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日光へ向かう⑦日光奉行所跡-日足道路

※独自のバスガイド台本をまとめたものです。
バスガイドの皆様と共有してみたいと思い投稿しております。
表現や情報の誤り、新しい情報を見つけましたらご指導ご鞭撻ください。

日光奉行所跡(にっこうぶぎょうしょあと)

西参道の交差点の北側、垣根の中に昭和35年8月22日 に指定された日光奉行所跡の碑が置かれております。
1652年より日光山守護となった梶定良(かじさだよし)が87歳で亡くなるまで日光東照宮ほか堂社の警備・修復・祭祀(さいし)事務、日光神領支配・収納を行っておりました。
明治 2(1869)年には隣に日光県の役所が建てられ日光お役所と呼ばれました。
明治4(1971)年に日光県の廃止に伴い取り壊しされました。

日光田母沢御用邸記念公園

(にっこうたもざわごようていきねんこうえん)  
明治32年 大正天皇の御静養のために造営されました。
昭和22年まで天皇さま、皇太子さまがご利用されました。
明治期に造営された御用邸の中で最大規模の木造建築である本邸を含め
当時の建築群がすべて現存する唯一の御用邸です。

平成12年に記念公園によみがえりました。
面積は御用邸時代が 10万7千㎡
現在は3万9千390㎡です
平成15年には国の重要文化祭に指定され
平成19年には日本の歴史公園は百選に選定されています

田母沢川(たもさわかわ)

渡っております川は田母沢川です。
大正天皇はこの川の流れをみて「田母沢は 水清し なんでも流せ流せ」と唄ったそうです。
この先で大谷川にそそいでおります。

寂光の滝(じゃっこうのたき)

右手に入っていきますと寂光の滝がございます。
七段に落ちる60mが美しい滝です。

名前の由来

その昔、弘法大師が修行を行い寂光寺というお寺を開いた事からこの名前になったと言われております。
昭和の初めまでは滝に打たれる行者の姿が見られました。
現在は入水できません。

日光植物園

正しくは「東京大学 大学理学院 理学系 研究科 付属植物園 日光分園」といい東京大学の研究所となっております。
10万㎡を超える広い園内には日光の自生植物
クリンソウ、ニッコウキスゲなどが植えられており
色とりどりの植物が咲き、自生を含む2,200種類の植物で覆われております。

憾満が淵(かんまんがふち) 

男体山から噴出した溶岩によりできた奇勝をご覧いただくことができます。
そして、古くから不動明王の現れる霊地として知られております。

化け地蔵

南岸には天海僧正のお弟子さんである慈眼大師が彫ったお地蔵さんが並んでいます。
当初は100体あったのですが大洪水などで流れ今は約70体ほどになっております。
数えるたびに数が違うといわれるため化地蔵(ばけじぞう)と呼ばれます。

弘法大師の投筆

また上流の絶壁には、弘法大師が筆を投げて彫ったという伝説のある「かんまん」の梵字が刻まれており弘法大師の投筆とよばれています。

鳴虫山(なきむしやま)

左に見える山です。
名前の由来
この山に雲がかかると必ず雨になったことから「泣き虫」という名前になったのだとか

裏見の滝(うらみのたき)

日光三名瀑 (華厳ノ滝、霧降ノ滝、裏見ノ滝)
高さ約20m
1689年奥の細道行脚していた松尾芭蕉はこちらに立ち寄り
「暫時は滝に籠るや夏の初」(しばらくは たきにこもるは  げのはじめ)
と詠んだそうです。
かつては水の落ちる崖の下に入る事が出来、滝を裏側らからも見る事が出来た事から名前が付けられたと言われています。


清滝インターチェンジ

日光宇都宮有料道路の終点でございます。


古河電子 半導体素材分工場

(ふるかわでんし はんどうたい そざいぶんこうじょう)

古河電子は半導体やレーザーといったITの進化に欠かせない技術を支える
材料や部品を作成するメーカーです。
1974年に世界で初めて光ファイバ・ケーブルのフィールド実験に成功し現在も世界の高速大容量通信を支えています。
多岐にわたる古河電子の製造の中でも 半導体の工場です

大谷川(ダイヤカワ)

日光市内を流れ鬼怒川に流れ込む河川です。
日光市内に入ってから何度も流れを見てきましたね

中禅寺湖から華厳の滝で流れ落ち大谷川となり
その流れは裏見の滝、霧降の滝、寂光の滝など多くの滝となりながら続いて行きます。

日足道路

日光と足尾を結ぶので日足道路と申します。

足尾銅山(あしおどうざん)

こちらを左に曲がり進みますと江戸時代鉱山として栄え国の史跡に登録されている足尾銅山がございます。
江戸時代の初めに動画発見され幕府直轄の銅山になってから
昭和48(1973)年までの約360年間、一時休山していた時期もありつつも長い年月にわたり銅の採掘が営まれた日本でただ一つの銅山です。

閉山後

坑内の一部が開放されています。
全長約460mのトロッコ電車で坑道を見学する事が出来ます。
坑道内にはリアルな人形が置かれており当時の辛く厳しい鉱石採掘の様子が年代毎に感じる事が出来ます。
坑道の他にも鉱石から銅になるまでの過程などが展示されている銅資料館と足字銭の鋳造過程が展示されている鋳銭座が併設されていて
日本の近代化を支えた足尾銅山の歴史や役割を学ぶことができます。

足尾銅山鉱毒事件

1800年代後半の明治時代、現在の栃木県と群馬県を流れる渡良瀬川周辺で公害事件が起こりました。これが日本初の公害事件として知られる「足尾銅山鉱毒事件」です。
銅山から排水された毒によって、渡良瀬川の魚が死んだり、川沿いの畑の農作物が枯れたりしました。
そのことに気が付いた当時衆議院議員の田中正造
はすぐに国会で取り上げましたが、政府側は、まったくやる気を見せず何の対応もしてくれなかったのです。
その後洪水が起こり被害は利根川流域まで広がると、「足尾銅山の仕事をやめさせよう」という声が増え
群馬県川俣村で農民たち5000人と警官隊が大乱闘を起こす事件が起きてしまいました。
それでも動かない国に田中が起こした行動は
辞職、そして明治天皇への直談判でした。
この行動は、本当はこれまでも全国で起こっていた公害の被害に目を向けるきっかけともなりました。

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