見出し画像

第9回ケア塾茶山 『星の王子さま』を読む(2018年5月9日)

※使用しているテキストは以下の通り。なお本文中に引用されたテキスト、イラストも基本的に本書に依る。
アントワーヌ・ド・サン=グジュペリ(稲垣直樹訳)
『星の王子さま』(平凡社ライブラリー、2006年)

※進行役:西川勝(臨床哲学プレイヤー)
※企画:長見有人(ココペリ121代表) 

はじめに


西川:
 はい、じゃあ始めましょうか。今日で、ケア塾茶山で『星の王子さま』読むのは9回目になります。今日は47ページからですね。いつも、時間が足らなくなってしまうんですよね。しかも、今日はちょっと急いで帰らなきゃいけない。

 でもまず、最初に軽い自己紹介してもらいましょうかね。そんな詳しくする必要はないんで、「昨日何やったか」でもいいんです。えーと、まず僕は西川勝です。よろしくお願いします。

 5月2日から高知に行ってました。2、3、4、5、6日と高知県で歩き遍路。まあ大阪大学で授業をやってるんです。大阪大学のコミュニケーションデザインセンターというところで特任の教員を十一年間してました。まあ、その時に同僚に誘われてお遍路が始まったんです。大学辞めてもう二年目になるんですけど、まあかわいそうと思ってですかね。「満願になるまで連れてったろう」っていうことで、非常勤講師で行かせてもらってます。

 非常勤講師だから、何にもしないで、ただ歩いてるだけ。学生も大学院生がほとんどなんです。学部生は三、四年生で、こう許可得た者しか受けられないっていう。もともとコミュニケーションデザインセンターは大学院の共通教育機関みたいなとこだったんで。

 多かった時はね、五十人ぐらいいました。三回ぐらいしたんですけど、今年は少なかったですね。今年は学生さんが四名。中国からの留学生で大学院生が一人。あとは院生。男の院生が三人。
 あと真言宗のお坊さんがいました。真言宗のお坊さんが社会人で入ってきてね。僧籍は持ってるんだけど、親父がまだ寺をやってるんで、今は博報堂っていうめちゃくちゃエリートの会社の人。

A:広告代理店の博報堂?

西川:そうそう。これがまた、三十ちょっとすぎぐらいで、おまけにね、すっとしててね、顔は男前だし声はいいしね、

A:博報堂ですもんね。

西川:
 ねえ。ほんとに。「どういうことや」って思うぐらいの人間でしたけど。まあそんな人たちと一緒に旅に行きました。

 四国遍路に行ってるといろんなこと考えるんですけど、『星の王子さま』も、ある意味、旅の中で王子が変わっていく話なんですね。

 自分のこう住み慣れた土地とか、たとえ家族と一緒じゃなくっても、自分の世界みたいなものが住んでるところにあるわけですよね。そこを、一歩出てしばらく経つと、なんか今までの自分とは少しずつ変わっていくっていうのが面白いですね。

 よく「よし、今度からはこうしよう」とかって自分で決心したりするじゃないですか。まあ「今までの自分を何とかして変えて、新しい生き方しよう」とか思うんですけど、大抵失敗しますよね。

 人間の心ってそんなに強いものじゃなくて、ころころ、すぐに挫けちゃいますから。でも自分の住み慣れてる場所から一歩出ると、そこで出会う人はたまたま出会った人なんですけれども、変わってくる。思いもよらぬ方向に自分が変わってくるっていうか。

 大抵の場合、いいか悪いか別として変わっていきます。まあ、非常勤でお金もらって行くばっかりじゃなくって、お金貯めて自腹でいっぺん通しで歩いてみたいなあってちょっと妄想で思ったりしました。

 ただ、歩き遍路は、やっぱりお金がかかるんです。若い人だったら、野宿でもできるでしょうけど、僕布団の上でないと歩き通せる自信がない。

 だいたい、1,200キロぐらいを歩くのは自分の歳と同じぐらいかかるって言われてますけど、二十代だと二十日で回れるってことはないですよ。だいたい三十日ぐらいかかるらしいです。四十代やったら四十日間、だから僕やったら六十何日間いうことですけどね。うん。まあそんなこと考えてました。

 ちょっと長くなりましたけど、はい、こんな感じです。

A:はい、Aと言います。えーと、何言うたらいいですか。最近のことか。パソコンを買い換えました。

西川:おお。

A:もちろん自分でちゃんと繋げないから、そこもお金を出して繋いでもらって。もう、やっぱり新しいものはいいなあっていう。でも、なんか何を入れるでもなくって、前にあったものを同じような使い方しかできなくって、もったいないなと思いながら。でもなんかちょっと嬉しい感じです。

西川:何ですか? ウィンドウズ(Windows)ですか?

