を妨げ、医療レベルを下げていることにつながっていることに彼等はきづかない。
(彼らはそれと反対のことをしていると思っている)
 でも、彼らがお荷物だからといって、それをほおって走るわけにはいかないのだ。
彼らが足をひっぱるマイナス面もふくめて、組織を維持していかないといけない。
新人教育の手間をはぶけないのと同じだ。

 片桐はペシェの遺体をひきとってもらう葬儀屋をきめ連絡した。
そして、ストレッチャーに乗せられたペシェの遺体は、病院の裏口の、一般の人からは目につかないようにしてある「おみおくり」専用出口まで運ばれた。
そこで、遺族、病院スタッフ、葬儀屋が簡単な仏壇でおまいりをしたあと、遺体は遺族の乗った葬儀屋の車で病院をあとにする。
その遺体をのせた車を、病院スタッフが礼とともに「おみおくり」するのだ。
参加する病院スタッフは、その時間にたまたま勤めていた数名の看護師だ。
主治医どころか、当直医がその中にはいるというのさえまれだ。
だが、亡くなったあとの仕事は、医者から葬儀屋にうつるという意味でそれは合理的ともいえる。

ペシェが死んだ翌日に通夜がおこなわれた。
喪主は、知人の片桐がつとめ、納棺式、通夜、告別式、火葬、忌明け法要、納骨と続く一連のすべても彼がおこなうことになった。
ただ、財産の処分については、知人でしかない片桐が行うことはできず、役所がすべて処理することになった。ペシェは、生きているうちに法的な「後見人」を指名しなかった。考える力や判断する力、あるいは体力がおちている老人には、まだ多少でも元気なうちに、本人が同意して「後見人」がつくことがあるが、ペシェの場合、死の間際数日前まで、それらの力は保たれていたのだ。それにペシェには、大きな財産があるというわけでもなかった。
また、ペシェには身よりがなかったので、納骨後は、無縁仏として、もし現れるかもしれない縁故者のために、1年間、官報や立て札で掲示をし、もしひきとり手があらわれない場合はそのままお寺で供養されることになった。

通夜で僧侶が去ったあと、「通夜ぶるまい」にやってきた人々の中には、いままで、ぼくがペシェとつきあっていたが知らなかった人も何人かみえた。
ペシェが死んではじめて、ぼくがペシェについて知ったことも多かった。
むしろ、ペシェが死んだ後の方が、よりよくペシェをぼくは知った、というのが正確な表現かもしれない。

通夜は、告別式を次の日に予定している小さな葬儀屋でおこなわれた。
この葬儀屋のすぐとなりには大きな葬祭センターが新たにできていて、こちらの方の客がよく間違ってそっちへいく、とやや自嘲気味に葬儀屋の人ははなしていた。
ペシェはみよりがないから、そんな大きな場所はいらない。
50人くらいが入ればいっぱいになってしまうような、こじんまりとした式の場所を片桐は選んだがそれは適切だった。
棺桶には、遺体と一緒に、ペシェ自身が育てていた蘭の花が山のように飾られ、まるでどこかの大きな社長の葬儀のような華やかさだった。
そして、ペシェが好きだった「ペシェ」という銘柄のタバコも中にはいっていた。

