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TrueDure 29 : 「ガンギマリ学習体験」とは何か

これから「ガンギマリ学習体験」について書いていきたいと思う。

「ガンギマリ」とは、フロー状態やゾーンのことだと思ってもらってよい。すなわち何らかの課題に対して無我夢中で取り組むうちに学習が進み、習得レベルが上がっていく精神状態のことだ。それをあえて「ガンギマリ」という言葉で表現しているのは意図がある。フロー状態やゾーンのような精神状態は特別な人や特別な訓練によってもたらされる特殊なことではない、私たちは日常的に経験しているのだぞというその“近さ“を強調している。

とはいえ少々注意が必要なのは、「ガンギマリ」と言う時に“ハイな状態“を指すわけではないということだ。それはもう少し、本当に日常的な現象としてイメージされている。例えば、仕事をしていて「あ、もう16時か」と気づいた時、あなたは自分がガンギマッていたことを確認しているのである。あるいは毎日している日常動作は意識せずとも自動的に遂行されている。これもガンギマリである。このように広くガンギマリを捉えてみると没我的な精神状態は決して特別なものではないことが分かる。むしろ私たちの日常はこうしたジワァっとしたフロー的、ゾーン的精神状態によって反復されている。これを親しみを込めて「ガンギマリ」と表す(この汎ガンギマリ観とでもいうべきアイデアはキース・ジョンストンの「トランス」の考え方からきている)。

こうしたガンギマリ状態の中で特に、学習活動に方向付けられた経験を「ガンギマリ学習体験」と呼ぶ。ガンギマリ学習体験の中では自意識は後退し、目の前の課題に注意・専心する。そこで挑戦と失敗を繰り返しながら学習のフィードバックループが回転し続け、自意識が戻ってきた時には今までできなかったことができるようになっている(このプロセスはヴィクター・ターナーのリミナリティを想起させる)。

このガンギマリ学習体験の“あいだ“に起きていることについては今回はあまり重要ではない。それは他の心理学研究を参照する方がずっとよい。そうした知見をあらためて繰り返すよりも、私はここで、ガンギマリ学習体験の“はじまり”に着目したい。“はじまり”を経ることなくして“あいだ”はない。そして私たちはどうしたら学習を“はじめられる“のかをよりいっそう知りたがっていると思われる。あるいはどうすると学習は“はじまってしまう”のか。(はじまりへの着目は即興に関する哲学研究を行うゲイリー・ピーターズのbeginとstartの区別から着想を得ている、後述するがこのガンギマリ学習体験のはじまってしまうという脱コントロール的性格と即興することは手と手を取り合う)

ガンギマリ学習体験のはじまりは「感染」である。そこには身体感覚や感情が関わっている(マルセル・モースの「威光模倣」および宮台真司の「感染動機」)。

私たちの身体はとにかく外部に反応する。外部から発せられるさまざまな質感は私たちの身体に微弱ながらも影響を及ぼす。むずむずしたりうずうずしたりキリキリしたり。幾百とも分からないそうした影響の中でたまにただの感覚から“意味“が直観されるものがある。その状況をあえて言葉にすれば「とても大事そうだ!」と身体が判断したものは解釈が行われて、意味づけされる。すなわちそれがどのように大事なのかが説明される。それは大きく「嬉しいこと」か「悲しいことか」に分類できる(アントニオ・ダマシオ、スピノザ)。そこから無数に枝分かれをして意味の体系を作り上げる。この意味の体系は後世に同様の身体感覚を伝承する。そのためある文化に触れたときに私たちの身体が知覚するものは歴史性を帯びていることになる。それは遠い過去において同様の身体感覚が、ある個体にも引き起こされ、それが意味づけられ、その文化を築き上げ、そして伝承されてきたことを伝える。人類が築いてきた技術や物語といった文化はこうした身体感覚→感情としての意味によって駆動し、作り上げられ、伝承されていると考える(ジョン・デューイ)。

教師とはこの伝承と歴史に埋め込まれた職業である。ある文化を作り上げた身体感覚が教師の身体上にいわば再演/反復されることで、教師は学習対象になる文化の感染源となる。ある個体に引き起こされた身体感覚による反応が同じ時空間を共有する別個体にも自動的に模倣される。この模倣は最も原理的には同種同士が危険を共有する信号として機能するものだ。

この生物学的な自動的模倣機能がガンギマリ学習体験を準備する。すなわち、ある教師の身体感覚が同じ時空間を共有する生徒の自動模倣機能を喚起し、今まさに教師が感じているように感じようとする身体同期が欲望される。例えば、教師が楽しそうに二次関数を教えている、その光景を眺めているうちになんだか自分まで楽しくなってきて、次第にその楽しさの原因である二次関数に興味の矛先が少し向く。これが感染である。

このようにガンギマリ学習体験は自動模倣機能によって身体反応が引き起こされることがはじまりであると考える。そして、脳は知覚した情報をその都度その都度で解釈し、即興的に意味づけることに特化した器官である以上(ニック・チェイター)、どのような情報に身体が反応し、ガンギマるかを事前に選ぶことはできない。そのためガンギマリ学習体験は私たちの願いとは裏腹に“はじまってしまう”ものである。もし、かろうじて私たちにできることがあるとすれば、この身体反応を拒絶し、否定し、無かったことにする処理である。灯った火の火力を弱めることはできても、火を灯すことも、いつ灯るか、どのように灯るかをコントロールすることはできない。