A:はいはい、そうです。もちろんwindows10ですけどね、なんかこう、もうよく分かりません。ここに来たらいっぱい達人がいるなあと思ってね。なんか教えてもらったらいいんやと思って。独りもんやし。

西川:はい。ありがとうございます。

B:
 Bです。えーと、何も変わりばえしないんですけど、まあ、昨日から朝にかけて夜勤だったんですけど、来月から部署が変更になるので、夜勤をするのもあと何回かだと思います。

 あんまり私夜勤が得意なほうじゃなくって、苦手なので、嬉しいんですね。だけど、夜勤でしか経験できないことっていうのも恐らくありますね。それがあと数回で終わるので、まあ嬉しいけどちょっとさみしい気持ちもあります、あと何回か、がんばります。

西川:夜勤だけじゃなくて、勤めが終わることもあるから。


C:Cと申します。今来たDさんのフェイスブックを見て来ようと思いました。で、ちょっと本を知らなくてすみません。

西川:いや、いいんですよ。Dさん、僕こないだからちょっと行ってきたとこだから、ちらっとだけしゃべりましたね。

D:えーと、Dです。自分は自給の畑をやっています。それと週に二回ぐらい知的障害のある人の施設で夜勤をしています。

西川:おお、そうなんだ。夜勤してんの。

D:はい。

E:えっと、Eと申します。ココペリで働いていて、はい。こういうイベントにはあまり参加してなかったけど今回ちょっと面白そうやなと思って参加してます。えーと最近、石垣島に旅行に行って泡盛あるので、またあとでどうぞ。

西川:ありがとうございまーす。

F:みなさん初めまして、Fといいます。今日はあの、Gくんの紹介で来ました。普段は大阪の阿倍野区に住んでます。えー、こないだ4月29日がちょうど昭和の日っていうことで、「どっぷり、昭和町。」[*1]っていうお祭りがあったんですよね。まあ僕も実行委員をやって、大きなお祭りだったんで、まあそれが終わってちょっとほっとして落ち着いた、いうところです。今日はよろしくお願いします。

[*1] 「どっぷり、昭和町。」:大阪・阿倍野「昭和町」で、毎年開催される街の大きな文化祭。

西川:阿倍野ですか。

G:阿倍野の「ヒューマンドキュメンタリー映画祭」です。

F:あ、そうや、大事なことやった。「ヒューマンドキュメンタリー映画祭阿倍野」っていうのを、去年までずっとやってまして。Hくんも一緒にやってたんです。その時の仲間というか。

西川:そうですか。

G:僕は長見さんから派遣されて行ったんですけど。だから長見さんとは前から知り合いではあるんですよね?

F:そう、はい。そんな感じです。

西川:はい、ありがとうございます。僕も阿倍野で生まれたんです。

F:あ、そうなんですか?

西川:ついこないだまで10年ほど阿倍野へ住んでたんですけど、最近河内長野に引っ越しましたね。

G:えー、ココペリ121のGです。昨日、大阪大学の池田光穂先生の研究倫理入門にもぐりで出ました。はい。先々週ぐらいにフェイスブックで、なんか「登録してる人が少ないから、誰でもいいから来てもいいです」って書いてあったんで、先々週ぐらいから行ってます。今、参加者二人なんで、結構なんかゆっくり話できますけど。

西川:中身はどう?

G:
 中身はね、あの、科学者の研究倫理の本を見てね、1ページ1ページ読みながらね、ちょっとグループディスカッションみたいなことを三人でしてますね。

 で終わったあと、昨日はなんか地域コミュニケートの研究室で、チーズとワインを飲んで。来週は行けなさそうですけど、そのあともなんか面白そうなので、行ける限りではちょっと行きたいなと、

西川:そうですか。池田さんはああ見えて、大・学者ですからね。

G:「西川さん、お元気ですか?」って言ってはりましたよ。「お元気です」って言っときました。

西川:「ほっとけ」って言ってました、って、言っといて。いやいや元気です。はい、ありがとうございます。

I:Iと申します。初めまして。えっと、ココペリで事務してまして、いつも事務しながらこっそり盗み聞きしてました。まあそんな感じで。最近は、えー、ゴールデンウィークはまあまあ仕事しながら、家族と一緒にいろいろと割と忙しい日々を送ってました。はい。そんな感じです。よろしくお願いします。