ペシェはその晩年、片桐ともうひとり小出達郎と共同でバイオベンチャーのたちあげにとりくんでいた。
片桐の恋人の里美という女性が、通夜にまずおとずれ、結局彼女は、片桐やぼくと一緒にずっと通夜の最後まで席を立たなかった。
ぼくの検診センターの社長秘書をしている清水純子と社長の横川正も顔をだした。
ひとり、ぼくのしらない老女がやってきた。
ぼくよりも昔から、ペシェとつきあいがある片桐は彼女のことを知っているようだった。
「おばさん。ひさしぶり。忙しいかい?」
「忙しいよ。本当に、どこが不景気なんだか。平日だって、けっこういっぱいだよ。働かないでぶらぶらしていて、私んとこに来れる人、こんなご時勢でもけっこう多いんだよ」
片桐によれば、ペシェは、昔、ピザ屋のバイトをしていて、そのときによく出前をとどけていたラブホテルで受付をしていたのがこの女性だった、という。
ある日、たまたま出前したホテルの部屋で、ペシェが当時付き合っていた女の子が見知らぬ中年男といるのにでくわして、ペシェはその男に殺人にはならなかったけど大怪我をさせたという。
それで、ペシェは刑務所にいき、そこでパソコン関係の職業訓練を受けた。
出所してしばらく、ペシェは正規の職業につかず、ネットのデイトレードをしながらホームレスのような生活をしていた。
そのころ、片桐は、立ち上げた会社がつぶれたり、恋人(今の片桐の恋人の里美の姉で京子という名前だったそうだ)と死に別れたりが重なり、失意の中にいた。
そんなころ、片桐とペシェが出会ったのだという。
「ペシェは怒るかもしれないけどね。やっぱり、私、彼女に彼が死んだことを連絡しちゃったよ」
 その老女の後ろには、ひとりの若い30すぎたくらいの女性がひかえていた。
 たぶん、ペシェが、かつて傷害事件をおこすきっかけとなった、彼女本人なのであろうことは容易に推察できた。
 彼女は、名乗ることはなかったが、そこに集まった一同に深く礼をしたあと、棺桶の中のペシェの顔をみつめ、そして今度小さな壇上に飾られたペシェの写真の前で長い間、祈っていた。
 声は聞こえなかったが、彼女が泣いているのは皆わかった。

 彼女と、その老女が帰ろうとするとき、ぼくは声をかけた。
「よかったら、これ、どれかひとつもっていってください。ペシェ、いや太田君は、最近、蘭の栽培を熱心にやっていて、闘病中もよく世話していたんですよ。ぼくも、一株、ぼくの名前のついた彼が交配でつくった新種の蘭をもらっています。お二人に、もっていってもらったら、彼はきっと喜ぶと思います」

(死んでしまったぼくは、ただみんなの声を黙って聞いているしかないんだけど、彼女が、ぼくが一番彼女にあげたいと思っていた蘭を選んだのをみて、おもわずしゃべりはじめちゃったよ)
(おやおや、ペシェ。そんなことをしてもやはり、死んだ者はやがていつのまにか忘れられるし、死んだ者は生きている者に何もできないのだよ)
(わかっているよ、おじさん。ホームレスをしていたおじさんが死んだあと、そのことはぼくにもよくわかった。ぼくはそのときはじめて本当の死というのを知ったんだ。
みんなに送った蘭もやがて枯れて、ぼくは記憶から消えていく運命だ。でも、まだ忘れられないうちに、彼女にひきとられた蘭の花として彼女の前に顔をだしたいと思うのはよくばりかい?)
(あいかわらず変わった奴だな、ペシェは。
さて、いい機会だ。いまさらお互い死んだ後だけど聞いていいかい?
株と先物取引で全財産と家族・知人を失ったわしのようなおいぼれを世話しながら、何年もの間ホームレス生活をしていたのはなぜなんだい?)
(ちょっと伝わりにくいかもしれないけど。あなたは忘れてしまったかもしれないけど。
ぼくが、刑務所からでてきても自分の生きている意味がわからずに死のうとしたとき、あなたにこういわれたんだ。
『もし、自分が死んでもかまわないと思っているなら、生きたまま自分を殺せばいい。自分のためでなく、人のために生きること。そうするには生きたまま自分は死ななければならない。どうせ死ぬつもりならそれもできるだろう?』
そして、ぼくは、自分のために生きているんじゃなくて、ぼくに生きるようにと言ったあなたのために生きていこうと思ったんだ。
そしてその思いは、あなたが死んだ後もかわらなかった)
(はは、そうかい。結局、死んでからも、ペシェもわしも、やっぱり幽霊たちの中でも「ホームレス」という風になりそうだな)
(あなたと一緒なら、ちっとも寂しくないよ)

