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ぶきっちょなりの生き方を探す

私の得意なこと:一人で時間を過ごすこと
私の苦手なこと:人に頼ること

人は一人では生きていけない、なんてこと重々承知している。
誰かに頼ったほうが明らかにラクな場面、たっっくさん見てきた。

でも、「人を頼ること」は私にとって難しいこと。
最近になって分かりつつある原因らしきものを、ここに書き留めたい。


しっかり者のいい子でいたかった

まず、私は「誰かに頼ること=自分の弱さを見せること」という考え方に囚われてきたのだと思う。弱い自分を他人に見せたくないし、そもそも自分の弱さを認めたくもない。強く、しっかりした人でありたいと思っている。

「しっかりしている」で思い当たるフシがある。育ってきた環境だ。
私はいわゆる「いい子ちゃん」で、周囲の大人が自分に求めることに何となく応えてきた。そして、彼らからの褒め言葉は決まって「しっかりしていて、優秀な子ね」だった。

あと友達からも頼ってもらえることも多く、存在価値を周囲から認められたような気がして嬉しかった。

あの頃の私にとって、「いい子」はアイデンティティだったのだと思う。
それがたとえ、聞き分けの「いい子」とか都合の「いい子」だったのだとしても構わなかった。
なぜなら、「いい子」とか「しっかりした子」であることが、周囲の人とつながるための条件だと思っていたから。そんな小学生時代だった。


弱虫になりたくなかった

中学生の時、親を亡くした。遺された家族と共に悲しみに暮れていた時期もあったが、前に進むためには誰かが立ち上がらねばならないと思った。

そこで、私は自身の「悲しみ」という感情にフタをすることにした。一度その感情に気づいたら、際限なくあふれ出すことを知ったからだ。

そうすることで私は「強い子」になれたのだと思っていた。
実際には、自分の中にある負の感情から目を背けただけなのに。

この出来事が決定打となり、私は弱い自分を認められなくなった。弱虫じゃなければ、人に頼る必要もない。同情なんて要らない。
こんなふうにして、私は人に頼れなくなってしまったのだと思う。


初めて人に頼る勇気を持てた

今でも、弱い人よりは強い人のほうがいいだろうとは思っている。
しかし、自身の弱さを認められるのも、また強さなのではないか。

そう思えるようになったのはつい最近のこと、大学時代である。

就活のカベや大学行事でリーダーを務めるプレッシャー、さらには愛犬の余命宣告が重なり、どうしても気持ちが沈みがちな時期があった。ネガティブな感情に意識を向けたが最後、底なし沼に引きずり込まれるような感覚の繰り返し。そんな孤独に押し潰される寸前、ようやく自分史上最大の勇気を振り絞って友達に助けを求めた。
当時の自分の状況を聞いてもらっている最中も、弱虫だと幻滅されたらどうしよう・・・と不安でしかたなかった。でも、そんなのは見当違いだった。嗚咽をこらえて、涙を拭こうとカバンから箱ティッシュを取り出した私に「ポケットティッシュじゃないんかい、可愛くないな!笑」とツッコんだ後に、友達はこう言ってくれた。

「今まで弱音を吐くところを見たことがなかったから、今こうやって話してくれて嬉しかったよ」

弱い部分も受け入れてくれる、無防備でいられる人がいてくれたことを生まれて初めて知った。


ぶきっちょなりに生きる

自分一人でできることには限界があるし、落ち込む時だっていっぱいあった。死ぬことを魅力的に感じたこともあったし、透明人間になりたいと何度も何度も思った。
そんな時、誰かを頼っていたらよかったのかもしれない。上澄みだけじゃなくて、弱虫なグズグズの部分までさらけ出せるような親友がいたかもしれない。学生時代に落第点を取ったことはなかったけれど、生きるスキルは赤点レベルだわ。

少しずつでも、自分の生きやすい道に近づけたらいいなと思う。
そのための選択肢として、「人に頼ること」も考えられるような、自分の弱さと向き合える強さを持った人になりたい。

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