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ピアノを学んできた人生①


前回はざっくり今の自分がどんな人か書きましたが、今回はそこから何回かに分けて20年以上の月日をつぎ込んだピアノの話をしようと思います。

前回の記事はこちら。



はじめたきっかけ


自分が産まれたときには既に実家にはアップライトピアノがありました。
母親が趣味で近所のピアノ教室に通っていたんです。なので鍵盤を叩いて遊ぶ程度に赤ん坊のころからピアノに触れていたと思います。

自分が4歳になったころ、父親の知人がピアノ教室をはじめるから生徒にならないか?と話がありました。母のピアノを弾いている姿を見ていたからか、すごく興味があったわけではありませんがすんなり「うん」と言ったのを覚えています。
その先生は若い女性の先生で、わざわざ車で30分ほどかけて山の麓の実家まで来て、がきんちょの自分にピアノを教えてくださいました。
がきんちょの自分はピアノそっちのけで近所の友達と遊ぶのに夢中。野山を駆け回っていました。ピアノのレッスンの時間になっても時間を忘れて遊んでいたため、祖母が村じゅうを探し回って自分を見つけて先生の待つ家に連れて帰ってくれてました。
その時のピアノの実力と言えばいわゆる普通の習い事のピアノという感じで、ゆるーくピアノを弾いていました。
練習もまずまず。宿題もまずまず。
たまにやってなくて先生と一緒にやったりしていました。
発表会では『ほたるこい変奏曲』という今考えれば誰がどう編曲したのかもわからないのを弾いた記憶があります。
でもきっと先生は怒らずほめてくれたんじゃないかと思います。怒られた記憶が全くないので。今考えればそれがピアノを今まで続けられる根っこの理由になったのかもしれませんね。

やめれない


7歳になった自分は野球もサッカーも知人や友達に誘われてやっていました。どちらも始めた時期が少し周りよりも遅く遅れをとっていたのですが、他校の友達もできて楽しくしていました。そんなとき、両親が自分に決断を迫ります。
「ピアノか野球かサッカー、習い事をどれか1つに絞れ。今習っている習い事のプロになりたいなら、そろそろ1つを本気でやらなきゃなれない。」
がきんちょは考えました。
どれも楽しいしか考えずにやっていたから、プロとかそんなことは頭になかったのです。ずーっとその日じゅう考えて、その時がきんちょの頭の中でこう結論がでました。

『野球とサッカーはやめれるけど、なぜかピアノはやめれない

なぜかはわからないんです。でも、こう思ったんですよね。今でもわかりません。こうしてなぜかわからないけど本気でピアノを学ぶことになります。


武者修行


知らない世界

自分がピアノを本気でやると決断したので、両親が先生を変えるという判断をします。さらば優しい先生。
そこでどうやってそこを知ったのかはわかりませんが音楽院というピアノだけではなく、弦楽器や管楽器、声楽、ソルフェージュまで網羅した教室を見つけ出します。見学に行くとまず迎えたのは分厚い扉がずらーーーっと並んだ薄暗い建物。分厚い扉を開けるとそこには2台のグランドピアノ。片方が先生用で片方が生徒用。レッスンは1時間でした。
がきんちょにとっては1時間のレッスンがとても長く感じたし、そのレッスンを受けている子の真面目さといったら。知らない音楽用語が飛び交い、知らない表現をしてピアノを弾いていて。当時の自分は弾いたとしても2曲ほどしか同時に練習していなかったのですが、そこでは基礎練習2曲、練習曲1曲、作品1~2曲。そのくらいやってました。
これ、俺やるの?って思っていた気がします。

これは音楽院の部屋ではないですが、レッスン室はどこもこんな感じ



ピアノを弾くって、ピアノ教室だけじゃ弾けないんですよ。知ってました?当時の自分は知りませんでした。
ソルフェージュってのをピアノの実技とは別に受けた方がいいんです。なにをするのかというと、書いてある楽譜を正確な音程で歌う練習、書いてある音符を正確なリズムで音を出す練習、先生が弾いたピアノを楽譜に書きおこす練習、音楽用語の勉強。ざっくりこんな感じです。
それらを自分よりも若い小さな女の子たちがいとも簡単にこなすんです。
自分は知らないし全然できなくって。なんでみんなピアノの音がドレミファソラシドで聞こえるねんって。
初めての世界に打ちのめされました。
このソルフェージュも1時間だった気がします。

