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海には住所がある 2

ところで海には住所がある。
鎌倉なら滑川で材木座と由比ヶ浜ふたつの海に分けることができ、同じ由比ヶ浜でも端の坂の下までいくとまた波が違う。もちろん辻堂も茅ヶ崎もどの海も海岸線の長さや海底の地形の違いで表情が異なるし、それは季節によっても変わる。
つまり街と同じことで海ならどこでも撮りたいわけではなく、彼女がいる地点には私の中で明らかに住所があってそこに意味がある。

写真学生だった私は辻堂にアパートを借りて、毎日浜まで歩いて写真を撮っていた。カメラは街で撮るのと同じく35mmレンズをつけっぱなしのライカか50mmのキヤノンで、たまあにミノルタカメラを使った。フィルムはたいていトライXの長尺だ。巻き加減で37枚撮れたり38枚撮れたりあるいは39枚撮れたりするのがアバウトで面白くて、巻き終えてからハサミでベロを作るのも楽しい。わざと30枚ぴったりにしておけばベタ焼きが六ツの印画紙にぴったり収まるし、調子にのって巻き上げが途中で止まるまで撮ると最後のコマが犠牲になったりテープの固定が弱いと外れてしまったりする。外れた場合はカメラごとダークバッグへ入れて巻き取る。そういう一つ一つのことが楽しかったのだ。

そうして今夜もフィルムを仕込む私の隣で彼女はというと、いつものようにヨガみたいなポーズをとっている。正座をして両手を前につきお尻が浮かないように息を吐き出しながら両手を前にすべらせていく。額が軽く畳についたらそのまましばらくその姿勢を保ってゆっくり上体を起こし呼吸を整える。他にもいくつか彼女のストレッチにはパターンがあって、海へ出ると冷えるから腰を守るためのものなのだそうだ。肩も肘も身体中のちょうつがいは全部重要だが中でも腰がもっとも大切なのだという。それにしても彼女のあられもない動きと呼吸の音に長尺フィルムを巻くローダーのカチカチというカウンターの音がかぶさるのはどことなく可笑しかった。

それから私は海をロケ地にポートレートを撮りたいと思ってこの街に来たわけではないので、アパートの部屋や街中で彼女を撮ることも好きだったし、一緒に街を歩いているだけで楽しかった。むしろ海に行くときは別々のことが多かった。彼女はフリートの活動で、私は界隈のスナップ撮影で。

「せっかくここに来ているのにあまり浜で撮らないのはなぜなの」
駅近くでラーメンをすする彼女に聞かれたことがある。
「一緒に海に行くことが少ないからなあ」
しょうゆラーメンのチャーシューをかならず半分だけ最後までとっておきながら食べる人なのだ、彼女は。
「なら今度写真を撮るためだけに浜へ行きましょう」
「それ、とってつけたような感じになるだろ」
「別にいいじゃないの」
「えー。海をバックにご機嫌に笑ってるとこなんかをおれが撮るのかよ」
「嫌なの?」
「だからグラビアっぽいとってつけたような写真になっちゃうって」
「鈍感な人ね。そう言われない? 私が、そういう写真欲しいのよ。ウインドのとき海は撮っても自分が写った写真は記念写真ぐらいしかないから」
お楽しみなチャーシュー残り半分を食べると彼女は命令口調でつけ加える。
「カラーでお願いね」

私は翌日コダクロームを買いに横浜まで出かけた。

model:鎌田ありさ
https://www.instagram.com/arisa_0505_/


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