見出し画像

源氏物語の旅 昭和56年2月16日(月)


義仲寺

東京駅発、8時、4人だから丁度相対し3時間歓談し、ビールなどやっているうちに着いてしまう。富士は見えなかった。関ヶ原辺は雪がややあった。琵琶湖はもやにつつまれていた。

京都駅に荷物を預け、直ちに膳所駅に引返えす。ここに広瀬光代さんが待っていてくれた。昨年夏、白山を下山しての帰るさい知り合った方で、ノートルダム大学英文科2年生。三井寺近くに住むという。「大津へおいでになる時は是非知らせて下さい。ご案内いたします。」との言葉に甘えて連絡しておいたのであった。さて我等は蛭田、岡野、中村の三女史との一行。何れも源氏物語研究会の会員である。「塚田先生は、どこへ行っても知っている人あるのね。」と驚く。義仲寺は駅より五分。その道の右に大津高等学校。わたしこの高校を卒業したんです。でも義仲寺は、はじめてなんです。とあきれる外はない。高校の国語の教師は何を教えているのかなと疑う。でも灯台もと暗しだ。誰にもそんなことはあるのだ。

「史跡義仲寺境内」の大きな石柱。ジーンと来た。若い時から平家物語を読み、芭蕉を読んだ。それなのに一度もこの寺に敬意を表する機会がなかったのだ。71歳のわれ、漸くにして訪れ得たのだ。胸がわくわくする。門を入ると驚いた。想像したより遙かに寺域が小さい。茫々と枯すすきでもあるかと思っていた。受付に顔を出すと、直ちに寺守が薄べりを持って出て来て、縁台に敷き、たばこ盆を出す。この寺守は小説家で埼玉県に住んでいた。この人が志願して留守戻して、

「どこからおいでですか。」
「埼玉県からです。」
「木曽義仲公の生まれたところ、縁深いですね。」

義仲の父義賢(帯刀先生)は埼玉県嵐山町大蔵の大蔵館に住み、久寿二年(1155)悪源太義平に殺された。夫人山吹姫との中に生まれたのが義仲。嵐山町鎌形館が生地とされ、義仲産湯井がある。寺守は、⋯⋯という小説家だとか。檀家があるわけでなく、この寺域をひたすら守っているのだろう。(寺は現在三井寺に属すという)

義仲公の墓は宝篋印塔形式で、文字定かならず、何時頃の建立か。華などあげられ、未だ新しくにおっている。香をあげぬかづく。公は木曽より起こり、北陸に平家の大軍を討ち破り、京都に入ったが、範頼、義経の軍に破られ、ここに討死した。時に元暦元年(1184)享年31歳。公の京都に於ける行蹟は、野人礼にならわずの態度だったというが、まことに惜しききわみである。戦乱の世、ここを治める佐々木高頼の意により、本寺を再興し、寺地なども寄進されたという。私は少年時代から、かの信濃国の歌で「朝日将軍義仲も、仁科の五郎信盛も⋯」とよく歌った。ここにはじめて墓所に謁し、その霊を弔う。感なきにあらず。

翁の墓は、右、公の墓の奥、細長い自然石に、ただ芭蕉翁と刻され、まことに小さい。香を供えて、おろがみまつる。若きより翁の句文に親しみ、その崇高な精神にいく分なりとろこうと、敬仰しまつる久しかった。ここに、はじめて翁を墓前に拝す。まことに線あって今回の機を得た。翁は近江に弟子あまたあり、菅沼曲翠の力により
内の無名庵にしばし住し、遺言により、ここに葬られたという。翁の句に


義仲の寝覚の山か月悲し


とあり、かの奥の細道行脚の折、爆山を通る折の作である。この句は紀行文には入れられていないが、芭蕉は近江に来た折に義仲寺に詣でて、すでに義仲の悲運を知っており、道中この句を詠んだものと思われる。「悲し」はあまりに主観語を出しすぎてはいるが、義仲の胸中を思うと、かく詠まざるを得なかったのであろう。具利伽羅谷で火牛の奇計により平維盛を破り、京都入りした義仲。山を芭蕉は眺め、義仲の功績を思い、そしてその最期を思う時、たちまち悲しいのである。時は秋、月が山の端に照っていたのだろう。

