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日光へむかう②大沢宿-砲弾打込杉

※独自のバスガイド台本をまとめたものです。
バスガイドの皆様と共有してみたいと思い投稿しております。
表現や情報の誤り、新しい情報を見つけましたらご指導ご鞭撻ください。

大沢宿

宿場町大沢宿あったあたりです。
日光街道宿場町のラスト3個の宿場町です
この辺りには総戸数43軒(本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠19軒)あったと記されています。

地名の由来

鎌倉時代、源頼朝がこの地を訪れ開拓を命じたとされています。
頼朝の御恩を地名にし「御恩沢村」と呼びはじめそのうち「恩沢村」となりさらに少しなまって「大沢村」となったのだとか。

大沢御殿跡

水無(みずなし)の一里塚の東方向に
徳川幕府三代将軍の徳川家光が日光参詣時に幕府が建てた休息所、大沢御殿の跡があります

水無の一里塚

この辺りは水無村と言われたところです。
名前の由来:
水利が悪く田んぼが作れなかったという説と
名主の庭にある古木から水分の多いが取れたという説があるそうです。
江戸から32番目の一里塚でして、通称大沢の一里塚と呼ばれています。

ヘメロカリス

中央分離帯に咲く黄色い花🌼
日光でよく見られる<ニッコウキスゲ>が欧米で品種改良されたものです。
<ニッコウキスゲ>
5月上旬から8月上旬に美しく咲きます
草原・湿原を代表する花で群生すると山吹色の絨毯のようで大変美しい花です
花はラッパ状に咲き直径約7㎝。花びらは6枚で朝咲いて夕方にはしぼんでしまう一日花(いちにちばな)です。
日光の霧降高原、尾瀬ヶ原、霧ヶ峰などの群落が有名です。
由来: 花が黄色で葉がカサスゲ(笠萓)に似ている事から付けられさらに地名を付けてニッコウキスゲと呼ばれだしたものが全国に広まりました。


森本周辺(瀬川十文字)

この辺りは戊辰戦争の古戦場の一つです。
宇都宮城を手中に攻め入る官軍土佐藩と
日光の兵2千人後ろ盾に迎え撃つ幕府軍がここで相打ちになりました。
しかし圧倒的な火力の差で大将大鳥圭介率いる幕府軍は大敗。
その後幕府軍は、この杉並木を盾にして応戦し官軍は毎夜22カ所に篝火(かがりび)を焚き厳戒態勢をとりました。
戦いは長く1ヶ月も続きました。
この先 追分地蔵周辺には板垣退助率いる官軍が幕府軍を攻撃した際に受けた砲弾の傷を残す砲弾打込杉がございます。

桜杉🌸

杉の木の枝から桜の木が出ている珍しい木です。
春になるとしっかり桜の花が花開きます

並木ホテル

といっても実際の宿泊施設ではありません。
一里塚の上に植えた杉が奥にございます。
根本が腐り空洞が出来てしまった所で雨宿りや休憩をした人達が火をたいたりしたことにより炭化し丈夫になった大木です。
そこから<並木ホテル>と呼ばれるようになりました。
収容人数は4人程度だそうです。

追分地蔵(おいわけじぞう)

伝説
昔この地の意思の名工が大谷川の中に眠っている石を見つけ
これは良い石を見つけた!と安山岩にのみを当て削り出したところ血のような赤い何かが出てきました。
これはただ事ではないと丁寧に掘り出してみるとなんと地蔵尊が!
早速村の人達を呼び出し運び出そうとしましたがこの三角の地で止まってしまいここに安置されました。
その後、ちゃんとしたところに安置すべきと如来寺に移されましたがそこから毎晩夜泣きをしたそうで
「この地蔵さまは日光含満ヶ淵の子だから日光が良く見えるこの三角地に戻してあげよう」という事でこの地に戻されました。
すると夜泣きも止み、こちらが永遠の鎮座場所となったのです。
赤い血のようなものが出たとされる傷が肩のあたりに見る事ができます。

二宮神社(にのみやじんじゃ)

明治31(1898)年に建立されました。
二宮尊徳をお祀りしております。
二宮尊徳:江戸時代末期農業復興の指導者。
二宮金次郎として知られる方です!
相模の国(神奈川県小田原)出身で農政家として数多くの農村の再建に携わりました。境内裏にお墓もございます。

何故ここに・・?

嘉永6(1853)年幕府の命により日光神領89村の開拓再建に参加しましたが志半ば安政3(1856)年に今市陣屋で亡くなりました。(当時70歳)
その後時代は明治になりこの事業自体は 報徳社に受け継がれました。

◎報徳文庫

読書で学んだと知られる二宮尊徳ですが報徳仕法文書(そんとくしほうぶんしょ)2,500冊と遺書、遺品を収蔵、展示しております。

如来寺(にょらいじ)

二宮神社の横にあります。
江戸時代、日光東照宮大改修の際に徳川家三代将軍徳川家光が寺の境内に館を建てて自ら造営の検分をしたそうです。
本堂にある木造地蔵菩薩立像は古くから子育て地蔵として信仰があります
江戸時代末期の親分として知られる 国定忠治(くにさだちゅうじ)の子分、日光円蔵(にっこうえんぞう)のお墓もございます。

会津西街道(あいづにしかいどう)

春日町の信号よりはじまる今市と会津若松を結ぶ街道です。
その距離は約130㎞。
江戸時代に会津藩士の保科正之(ほしなまさゆき)により整備されました。
関東からは会津街道
会津からは下野街道と言われ呼び方がそれぞれ異なっていたそうです。

今市瀧尾神社(いまいちたきお)
天保2(782)年に創建されました
勝道上人(しょうどうしょうにん)が日光二荒山神社上男体山に二荒山大神をお祀りした際にこちらの神社も祀られました。

祭神は オオナムチノミコト、タゴリヒメノミコト   のご夫婦。
二荒山と同様です。

今市浄水場

宇都宮市民待望の浄水場です。
歴史は古く 大正2(1913)年11月に着工し
大正5(1916)年3月に給水開始しました。
水源は 中禅寺湖です。※日本で31番目に古い施設らしい!

杉並木公園

平成5年 開園しました。
地域文化を伝承するために施設。
園内に水車や民家を再現しております。
杉並木の樹根の保護のために敷地周辺を公有化したもので
有効利用の為も出つ的に公園として整備されました。

水車:杉線香

今市では杉線香の生産が盛んでございました。
動力としてかつては水車を使っており当時の今市では多くの水車が見られました。
園内ではその当時を懐かしみ体験ができます。
また、海外で使用されている水車もいくつか設置されております。

砲弾打込杉

新政府軍側と旧幕府軍が争った戊辰戦争の戦いがこちらで数十日間行われその戦いの際の砲弾が過ぎに残っているという砲弾打ち込み杉がございます。
当時の戦火の激しさを今に伝える貴重な歴史の痕跡でございます。

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