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霧向こうの紅


 夢の中の私は少年で、同じ年頃の子供らの群れにいた。やたらと重たい色をした校舎の壁が酷く私を圧迫し、無邪気な他の子らの声は膜の向こうで鳴っているように遠い。教室は曖昧な私の意識を反映したように、隅の方でぐにゃりぐにゃりと、ところどころ歪んでいた。
 私はただ帰りたくて。まだそれが出来ないと知っているから、イヤホンを両耳に刺した。あの甲高く光沢のある金属質の笑い声や、木製の床を椅子が引っ掻く音。避けようとするほど鋭さを増すあの種の音が、鼓膜の先にある柔らかいものを突く。俯きながらコードの先を手繰るが、その先に繋がっているはずのアイポッドがない。青い、電池のすぐ切れてしまうアイポッド。宝石のようだったその輝きも、すぐに思い出せなくなってしまった。

 教壇の方を見る。落書きまみれのように見える黒板を指さしながら、教師が何か話している。それで今が講義中なのだと気がついた。熱心な生徒が教卓を囲んで立ち、しきりに頷いている。一方で机に座ってけたたましく談笑している者も多くいる。室内は往来のようにごった返していて、とにかく色々な音がしていた。
 室内の音は混ざり合って、次第に圧力を増していく。そのせいだか知らないが、誰の顔もぼんやりとよく見えない。眉間に手をやると眼鏡がない。それでいて机の傷や、壁の画鋲はくっきりと見えた。時計の針先の鋭さまでよく見えていたが、それは瞬きする度にでたらめな位置に移動してた。私は、何故か黒板の文字が読めなくなっていた。意味のない線の集合体は、むしろ抽象的な絵画のように見える。乱れる時計の針、意味を伝えない板書、混沌とした教室の風景を、夢の中の私は不思議に思わない。

 ふわっと、私の横で誰かが笑った感じがした。隣を見ると少女がいる。顔立ちは相変わらずよく見えない。背丈も髪の長さもわからない。ただ、少女だとわかった。服装でわかったのではない。ではどうしてと聞かれても答えられない。ただ、ああ今笑いかけてくれた、そうわかるだけだ。彼女の周りの空気が、橙色をした親愛に染まっていくのを感じた。私はそれが、たまらなく嬉しかった。
 心音が膨らんでいく。深い響きが、指先や耳の外縁まで暖めていく。その音と熱が、身体に入り込もうとする鋭い音を、ゆっくり追い出していく。少年は、はじめて味わうこの感覚が、懐かしさを伴うことを不思議に思う。大切にしなければいけない、そう感じた。この柔らかい橙色がずっと消えないでほしいと思った。そして、出来れば自分の傍にずっとあれば。ただそれが叶わないであろうことも、何故かわかっていた。
 私もいつしか橙色に灯っていた。彼女は、それを見てまた微笑んだ。彼女は楽しげに何かを夢中で話していて、それはやはり朧気な響きで、二人の間を満たす灯りを心地良く揺らした。穏やかな波が雑然とした外側の景色を曖昧に散らして、ここが世界の全てであるようにさえ思えた。霧の宇宙に残された一顆の橙の中で、私たちはいつまでもそうしていられるのだと思っていた。

 紅が差した。私の伸ばした指の先から。
 彼女に差し出した手の内から紅色の光が漏れ出した。それは、不気味な速度で、腕の方へと伝ってこようとしている。固まった私を見る彼女の貌が紅色の光で淡く浮かび上がる。その表情が見えようとした時、咄嗟に手を胸に引き寄せ、下を向いた。それがどんな表情でも、見たくはなかったのだ。見下ろした私の胸元まで霧が立ち込めていた。この手の紅が、果実を穢してしまった。茫然と紅を見つめる視界に、彼女の手が伸びてくる。そこに未だ残っている橙色、それがまさに触れようとしていた。
 私は、いつの間にか手にしていた刃物を、手首に振り下ろした。音も無く断たれた紅色の手は霧に吸い込まれるように落ちてゆく。その瞬間、彼女の手は空を握った。断面から零れ落ちた橙色が対流し、再び空間に広がっていく。
 私は安堵して、顔を上げる。そして手を振る。彼女は少しだけ躊躇い、それから手を振り返した。そうして彼女は去っていく。その背は、どこからか湧いてきた群衆にすぐに紛れてしまった。
 行き交う人の流れが橙色を千々に切り裂いて、その隙間に霧が流れ込む。その陰鬱で微細な水の粒が、雑踏の靴音を無闇に反響させる。際限なく折り重なる音は頭の中で膨らみ続ける。いつの間にかスーツを着込んでいた私は急ぎ足で歩き始める。そして、必死にあの橙色を思い出そうとしていた。だが、そうすればするほど、あの紅色が邪魔をした。艶めかしく、分厚い薔薇の花弁のような、あの紅。それがいつまでも、霧の向こうから私を苛んだ。

本、映画、音楽など、数々の先達への授業料とし、芸の肥やしといたします。