 四十九日があけるまでに、片桐はあらかじめパスワードをペシェから聞いていた彼のブログに、彼の死をつげる記事をのせた。

当ブログの管理者、「さすらいのペシェ」は、X月X日逝去いたしました。
そのため当ブログ、その他ページ内連載シリーズは更新終了となります。
生前ご愛顧いただきました皆様方には心より感謝申し上げます。
故人も喜んでいると思います。
当ブログ、その他ある程度管理が可能なものに関しては、連載は終了しますが
このまま残しておきたいと思います。
ただ、トップページなどはドメインなどの関係上いつかは消去せざるを得ないと思いますのでご了承くださいませ。
故人に代わりまして生前の御礼申し上げます。
また、ご報告が遅れましたことを深くお詫び申し上げます。
こちらのブログは、しばらく、故人の遺志によりパスワードを知らされた者が管理いたします。

                        片桐健司

 彼の死をいたむ追悼のコメントが次々にブログにかきこまれた。
 片桐はそれにいちいち返事を書くことはしなかったが、毎日のように書き込まれる、「迷惑コメント」だけは削除するようにした。
 それはまるで、お墓のまわりにはえる雑草の草取りのようなものだったかもしれない。
 蘭の栽培仲間からのコメントに対しては、片桐は、ペシェが残した蘭が欲しい人には無償で譲る旨のコメントを返した。
 何人かの蘭愛好家は、直接、ペシェの墓(といっても無縁仏の墓だったが)までやってきておまいりをしたあと、大事そうに蘭の鉢を持ち帰った。
 そうしている間に、沢山あった蘭の鉢は、いつのまにかなくなってしまっていた。

 そして、ぼくは、ペシェのために書いて、結局彼の元にとどくことのなかったこれら7通の手紙を、こうして本として出版することにした。

 タイトルは「ぼくの出せなかった7通の手紙」

 そう、それが今、あなたが読み終わった本だ。

この本が、「泣かせる本」でなく「泣きやませる本」になっていることを願いつつ。

                          了
                                               

 参考文献「立ち去り型サボタージュ」小松 秀樹 (朝日新聞社)
    「日本外科100年史」日本外科学会編
    「がん治療認定医教育セミナー、テキスト」日本がん治療学会編

 筆者のHP https://ameblo.jp/kojima-family-clinic

       
*10年後のあとがき

この原稿が最初に書かれた時期は、ぼくが、現役の外科医を退き2010年に開業した後の、2012年前後のことだ。
それから約10年が経過し、ぼくの投与したことのない新しい薬剤や、触れたことのない新しい技術が、がん治療の領域で生まれている。
前者は、例えば、オプジーボに代表されるいわゆる「免疫チエックポイント阻害薬」や、がん細胞の遺伝子解析によって抗がん剤を選択する「テーラーメード医薬品」だ。だが、遠くから見れば、その実力は未だ限定的で、10年前から画期的な前進をもたらしたわけではなさそうである。
また後者の代表は「ロボット手術」である。だがこちらも、がんの生存率を向上させるわけではないという意味では、腹腔鏡手術と同様「なくてもいい技術」ともいえる。
ただし、現役だった10年前と違い、今やぼくは、がん治療の「外部」の人間だ。「内部」の人間でないとわからないことが沢山あることは、もと「内部」にいたことのあるぼくにはよくわかる。
なので、以上のコメントは参考意見としてのみうけとってほしい。
一方、この3年間のコロナウイルスのパンデミックで、はじめて、遺伝子ワクチンが使われたことはみなさんご承知のとおりだ。残念ながら、3年間で5回ワクチンをうっても、そのウイルス感染の抑制効果は大きくなく、ワクチンとしては、今のところ「やむをえない緊急時の使用」にのみとどまりそうである。
だが、ぼくは、この遺伝子ワクチンの使用経験が、長らく抑制されてきた、がんの遺伝子治療の普及の機会になる可能性に期待をよせている。

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