朝日堂には、聖観世菩薩を本尊として祀り、義仲、義高父子の木像を厨子に納め、今井平(義仲と共に戦死)、芭蕉、丈草、去来、其角、嵐雪、蝶夢、その他併せて二十六体を安置している。昭和五十四年十一月改築されたばかりで、中は実に明る 堂」とは朝日将軍といわれる義仲の関係からつけられたのである。で拝する。茅葺屋根の方形造り。中はやや暗い。蕉翁坐像、左右に門弟丈費蕉翁」の字を書く)去来の木像を配す。この堂芭蕉を敬慕する蝶夢が明和たものと言う。今から約二百十年前のことである。蝶夢は寛政五年薫翁百回たほどの蕉翁信奉家であった。僧都(添水)の音が間遠にひびき、閑寂の境地にさそう。暖い、薄陽のさすよき日、ゆっくり読みたい句碑が多く、時間のないまま写真に収める。


旅に病て夢は枯野をかけ廻る


大きな自然石に大書してある。芭蕉が常に、「我が言い捨てし句々辞世ならざるはなし」と言ったそのままに、まことに芭蕉の生涯を十全に表現された句で、何の巧みもなく、それでいて吾が肺腑を強く打つものがある。見事な辞世である。私は、この句に非常なロマンを感じる。ロマンなくして旅が出来ようか。ロマンなくしてこの人生が送られようか。やや老いたりといえども尚私はロマンを持っているつもりである。


木曽殿と背中合せの寒さかな


芭蕉は元禄四年の八月十五日に、ここの無名庵で仲秋の夕月を賞した。同じ年の九月十三日、伊勢から来た又玄が、この名句を残した。木曽殿と背中を合わせてねると、晩秋の寒さもこらえられるというもの。この句は、芭蕉作と考えられていたが、後の研究で又玄作とわかったという。私は昔、この句から、芭蕉の墓は木曽殿のそれと丁度背中合わせにあり、あの世にいっても、背中をお互いに合わせて寒さをしのぐなど想像していたものだ。

隔てて二つ並んでいるが、木曽殿を愛の心もて理解していた芭蕉は、今せに永久の生命をあたたかく生きていると考えてもよさそうである。しからばその将来を予測して、かく詠んだとも言えるかもしれない。翁堂のうしろに回る。曲翠の墓が、これも亦小さい。この墓は昭和四十八年はじめて建てられた。没後二百五十七年目である。そのわけは、膳所藩の姦曲の要人某を槍もて刺殺、自分も屠腹した。藩主はいかり、その子(十八歳)にも切腹を命じ、曲翠の家系はここに絶えた。そんなわけで、墓も建てられなかったのである(曲翠の邸の跡は近くにあるが見る時間がなかった)。


焦は曲翠の別荘幻住庵にも住み、有名な「幻住庵の記」を書いている。武士でああ1俳道にしたしみ、よく芭蕉の面倒をみた。無名庵に住したのも曲翠の世話。前記した。曲翠の自刃は芭没後二十三年であるが、曲翠は若い時から芭蕉にらずと見られていた人物である。境内にある句碑はすべてで二十四基という。名残惜しいが再遊を期して石山寺に向う。


石山寺


広瀬さんが案内して下さる。京阪電鉄石山寺で降り、歩くこと十五分ばかり。瀬田川は広く悠々と流れ、ふりむけば瀬田の鉄橋なども見え、小船も走り、水鳥も浮かんでいる。石光山石山寺の山門、堂々たる鎌倉初期の建物。くぐり入れば広い石だたみの道。左右はもみじの木々。秋の頃はさぞ美しかろう。ここは嘗って、修学旅行で生徒と共に来たことがある。三十年も前だ。石段をのぼると山号寺名のもとである硅灰石の青い膚に雪の白さをおく珍しい石群。

石山の石より白し秋の風

芭蕉の名句も芭蕉がここに何度も来ていたからの作と知れる。

本堂の観音様に香をたむける。内陣はすこぶる荘厳。源氏の間は拝観しなかった。源氏の間は伝説とはいうが、紫式部も、あるいは源氏物語執筆に際し、あるいは執筆中この観音様に祈願に来たかもしれない。蜻蛉日記の道綱の母や和泉式部、赤染衛門などもこの寺に参籠しているのである。
源氏物語には石山詣が四回出ている。