西川:はい、ありがとうございます。はい、どうぞ。

J:すいません、あの、今日19時まで勤務ということで、書かせてもらってたJと申します。あの、ココペリで雇ってもらってます。あの、おにぎり作りました。みなさんいただいてください。

西川:そうですね。ぼちぼちいただいて。どうぞどうぞ、食べながらやりましょ。はいどうぞ。

K:あ、えーっとココペリのKといいます。事務をしてます。それでまあさっきの、夜勤の話が何だか続いてますけど、僕は夜勤が苦手で。やっぱり、うん、話が来ても一応断ってる…。体調とか崩れたり、大変ですから、まあ、うん、まあやりたい人がやればいいかなと。そういう感じです。はい。

H:すいません、後ろから失礼します。Hといいます。ココペリ121で障害者の方のヘルパーをしてます。えっと、ちょっと5月末、6月でココペリを辞めて実家の広島に帰ることにしたんですけども。まあ親と仲悪くはないんですけど良くもなかったので、それがちょっと今戦々恐々というかちょっと怖いところで。心配してます。以上です。よろしくお願いします。

西川:親も戦々恐々としてるよ。

H:そうですねぇ。


バラの登場


西川:
 はい、ありがとうございました。じゃあ早速始めていきたいと思いますけど。この読書会の方法っていうのは、僕が今までいろんなところで『星の王子さま』の授業をしたりだとか、まあこういう読書会みたいなことを一般市民向けにやったりとかしてたんですけど、そのスタイルでやってます。

 僕が音読して、僕が思ったことやとか考えたことをしゃべる時間で。でもそれだけだとちょっと面白くないんで前回、朗読もみんなにしてもらったりしたんです。

 今日のところは結構音読するのは難しいですよ。僕なんかバラの花のところなんか「よう読まんなあ」っていう感じでけどね。うん。まあとりあえずやっていきましょうか。

 その花のことをもっとよく知るようになるには、そう時間はかかりませんでした。王子さまの惑星には、とても素朴な花なら、ずっと以前から、ちらほら咲いていました。花びらもたった一列だけ。とても小ぶりで、まるでじゃまにならない花たちでした。そうした花たちはある朝、草の茂みから顔を出し、夜にはもうしぼんでしまいました。ところが、今お話ししている、その花というのは、どこからともなく飛んできた種からある日、芽を出したのです。その芽はほかのどんな芽ともようすが違っていました。その芽をよくよく王子さまは観察したのです。新種のバオバブの芽かもしれませんでした。ところが、それは低いままで、すぐに成長を止めてしまって、花を咲かせる準備に入りました。特大の蕾をつけるのを見て、王子さまは「きっと、見たこともない大きな花が出てくるぞ」と感じました。けれども、花はその緑の部屋に守られて、少しでも美しくなろうと身支度に余念がありませんでした。花はどんな色彩を身にまとおうかと念入りに選んでいました。ゆっくりと時間をかけて服を着、花びらの一枚一枚をぴったりと重ねあわせていきました。ヒナゲシみたいに皺だらけでは、外に出たくはありませんでした。今まさに、いちばん美しく、光り輝く姿で登場したかったのです。そうです、そうなのです。その花はとてもおしゃれだったのです。秘密めかした身繕いに、何日も何日もかけたわけです。そして、とうとうある朝、日が昇る、ちょうどそのときに、花は姿を現しました。
 これほどまでに、一分の隙もない準備をしておきながら、あくびといっしょに花はこんなふうに言いました。
 「ああ、目が覚めたばかりで……。ごめんなさいね……。まだ髪がくちゃくちゃでしょ……」
 そのとき、王子さまはあっと思わず声をあげました。
 「ああ、なんてあなたは美しいのでしょう!」
 「でしょ?」と花は穏やかに答えました。「それに、わたくし、日が昇るのといっしょに生まれましたのよ……」
 あまり慎しみ深い性格ではないな、と王子さまはピンときました。けれども、すっかり花に心を奪われてしまいました。
 「朝食のお時間だと思いますけど」と、やがて花は言い添えました。「わたくしのために、なにかご用意いただけますでしょ……」
 すっかりどぎまぎして王子さまは、汲みたての水の入った漏斗を取りに行き、花に水をかけてやりました。