教師にとっても、ガンギマリ学習体験がいつ、どのように生徒に生じるかをコントロールすることはできない。教師のガンギマリは感染するかもしれないし、しないかもしれない、むしろ全くの無反応に終わることもあるかもしれない。それくらいに教師と生徒とは隔たっている。このリスクを引き受けてもなお、学習を上演することが教育的行為だといえる(ジャック・ランシエールおよびガート・ビースタ)。なお、これは生徒を楽しませようと言っているのではない。そうした戦略はたびたび失敗するし、先述したようにガンギマリとは私たちの日常を構成している親しみのある現象である。このガンギマリからほぼ自動的に算出される意味の生成プロセスへ身体を委ねることを他のガンギマった身体が惹起するのみである。積極的な介入的パフォーマンスは感情的なリフレッシュメントは行えても、学習プロセスへのフローに乗り込む誘発とはむしろ異なる。(しかし、ガンギマリ学習体験に必ずしも他者の身体が必要だろうかと考えてみれば、おそらくそうではない、あくまで他者の身体をメディアにすることで入りやすい/惹起しやすいというだけで、他者の身体がなくとも他のメディアや学習素材だけでガンギマることも十分ある。しかし、それらも同様にガンギまるかどうかをコントロールすることはできない。)

一度ガンギマった身体は即興をはじめる。ガンギマった身体は学習対象への注意を持ち続ける。それが緩やかに行われる場合もあるが、短期集中的にガッと行われる時もある。この時、知覚された情報群にどのような意味を付与するのかの計算処理が脳内で行われる。この即興がそのままスムーズに流れていくか、せき止められるのかには自意識が影響している。知覚した情報に意味を付与するオートマティックな即興はどのようなアウトプットを弾き出すのかは不確実・予測不能でそれらは全くの偶然である。

それは時に私たちにとってリスクになりうる。なぜなら私たちは社会に暮らしているからである。社会とは大衆が支配し、大衆は他の人たちをキョロキョロ見渡しながらどのように行動(ビヘイブ(アクトではない))したらよいかを気にする領域である(ハンナ・アレント)。この社会的に良しとされる行動規範と自らの人格システムの現状維持という連立方程式も私たちは同時に解かなくてはいけない(なお、偶然的に意味を生成し続ける脳の領野は内側前頭前野(意味生成機能)と吻側外側前頭前野(不確実性を楽しみ、課題遂行の流れに身を委ねる機能)とのアンサンブルによって行われ、行動規範や監視を気にするのは外側前頭前野が担っている)。

ここに偶然性と規範とのネゴシエーションが要求されることになる(トレイシー・マクマレン、ジュディス・バトラー)。ある程度の人格システムが構築された主体にとってガンギマリ学習体験は継続困難となることがある。なぜならガンギマリ学習体験によって算出されるアウトプットによって自意識の埒外へと開かれる可能性があるからだ。これは安定状態から不安定状態への移行を示し、そのため一時的にせよ実存的な不安が生じることになる(とはいえ実際に起こる変化といえばここまで大袈裟なことでもないと思うけども)。そのため、即興はトラブルの現場になる時がある。偶然に知覚した情報が偶然に弾き出したアウトプットが偶然に自らの日常的な自己呈示と合致しない時、それをなんとか誤魔化したり正当化したりして無害なものに読み替えることもできる。反対に、はじまってしまった新しいパターンに身を委ねてこれまでの古いパターンに固執しないように即興し続けることもできる。変化の否定から過剰な変化まで即興のパターンはグラデーションする。大袈裟な図式を展開すれば、ガンギマリ学習体験による即興は、自己規範の維持と、(小規模にせよ)自己規範の解体・再統合とのセッションなのである。

重要なことはこうした大袈裟な図式が実際のところはマジメな顔をしながらもどこか軽くて、時に可笑しさを伴うという点である。ガンギマリ学習体験が他者の身体を媒介にしてはじまったように、他者の身体を媒介にして続いてもいく。他者のガンギマった身体と協働することは偶然性への身の委ねと自意識の明け渡しが軽やかに易々と行えてしまうグループ・フローという場を形成する(キース・ソーヤー)。他者が介在することで場がより予測不可能、コントロール不可能になる。この予測不可能性、コントロール不可能性が他者との間に共有された時、喜びを喚起する。なぜなら(1)予測誤差があるから(2)失敗するかもしれないからである。他者は自分以上にコントロールができない、それは往々にして自分の予想とは必ずズレがある、「そうきたか〜!」という喜びはこの予測誤差に起因する。また、他者と共に即興の場を共有することはあらゆる失敗を暗示する。「うまくいくかもしれないし、うまくいかないかもしれない」という恐怖と期待の混淆は失敗の暗示に起因する。これらの喜びは他者への自己の委ね・明け渡しというリスクと引き換えに得られるものである。おそらく他者との協働によって自意識との差分が生じ、パフォーマンス可能領域(ZPD)を押し広げ、この経験によって自己のアイデンティティーの拡張や読み替えとしての「頭ひとつ分の背伸び」が副次的に生じることもある(フレド・ニューマン、ロイス・ホルツマン)。

以上、「ガンギマリ学習体験」についてかなり乱暴に記述してきた。ガンギマリ学習体験のはじまりは微細な身体反応であること、そしてそれは事前に予測したりコントロールすることはできないこと、そのガンギマリ学習体験のプロセスに巻き込まれていくうちに、自身の経験を自動的に解釈し、意味をその都度その都度で生成するための即興へと連なっていくことを記述してきた。ガンギマリ学習体験の原因には立ち入らない、それは風がどこから吹くのかを考えることのようなものだからだ。私の個人的な願いは、私たちの日常の中で幾度となく身体上に微細ながらも上演されているガンギマリ学習体験を感じてみてほしいのである。他者の身体を目の前にしたときに生じる身体感覚は私たちに意味をすくい取るように呼びかけている。私たちは他者と、自然と即興をしながら意味を作り出し世界を、自己を解体・構築していく。風まかせに進む学習、それがガンギマリ学習体験である。

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