それでもよくわかりませんが、できない自分のピアノの音をほめてくれた人がいたんです。その音楽院の院長先生でした。院長先生はかつて音楽大学を出たチェリストで、その音楽院ではすごい人だったきがします。そんな人に音を褒められて、それが頑張る原動力になっていたのは間違いなかったでしょう。
そしてその音楽院に通うようになってからというもの、今まで練習なんてろくにしていませんでしたが、毎日15分が30分、30分が1時間というように無理矢理にでも増やしていきました。というか半ば強制でした。本気でやるって決めたからにはやるぞって親にひっぱたかれながら。物理的に。
でもグランドピアノも新しく買ってくれて。応援はすごくしてくれていたんだと思います。だから必死余計必死だったのでしょうけど。

でもやはり当時のわんぱくがきんちょにはつらい日々でした。
小学校の友達は夜バラエティー番組を見ている時間にピアノの練習をしていたので、昼間学校に行くとみんなが会話している昨日のテレビの話に全くついて行けなかったのです。マンガも禁止されていたのでそれもついていけない。流行りのゲームも持てず、いつも友達の家に遊びに行ってマルチプレイで遊んでは羨ましいと思っていました。
土曜日は音楽院で丸1日つぶれ、日曜日はレッスンの復習。週末に友達と遊んだことは人生で1度もありませんでした。
山の麓のド田舎でしたから、ピアノなんて女の子がやるものだと言われたりつらい思い出は思い返せばどんどん出てきます。

なんで続けられたのでしょうかね。本当になんとなく今やめられない。その感覚だけだった気がします。

コンクール

そんな自分の知らない世界でもがいて1年が経ったころ、先生からコンクールに出てみないかと提案がありました。
コンクールってもっとすごい人たちが出るんじゃ…って思った気がします。でも大丈夫!きっとうまくできるよ!って言われてなすがままに生まれて初めてのコンクールに挑戦するのですが…
発表会は今までに何度も経験しましたが、審査の場ではなかったので間違えたって平気だし、ステージで弾ききったらやったー。そんな感じでしたから、番号で呼ばれて次々と同じ曲を弾いていく、みんな静かで部屋の奥の方で紙にずっと何か書いているおじさんとおばさんがいて…
そんなコンクールにめちゃくちゃ緊張しました。
いざステージに上がったら動悸が激しくて、何をしなきゃいけないかを忘れてしまって、椅子の高さも位置も何も調整せずに座って弾いたものだからとにかく弾きにくくて。大失敗をしました。もちろん後からわかる結果は予選落ちだったのですが、勉強と思って他の参加者の演奏も聞いていきました。
しょぼーんってなってうなだれている時に現れたんです。これからネクタイマンと呼ぶようになる彼が。
そのネクタイマンは颯爽とステージに上がってサラッと完璧に弾いてさらっと予選を通過していきました。ネクタイをなびかせて。
その時に自分の闘争心に火がついたのを覚えています。なんだあいつ同じくらいの年なのにあんなにかっこつけて!むかつくー!みたいな。

そこから次回のコンクールに向けてより練習は加速しました。両親もより一層やる気が入っていました。
毎回レッスンについてきてくれて、先生の言ったことをノートにまとめて、帰ってきてから次のレッスンまでの1週間毎日夜7時半から10時半まで、ピアノを弾いている横に座ってノートとにらめっこしながら自分の練習に付き合っていました。何度もできないとぐーぱんも飛んできたし、物も飛んできて。よく泣きました。当時のことを思い返すとしんどかったなあと思うのですが、両親もしんどかったと思います。朝から仕事をして帰ってきてそれをするわけですから。へとへとだったんじゃないでしょうか。なんとも複雑な気持ちですが、ありがとうとこの場を借りて言わせていただきます。

