見出し画像

[ その①]「ぼくが出せなかった7通の手紙」~胃がんに罹ったペシェへの手紙~ 目次/プロローグ

この作品の、Amazonリンク: 
 ぼくが出せなかった7通の手紙 | こじ こうじ |本 | 通販 | Amazon


 その他の、こじこうじの作品へのリンクは
    太陽の秘密 | こじ こうじ |本 | 通販 | Amazon
    アベマリア | こじ こうじ |本 | 通販 | Amazon

   Youtubeに紙芝居絵本「ものほしざお」があります
    https://youtu.be/iGRwUov3O74?si=bH2ZszSCB6b6fquq 
  

目次
 
プロローグ
 
1 はじめて胃がんと知らされたあなたへ
2 手術前夜のあなたへ
3 手術後数日たったあなたへ
4 外来経過観察中のあなたへ
5 自分をはなれて世の中のことも少しみてみよう
6 再発といわれたあなたへ
7 最後の仕事にとりかかる前のあなたへ
 
エピローグ
 
  *10年後のあとがき

 
プロローグ
 
ぼくが、何気なくすすめた胃の経鼻内視鏡検査で、太田誠二が胃がんということがわかった。
太田は、30歳をすぎたばかりのシステムエンジニアで、片桐健司という男と抗がん剤の開発を中心にしたバイオベンチャー会社をおこしていた。
ぼくは、今は検診センターの医師であるが、かつて外科医としてがん治療にたずさわっていた経験で、その会社のアドバイザーをしていた。
胃の経鼻内視鏡検査をおこなったのは、ぼくだった。
片桐のほうはきれいな胃だったが、太田の方は、詳しい検査をするまでもなく「胃がん」とわかる腫瘍が胃の内側にできていた。
ぼくが、太田に、専門病院での精密検査をすすめると彼は言った。
「まさか、胃がんがみつかったというわけではないでしょうね?」
 ぼくは診断を確信していたが、慎重に答えた。
「まだきまったわけではないが、可能性がかなりあるということだ」
「先生は、もうわかっているのでしょう?」
 太田の疑い深い声は、まだ自分が病気にかかっていないという希望がふくまれたものだった。
「やっぱり、専門病院にいかないといけないのかな?がんの宣告をされたらいやだな」
「行かないと、行くよりももっと後悔するよ」
 
 太田誠二は、独身で身寄りがないと片桐から聞いていた。
 いつも、ピンク色のパッケージでピーチ味のタバコ「ペシェ」を吸っていたので「ペシェ」という愛称でよばれていた。
 「ペシェ」はおそらくフランス語で「桃」を意味する「ペッシュ」からきた言葉だ。
昔、ペシェがネット証券の「デイトレード」で、ホームレスのような生活をしていたとき、ふとしたことで片桐と知り合い、いろいろあって一緒にバイオの会社をたちあげることになったという。
現在、コンピューターとバイオの世界は決して無縁のものではない。
「バイオインフォマティックス」という、生物界の膨大な情報をコンピューターによって整理統合して、創薬や診断にいかす試みが序々にポピュラーなものになってきているのだ。
もともと片桐は今から10年ほど前の、日本の「バイオバブル」のころ大学発のバイオベンチャー会社を立ち上げたことがある生化学者だ。
その会社は残念ながらつぶれてしまい、その後しばらく東京で雑誌のライターのようなことをやったあと、再び今の会社をたちあげたのだった。
片桐が最初に起こしたバイオの会社がつぶれたのは、単に片桐に力がなかったからとか、運がなかったからという理由だけではない。日本のバイオ産業の構造そのものと深く関わっている。日本のバイオ産業はマスコミ等で宣伝しているイメージと違い、欧米より10年以上の遅れがある。いわゆる基礎と臨床の間で深い断絶があって、研究費や資金あるいは人材が計画性をもって分配されずに、有効につかわれずにいる。
 その結果、10年ほど前の「バイオバブル」の時期に、税金から支出された補助金をもって創業したバイオベンチャーの会社の99%がつぶれる結果に終わっているのであって、片桐一人の責任というより片桐自身が「バブル」にふりまわされた犠牲者ともいえた。
ぼくは、田舎の病院の外科医をやめて、東京の今の検診センターに再就職したのだが、そのときに住みはじめたマンスリーマンションのコインランドリーで片桐と出会ったのだった。
片桐が、今の「バイオ氷河期」に再び会社創業に挑戦する気になったのは、このペシェとの出会いが大きいという。
ぼくが、彼らふたりの応援をしていたということはもちろんのことだ。
ペシェが胃がんであるとわかったことは残念だが、「胃がんだからもう死がさけられない」ということではない。
きちっと治療して、早くまたバイオの仕事に復帰することが何より大切だ。
 
