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40年目のアジサイをながめながら

僕がピアノを習い始めたのは小学2年生の時。1984年の6月のことでした。
ちょうど、こどものいなかった母方の叔母が妹のためにピアノを買ってくれることになり、ところが、ピアノをしたいと言ったのは自分の方で(なんでそう思ったのかは覚えていないのですが)、それならばと、母親が知り合いを伝って見つけてきたM先生のピアノ教室に通うことになったのでした。
隣家でとてもきれいなアジサイの花が咲いていました。

当時はこどもの数も多くて、小学校も7クラスくらいあり、同級生もたくさんいた中で、割と同級生も何人かが同じ教室に通っていました。
最初はM先生1人で教室をしていたんだけど、そのうち生徒が激増して、音大出たての若い美人のT先生が途中から助っ人で加わって、僕はその2人の先生からピアノを習っていました。
多い時は、病院の受付待ちの如く生徒がわらわらいて、空いた先生の方へ行って教えてもらう、みたいな感じでした。今考えたらすごいしくみで、なんか昭和な感じですねえ。
僕は順番待ちのソファで、先生の家に置いてあった少女マンガをわりと熱心に読みながら、割と採点甘めで花丸多めにもらえるT先生やったらええのになあと思いながら待っていたものです。

教室では、習ってる生徒10人くらいで合奏をやったり、生徒3人くらいで机に向かって、先生の鳴らすメロディーを楽譜に書きとるソルフェージュをやったり、先生の自宅でピアノを弾いたあとはお菓子をみんなで食べるクリスマス会があったり、年に1回は近所の文化ホールで発表会があったり、どっちかというと音大めざしてまっしぐら〜、とは真逆のほのぼのとした音楽教室でした。
M先生はサバサバした感じで割と自由でゆるくて、細かいことはあまり気にしなーい、ってタイプだったので、細かいことをあれこれ指示されるのが苦手だった僕にとっては、とても合う先生でした。
曲も、途中からは、自分の持っていたクラシックピアノ曲集のやりたい曲を持っていったら、それを教えてくれるようになったのでした。誰かに与えられた曲を弾くのはすごく嫌でした(でも、練習曲集だけはしっかりやりなさい、と、与えられてたんですよね)。
それでも、小6になって、思春期に差し掛かると、元来面倒臭がりな性格な自分は、教室に通うということがだんだん面倒になってきて、やめたいなーと思うようになり、小6の終わりに一旦教室はやめることにしたのでした。こういう時、先生も親も「続けたら」と食い下がるものですが、別に特段反対したりもなかったなあ、そういえば。

けど、皮肉なもので、ピアノ教室を辞めてから、途端にピアノを弾く時間が増え始めたのです。
ポップスに傾倒していきコードネームを覚え、曲を作ることを覚えた僕は、言われてもないのに自分で曲を作ったり好きな曲を耳コピしてはピアノで弾いたりするようになったのでした。
練習曲をするという枠組みが外れて初めて、練習することが大事だよなということを知り、もっと難しい曲を弾けるようになりたいな、と考えたのが高校1年生の頃でした。

そう自分で考えるようになった、高1の夏に、もう1回、ピアノを習いたいと考えて、M先生の家に「お久しぶりです」と電話して、ピアノをもう1回やりたい、と伝えたんですよね。
先生は、いつものあっけらかんとした感じで「あらら、またやるの?いいよー、いつでもおいで」と言われ、僕は、ショパンのエチュードの楽譜を持って、また先生の家のインターホンを押すことになったのでした。
ピアノをまた始めて、わりと熱心に練習をするようになり、腕はぐんぐん上がっていきました。
この頃から、将来音楽を仕事にできたらいいなあ、と考えるようになり、音大で勉強してみたいなと思うようになったのですが、音大に進学するためにはピアノだけでなく、声楽もソルフェージュも勉強しなおさないとならず、それまで弾いたこともないバッハもやらないといけないし、って話になり、それを聞いてすっかりびびってしまい(笑)、やっぱり無理やな、と思い、諦めることにしたのでした。

今思えば、その気になれば多分何とかなってただろうに、なんでチャレンジしなかったんだろう、と、思いますが(ちなみにこのときの後悔が以後十数年引っ張って、形は変われど結局芸大で音楽を学ぶことになるわけですが)、でも、たぶん、そういうタイミングではなかったということなんだろうなとも思います。