一、源氏が明石から帰り、願果たしに石山に参詣する折、逢坂の関で常陸から帰る空蝉の一行に遇った。これでみると須磨へ退去する時も石山に願かけに詣でたと考えられる。
(関屋卷)

二、髭黒が玉鬘と結ばれるよう祈願した(真木柱)。これも、願がかなって結ばれたから、願果たしに再び詣でたであろう。

三、薫と匂宮との三角関係で苦しんでいる時、その乳母子右近は願を立てた。
(浮舟卷)

四、薫が母入道宮(女三宮)の病気平癒祈願に参籠した(蜻蛉卷)

石山寺は右物語に何回も登場するのは本尊如意輪観音が古くから縁結び、安産、福徳の霊験あらたかな功徳があるからで、聖武天皇の勅願により良弁僧正の開基になるという。

本尊は聖徳太子が伝えられたものという。多宝塔への道に円柱の芭蕉句碑あり、かなり大きいものであった(一・三六四)


勢田に泊りて暁
石山寺に詣かの
源氏の間を見る
はせを
曙はまだむらさきに
ほととぎす
梅室拝書

碑陰に、「奉納、芭蕉翁真蹟画賛之一軸、信州筑摩郡会田矢久村、松風斎梅朗建立 嘉永二己酉四月」とある。同郷の先輩が建てたことを思い、しばらくその碑に手を触れ、句意を味わった。「むらさきに」に紫式部をにおわせていると思うのであるが、いかがであろうか。芭蕉は源氏物語を愛読した。奥の細道に物語の一部分を用いたところがある。源氏の間をわざわざ見たのも、作者に憧れているからである。

ただこの句、「芭蕉名碑」の著者、本山桂川氏は「芭蕉作としては存疑のものである」としている。しからば翁真蹟画賛なるものも検討を要するものなのか。まことにむずかしいものである。石山寺の宝物として襲蔵されているというのに。

建久年間、頼朝が建てたと伝えられる多宝塔が、人気のない静かな林にかこまれて立っている。現存多宝塔中最も古いという。多宝如来は宝勝如来ともいい、法華経の讃嘆者。経の説法に際し、地中から宝塔を湧出させて、所説の真実を証明し、半座を迦仏に与え、塔中に二仏が同座するという。仏教の教理に暗い私は、時に臨んで辞典などにより、理解を深めようと努力しているのであるが、この年齢となると、おいそれと覚えられるものでなく、まあ縁あって石山寺にお参りできたことを幸いとし、更に理解につとめ、信仰の問題についても、自分なりのものを持ちたいと思っている。

瀬田川を眼下に見おろすところに月見亭がある。そばにしつらえられた椅子に腰をおろし、広瀬さんのおみやげの三井寺の力餅を頂く。磁石によるに東は瀬田川を隔てた、やや右寄りのなだらかな山である。ここで月見をしても、月は瀬田川に映ることはあっても、琵琶湖に映ることはなかろう。「紫式部が琵琶湖に映る月を見て須磨の巻から書きはじめた」とか。伝説だから、あまり理屈をこねない方がよい。美がこわれる。

わが生まれ故郷の田毎の月、これも理屈で言えばあろう筈もない。本人が移動すれば田毎に映ろう。また大勢で見ると、どの人にも、どの田にも映って月が見えるわけである。何れにしても、美意識のなせるわざによって、理屈にあわぬ言葉が出て来るのであろう。姨捨の月とくらべたら景観は小規模であると思われるが、仲秋の名月の眺めは美しいに違いなかろう。下りの道は梅の林の中、蕾はふくらみ、紅梅は既に七分咲き、ほのかなかおりが園にただよう。所で広瀬さんに別れる。成人式の写真まで持って来てみせてくれた可憐な女性。いつか逢う日もあろうか。幸福を祈る。

渉成園(枳殻邸)