がん専門病院での診察をうけ、「胃がん」の宣告をうけたあと、さすがにペシェのショックは隠せないようだった。
「小松先生のせいでこうなったのだよ、なんて野暮はいわないけど・・・ちょっとつきあってくださいよ」
ぼくは、「宣告」後のペシェに一日つきあうことにした。
身寄りのないペシェが、誰かに話をすることは、そのショックをやわらげるために必要なことだった。
一方、ぼくにとっても、外来で医者として「胃がん」と告げたことはあっても、告げられたあとの患者の行動に、知人として身近に長い時間接するのははじめてのことだった。
 
ぼくとペシェは、一緒に本屋に行った。
ペシェが胃がんについて書かれた本をさがして自分で勉強したいというのだ。
「外来で説明は受けたのだけど、やっぱり時間が少なくてね。かといって、忙しそうで長い間そこで粘るわけにもいかしいし」
ペシェがいつもいくという、大きな本屋の中は、まるで高い本棚の迷宮だった。
棚には天井近くまで本がつまれ、今にも倒れてきそうだった。
「でも、本当の社会について書かれた本はここには一冊もないんだぜ」
と、生意気そうな口調でペシェが言った。
本屋の名前は「イマジン」といった。
 ペシェは、そびえたつ本の塔の間を縫うように歩いた。
 広い店内を歩くすべを、ペシェは長年の経験から身につけていた。
 まずは、コンピューター関係の雑誌コーナー、そしてコンピューター関係の単行本のコーナー(これはペシェの仕事と関係していた)。
それから、文芸の新刊をチエックしてから文庫の方へ(小説を読むことをペシェは嫌いでなかった)。
 最後は、園芸雑誌(蘭の栽培がペシェの趣味だった)。
そして、帰り際、もし人で混んでなければ週刊誌コーナーへ。
 この店内めぐりのコースは、彼の年代とともに少しずつ変わってきたという。
 中学生のころは、マンガコーナーと小説のコーナーが中心だった。
高校生になると、それに加えて、学習参考書のコーナーへいくようにもなった。
大学生で、この街から一度はなれ、しばらく本屋とは縁遠い生活を送ってきた。
仕事をはじめてしばらくして、またこの街にもどってきたペシェは、またこの「イマジン」という本屋に通うようになった。
売り場面積は大きくなり、昔おいてあった文房具のかわりに、ゲームソフトやCD/DVDがおかれるスペースが大きくできた。
「今は、ネットで情報を集めたり、ネット通販で本を買ったりすることがほとんどだけどね。でも、時々、ここに寄りたくなるんだ。この場所は、レイアウトが変わっても昔も今もかわらない。もしかしたら、ぼくにとってここは、具体的なお店ではなく、抽象的な『本屋』なのかもしれない。そのせいか、店に足を踏み入れる時、少し甘くて苦い記憶の香りを感じることもある。特に、今日みたいな日にはね」
 
 ぼくとペシェはイマジンの「医療」コーナーの前でいろいろ立ち読みをした。
立ち読みをしながら、ペシェのいらつきはおさまるどころかひどくなっていくようだった。
「この本屋の本棚の本を片端からひっぱりだして床に投げて行きたいような気持ちだよ」
ペシェは脈絡なくひとりごとをつぶやいていた。
「おれのことをばかにするなよ。おれは科学的に問題を解決する達人なんだ。
といっても、けっして、上手にいままで世の中をわたってきたとはいえないけれどな」
 足はしっかりしていたが、本当は、彼の気持ちは誰かが水をかけてもおきあがれないくらい疲れはてていたのだった。
(どうして、おれが、がんになったんだ?)
 
 本を選ぶのに、迷っているペシェに、ぼくは、
 
「胃がん治療のガイドライン・一般用」(金原出版)(*)
 
という本をすすめた。
 
  (*)「大腸がん治療ガイドライン・一般用」日本大腸癌研究会(金原出版)というものも良書です。参考までに。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?