それからは自己流でピアノを弾き続けつつ、作曲をしたり編曲をしたりすることに傾いていき、学生のときにブラスバンドをしたり、社会人になってからはバンドをしたり、音楽療法のセッションに参加したり、音楽とのかかわりは諦めることなく途切れずに続いていきました。
そのころのことはまたどこかで書くとして、30歳を超えて、ようやく自分の中でも若い頃のいろんな引っ掛かりが整理されていき、40歳を越えたときに、わりと迷いが晴れていき、やっぱりここかもしれないなと、自分の原点であるピアノに戻って、いまの活動を始めるようになったのでした(その辺のこともまたどこかで)。

そして、今回のアルバムを作ったこのタイミングで、ちょうどピアノを始めて40年。
特にそんなことは意識もせずに今回のアルバムに「また会いましょう」なんてタイトルをつけたのもなにかのインスピレーションが働いたのか、よし、久しぶりに先生に会いに行こう、と思い立ったのでした。
自分自身を次のステージに進めていくためにも、なんとなく、機が熟したように感じたのでした。

最初は、手紙を書いてお宅のポストにCDと一緒に届けようかと考えてたんです。30年以上も経っているし、突然来られても戸惑うんではないかと思ったりして。で、実家に戻ったさいに母と話していたら、手紙書くくらいなら、直接会ってきたらええやないの、となり、土曜の夜に、もし会えなかったらと手紙を書いて、CDを添えて、日曜の午後に息子と散歩がてら、先生の家に出かけることになりました。

40年前にちょうど自分が通っていた道をなぞりながら、息子と手をつなぎながら向かいます。

いざ先生のお宅についてインターホンを前にして、ひさしぶりにドキドキしてきました。
そういえは、ピアノ一度辞めてまた習いに来る時にも、同じようだったな、と思い出し、押すのをなんとなくためらっていたら、息子が「ぼくが押したげるわ」と、横から間髪いれずにピンポンし、あわわ、もう戻れない状態になりました。

インターホン越しに夫さんが出られて、事情を伝えたら、2,3秒間をおいて、はいはい、と言われ先生を呼びに行き、しばらくしたら先生が玄関から来られました。
初めは思い出すのに少し時間がかかったようですが、話すうちに思い出し、よう来てくれたね、と、迎えてくださいました。
それだけでもう泣きそうでした。ええ歳したおっさんなんですけどね。

それから、高校生のころ、自分としては中途半端な形で辞めてしまったので、そんな後悔のこととか、それからの日々のこととか、今やっていることとか、いろいろと話しました。

先生はずいぶん歳を取られてたけど、可愛らしいおばあちゃんになってました。「もう後期高齢者やでー、みえへんやろけどさ」と、あの頃みたくあっけらかんと、笑ってはりました。
せつなくもあたたかい、ほんとにささやかな幸せとはこういうことなんだろうなー、と思う。

先生は、20年ほど前に楽器も楽譜も一切引き払ってしまい、いまはピアノもないんよ、なんて話しておられたんですが、できたばかりのCDを渡して、「弾けないけど、聴いてみるわ。また感想送るね」なんて話してくださって、なにより、今もピアノを続けていることをとても喜んでくださいました。
すごく僭越ではあるけど、先生が弾けなくなっても、先生から稽古をつけてもらった自分は、先生の分まで弾き続けていかなあかんなー、なんて思いを新たにしましたね。

さいごに、「また会いましょうね」と声をかけて、LINEのアドレスを交換して、さよならしました。
帰りに見つけた隣家のアジサイは、見事に満開。大きくなってました。
息子とほぼ変わらない歳の頃に見たアジサイを、息子と一緒に眺める。それだけで1曲書けそうな構図でした。

「すべてのことに時がある」という聖書の言葉が好きなのですが、ピアノを始めてちょうど40年のこのときに、お会いすることができたのは本当に幸運だったし、ほんとにその通りだな、とおもいます。

後日、LINEで先生からメッセージがきて、自分のCDを、すごくよくてリピートで夜中まで聞いてしまいましたって書いてあったのが、今年上半期一番のハイライトでした。
そして、先生に借りっぱなしだったバッハの楽譜をすっかり返し忘れたのに気づき、あっちゃーとなりました。(あとから連絡したら、もうあげるよと言われ、30年来の借りパクがようやく収束しました)


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