京都駅から宿舎智積院会館に車をとばし、荷をあずけて、渉成園(枳殻邸)まで歩く。午後四時までとのことで、既に三十分過ぎていたが、無理にお願いして入れて頂いた。正式には東本願寺の事務所の許可が必要という。五十二代嵯峨天皇の皇子左大臣源融が、奥州塩釜の景を移して、難波から潮をはこばせた六条河原院の苑池の跡の一部という。融の死後、宇多天皇に献上されたが荒れ果てた。

「君まさで煙たえにし塩釜のうらさびしくも見えわたるかな」の貫之の歌、「八重葎茂れる宿の寂しさに人こそ見えね秋は来にけり」の恵慶法師の歌はこの河原院の荒れたさまを歌ったものである。また源順の「河原院賦」が本朝文粋巻一にのっている。玉上氏源氏巻九の頁参照。

枳殻とは周囲の垣がからたちで出来ていたからの名で、今は一部にしか見られない。江戸初期石川丈山の作庭で、それから渉成園と呼ばれる。をつれ出して宿った「なにがしの院」はこの河原院で、ものの怪が出て夕面も、宇多法皇が京極御息所をつれて河原院に来たところ、融の霊が現し
御息所が気絶し、法師の加持により回復したという話にもとづいて作ったのかもしれない。

源氏物語で、源氏があとで経営した六条院がこの枳殻邸のすぐ近くである。六条御息所が他界する時に子供の斎宮となった女性(あとで秋好中宮となる)を源氏に託すが、その時六条御息所の邸宅も源氏のものとなり、また近くに、紫の上の邸もあった。それらを一緒にして広大な六条院となったのである。 

広い書院式回遊庭園で、種々の建物があり池泉がある。私たちは、入って左、臨池亭のいく。ここに取入れられた水が滝となって落ち、この水が庭園の中をめぐって最池、印月池へ導かれる。冬のこととて花もないが、春ともなれば種々の花が咲くだろうと想像しつつ、植込の中を印月池の方へ行く。池に大きな島あり、それに渡る橋には屋根がある。檜皮葺唐破風造りであり、高貴な感じである。橋も階段で一段と高くなっている。島には縮遠亭とて茶室などのある建物があるが、時間がない為そこまでは行かず、渚に沿った丹楓渓と言われるところを通る。名の如く楓の木が植えられている。間もなく、さきの大島に渡るもう一つの橋侵雪橋に出る。反り橋で、軽快にできており、雪の眺めによいという。この橋のあたり、夏ならば、一面に睡蓮が咲くことは、「カラー源氏物語」の写真で知った。ちょっと見には、水が澄んで、水草など茂りそうもない。

島の南に塩釜の手水鉢があり、源融遺愛の塩窯を模したものという。もう一つ、南側に島があり、これには橋がない。他に小島があり九層の石塔が見える。融の墳墓とも伝えられる。池の南寄りに漱枕居あり、茶店風で納涼、観月によいという。
東山に出た月を、印月池に映して眺めるという趣向である。双梅檐という書院は焼失したままで今はない。梅が少し咲きかけている。

西寄りに関風亭、蘆庵、円林堂など種々の建物あり、珍しいのは傍花閣とて持仏堂であ門林堂に対する楼門の形で二層、上層に上る急な階段が左右につき、それにはいている。一寸見なれない建物である。

庭内誰にも逢わず、無理に入れてもらったので、気が引け、四十分ばかりで辞した。拝観料もとらず、その為か、やや荒れ気味であった様に思う。これは冬の為か。芽吹きの頃か、春、秋、それらの季節に訪れたいものである。

智積院会館

宿に帰ると既に夕食の用意が出来ていた。二百人位も泊れる会館に我等四人のみ。食堂はガランとしている。食事作法五観が大書して貼ってある。
一つには功の多少を計り彼の来処を量るべし。
二つには己が徳行の全か欠か多か減かを付れ。
はかなど。戦時中、生徒と共に唱えて食事をしたことを思い出す。トイレ偈、大小便時、当願衆生、鍋除煩悩、滅除罪法とあり、便所にもうかうか行かれない。蠲の字見たことのない字、家に帰り辞典により漸くわかった。除く意味である。

般若湯を五本注文し、美味しく頂く。初日、先ず計画通りにいったことを喜ぶ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?