とそんな練習を続けて数か月後1年後?だった気がしますが、小さなコンクールの予選を通過し本選に出場することが叶います。初めての予選通過は小さなコンクールとは言え、飛び上がるほどうれしいものでした。本線の会場は富山から2時間ほど車を走らせた福井であり、ソースかつ丼をヨーロッパ軒で食べたのを覚えています。本選の結果は良いものではありませんでしたが、とにかく予選を通過できたことがその場ではうれしかったです。

その後も毎年の夏はコンクールを受けるというのが慣例になり、それは高校に入るまでずっと続きました。いつしか予選通過は当たり前、地区本選で全国大会に出場できるかどうか、そこに焦点が合うようになりました。
いつしかネクタイマンはコンクールに出てこなくなり、彼のことは目標ではなくなりましたが、ネクタイマンがいなかったらここまでコンクールを頑張っていなかったかもしれませんね。

また運が良かったことに、この音楽院には自分以外にもガチでピアノを頑張っている子供たちが複数人いたんです。
その子たちと発表会やコンクールで同じステージに立つ経験をしていたわけですが、当然ライバル心も芽生えるしリスペクトもできるしで、なかなか子供にとってはいい環境でした。
互いに切磋琢磨しながらピアノというものと向き合えたのが、当時のピアノの上達のひとつの鍵になっていたと思います。

高校受験

東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校、なんだか書いてみると漢字だらけで不思議な字面ですね。余談ですが在学中、日本一長い高校の名前ということで話題になっていました。
小学校6年生のとき、両親の勧めでこのめっちゃ長い名前の学校の入学説明会に参加しました。
会場は東京藝術大学の奏楽堂という大きなホールで、ばかでかいパイプオルガンが小6の私を出迎えたのですが、その大きさと言ったら田舎者の自分にはまず見ることのない大きさの楽器でした。
そして説明会に出てくるテレビやCDのジャケ写で見たことある人たち。小学生の自分にはちょっと受け止めきれない感覚でした。ただここはすごいところなんだなとは思いました。

正直、この説明会でここに通いたくなったか、そう言われるとよくわからなかったのが本音でした。でも、思っちゃったのです。
ここに入学すればあの田舎から脱出できる。痛い思いをしながら練習せずに済む
と。こんな不純な動機でこの日本一難しい、藝大入試よりも難しいと言われる高校の受験を決めたのでした。

そうと決まったら今までの環境からさらにハードなものに変わります。
7歳からお世話になった音楽院を辞め、当時東京藝術大学で非常勤講師をされていた先生に実技を習い始めます。またソルフェージュも作曲家として活動していらっしゃる先生に習いました。どちらの先生も富山から離れた石川県にいらっしゃり、毎週末富山から通う日々が始まりました。
始めのころは両親どちらかに送ってもらいながらしていましたが、中学生になってからは高速バスで往復していました。
そこでは実技はピアノの音の出し方という基礎から学びなおし、ソルフェージュ、楽典も1から理論を叩きこまれました。そんな基礎からのスタートでしたが、受験には大人のピアニストが演奏するような曲たち(ベートーヴェンのピアノソナタやショパンのバラードなど)を演奏しなければならず、急ピッチで実力をつけなければいけませんでした。
今から思えば4年という短い期間で無謀とも言える挑戦だったなと思います。が、とにかく練習して練習しまくりました。
(おかげで中学も部活動はできず、ますます周りの友達から浮いてしまう人が出来上がったのですが…)
そのおかげか何とかその難易度の曲を弾けるようになり、受験をし、見事合格することができました。全国大会などで賞歴もない自分が、全国から選りすぐりの15人の中に入ることができたのはとても嬉しかったです。

高校の校章バッジ


とても駆け足でしたが、こんな感じで富山のド田舎から東京の藝高にやってきました。
もしここの部分もっと詳しく聞きたいという声があれば、そこの部分をもう少し詳しく書くことがあってもいいかなと思っています。
次回は高校生活以降の話ができればいいなと。





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