 『星の王子さま』っていう作品の中でバラは、王子、飛行士に次いで重要な「登場人物」って言ったらおかしいですけど、登場者なんです。

 バオバブの話は前のところでありましたよね。この本の中では36ページのあたりですけど。子どもたちに「バオバブにはくれぐれも用心してくれよ」っていうことでした。

 バオバブを大きくなるままに放っておくとこんなことになってしまうから、毎日毎日自分の日課のようにですね、自分の朝の身支度をすませたら、星の身支度をしなくてはいけないと。

 そして、バオバブの芽をこう、ちっちゃいうちはバラとそっくりなんだけれども、「そうじゃない、バオバブだ」って分かったらすぐに引き抜くように毎日頑張らなければならない。

 何て言うか、危機管理じゃないですけど、そういうつもりで最初はこのバラとの出会いがあったわけですね。「芽を出したのです」って言った時にはまだ分からなかったんですね。

 でもしばらくして、「その芽はほかのどんな芽ともようすが違っていました」。それでバオバブではないということは分かったんですけど、それが大きな特大の蕾をつけて、どんな花が出てくるのか。やっぱり上手に書いてありますよねぇ。

 最初は、バオバブかもしれない芽として見てるわけです。どちらかと言うと排除する対象として見てるわけです。ところがそうじゃないと分かった。敵意を持つ必要はないと分かった。

 そして「大きな蕾をつけた」ということで、「脅威の対象じゃないんだ」っていうだけじゃなくて、自分の関心が引き寄せられるような。「いったいどんな、どんな大きな花が咲くんだろう」ってなっていく。

 言ってみたら、可憐なちっちゃな花はこの王子の星にもあったわけです。だからちっちゃな花にはそれほど心動かされないですね。でも、今まで見たこともないような花の蕾が出てきたっていうことで、やっぱりものすごい期待が始まるわけですよ。

 それで、ばっと出てくるのがバラなわけです。「ああ、なんてあなたは美しいのでしょう!」って、もう「すっかり花に心奪われて」しまう。まあそういうこう、別に男女だけじゃないでしょうけど、いわゆる恋愛的な出会いっていうか、「心を奪われる」っていうことです。


心奪われて


西川:
 「心を奪われる」ってどういうことでしょうね? 「フォーリンラブ」(fall in love)とかとも言いますけど。まあなんかいいこと、いいっていうか、みんな恋愛についてはその、極めて人間的なっていうか、人生の中で大切にしたい事柄やと思ってますよね。

 「恋に落ちる」とか、まあ言ってみたら、急に自分を見舞った不幸のような表現がぴったしくるのが不思議なところですよね。それはなぜなのか?あらかじめお見合いとかで、いろんな相手の情報を知ってて、「非常に気立てが良くて美しい人で、何やかんやかんや」ってあらかじめ知ってて、でおまけに写真まで見せられて、まあいっぱい情報が入ってて。それでお見合いした時にね、「恋に落ちる」なんてことはないですよね。

 「あ、ええ人やな」とは思うかもしれないけれど、急に「心を奪われる」とかじゃなくって、まあ、こうみんなの世評通りのっていうか。自分も最初に来た情報で取捨選択することできるわけです。

 「もうそういう、うーん、もう体育系の女はええわ」とか、「そんな詩とか読む人いらん」とか、こういろんなこと言えるわけですから。ある程度自分の好みに合うた人と見合いとかしたりするわけです。

 だからそういう時には、「恋」みたいな、もう「心奪われる」ようなことはないわけです。なんかときめきながら、でも急に心奪われてしまうっていう、人間にとって恋愛というものはどういう意味を持ってるのかっていうのは考えてもいいんですけど。

 『育児の百科』[*2]を書いた松田道雄[*3]ていう、京都で活動していた小児科医がいましたね。この本は大ベストセラーでしたね。なんかロシア革命の歴史も書くし、貝原益軒の『養生訓』も現代語訳するし、なんかもう非常に多芸多才な人です。

 『安楽に死にたい』[*4]っていう本を晩年に書いています。「えーっ」と思って読んで、感心したこともあるんですけど。その前に『恋愛なんかやめておけ』[*5]っていう本も若者向けに書いてるんです。

 「恋愛なんかするな」って。「恋愛なんてつまらんもんや」って。要するに、まともじゃない、「まともじゃない時にまともじゃない事柄が起きて、だから心が、理性も何もないんや」っていう。「もうそんなものをしたいしたいなんて思うのがそもそも間違うてる」みたいなこと言うんですけど。

