可哀そうなわたしを演じてることに気づく

そうだった。

今日はなんかいいことかかなくっちゃとか、思うほどに書けなくなるんだった。ということで、特に良いことを書くわけでもなく、誰かのためになる訳でもなく、ただ自分のために書く。

なんて贅沢なことなんだろう。

自分の考えていることを、表現する時間を持てること。

仕事への批判は、個人への批判?

頭の中で考えすぎて、グルグル考え事が多い日々。
ふと、昔のことを思い出した。

献立を作るのに慣れていなくて、うまくできなかった。仕事に対するダメ出しや批判を受けた時、いつの間にか、自分自身の存在までも批判されているような気持ちになっていた。(あとから気が付いたことなんだけれども)

それで委縮して、ますます動けなくなったりとかして。

怒られたりするのは嫌いだ。

いつの間にか、怒られないようにするためにどうしたらいいか。
そんなことばかり考えていたのかもしれない。
うまく立ち回るには、どう振る舞えばよいのか、そういう技を身につけることにエネルギーを使ってきたのかもしれない。
まぁ、実際はそんなにうまい技が増えたわけでもなんでもないのだが。


被害者意識に気が付く

十数年前のその時、わたしは「いつも怒られていて可哀そう」というポジションを獲得していた。
(私が悪いケースもあるが、理不尽な怒られ方をするケースもあった)

つまり、わたしが被害者意識を持つことによって、相手を加害者に仕立て上げるという構造を無意識のうちに作りあげていた。

周囲の人からの同情を得ることによって、仕事がしやすくなるような仕組みづくりに成功していたとも言える。

今回、「なんでこんな目にあわなければならないのか」的なことに遭遇した時に、十数年前にわたしが構築していた被害者意識の仕組みを思い出した。

そして、気がつく。

わたしが、この被害者意識を持ち続ける限り、この立ち位置を変えることはできないのだ、と。


パワーを取り戻す


パワーを取り戻すことが、唯一の道だ。

いつの日からか、置き去りにしてきてしまったパワーの存在を思い出すことだ。

被害者の立場で、可哀そうな私を演じるのではなく、対等な立場でいることをイメージする。ちゃんとパワーを取り戻す。

すると、不思議なことに、可哀そうなわたしは一瞬で消え去った。


可哀そうなわたし、は自分自身で作り出していた幻想だったのかもしれない。

(仮説ですが、、、)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?