 それを読んだ頃の僕は「何言うてんのかな、この人」と思ってましたけれど。まあ恋愛について、みなさんどう思いますかね。

[*2] 『育児の百科』:松田道雄著、岩波書店、1967年出版。以後、「新版」「最新版」「定本版」と改訂を加え、2007年に『定本 育児の百科(上・中・下)』を出版。
[*3] 松田道雄:まつだ みちお、1908-1998、茨城県生まれ。医師、育児評論家、歴史家。
[*4] 『安楽に死にたい』:松田道雄著、岩波書店、1997年出版。
[*5] 『恋愛なんかやめておけ』:松田道雄著、筑摩書房(のち朝日文庫)、1970年出版。

 「ああ、なんてあなたは美しいのでしょう!」
 「でしょ?」と花は穏やかに答えました。

 「でしょ?」っていうのは、美しいって言われるって分かってて、分かってるから言われても全然何ともないわけです。

「それに、わたくし、日が昇るのといっしょに生まれましたのよ……」
 あまり慎しみ深い性格ではないな、と王子さまはピンときました。けれども、すっかり花に心を奪われてしまいました。

 倫理観だとか価値観でいくと、基本的に「慎み深くないな」っていうのはマイナスの評価なはずなんです。でも、「けれども」っていうところで論理を超えさせてしまう。そういう経験が人にとってどういうものであるのかっていうことも、考えていくのは面白いかもしれません。


コンスエロという女性とサン=テグジュペリ


西川:
 もうちょっとあとで言ってもいいんですけど、サン=テグジュペリの奥さんはコンスエロ・スンシン(1907?-1979)っていう非常にきれいな女性でした。このバラのモデルだって言う人たちが多いです。

画像1

画像2

 いろいろな伝記の中で、サン=テグジュペリ自身が書いた手紙の彼女について書いている箇所が紹介されています。サン=テグジュペリの伝記は僕もいろいろ読みましたが、どれがいいとはちょっと言えませんけどね。
 
 コンスエロも自分で『バラの回想』っていう本を書いています。「バラって、だから私のことよ」っていうことですね。サン=テグジュペリが死んでから、未亡人になったコンスエロが、『バラの回想』を出版しているわけです。「私の回想」なのに「サン=テグジュペリを思い出した」って書いて、さらに『バラの回想』という名前をつけて出版するような人なんですけど。

 顔見たことある人はいます?あーほとんどいないね。非常に華奢な人ですけど、これ結婚式の時の風景の写真、黒い服着てるんですけどね。これ、前の旦那が死んだばっかりでまだ喪に服してるからっていうふうに黒い服着てる人なんです。

画像3

画像4

 伝記に関してはいろいろ調べたらまた面白ことがいっぱい出てきますけど、一個だけ紹介しようと思います。

 サン=テグジュペリとコンスエロはしょっちゅうもう夫婦げんかばっかりしてたと。でもサン=テグジュペリはコンスエロのこと大好きなんですよ。大好きなんやけど、けんかばっかりするんです。で、しょっちゅう別居してる。

 そのコンスエロのために書いた『夜の祈り』[*6]っていうね、「これをね、あなたは夜になったら読みなさい」ってコンスエロに渡した祈りの文章があるんですけど。

[*6] 『夜の祈り』:以下のサイトの論文中にそれぞれ日本語訳あり。① https://onl.tw/17KDEMj(PDFダウンロード)
(出典:J.Huguet, Saint-Exupéry, ou l'enseignement du Dieu. p.70)
② https://core.ac.uk/download/pdf/286930112.pdf(PDFダウンロード)
(出典:Clément Borgal, Saint-Exupéry, mystique sans la foi, Edition du centurion.pp.62-63.)

 読みますね。これはサン=グジュペリがコンスエロに読んでほしいわけですよ。


 神様、私は大それたお願いをしようとは思いません。ただ、ありのままの私を御手に委ねます。私は小さなことでは傲慢に見えますが、大きなことでは謙虚な女です。小さなことについてはわがままに見えますが、大きなことについてはすべてを、命を捧げることもいといません。小さなことでは、私の心はしばしば汚れているように見えますが、私は清らかな生活を送っていなければ幸せになれません。
 神様、私をいつも私の夫の目に映るままの女にしてください。
神様、神様、私の夫をお救いください。彼は、私を本当に愛していますし、彼なしでは私は天涯孤独になってしまいますから。でも神様、どうか二人のうち彼のほうが先に死ぬようにしてください。なぜなら、彼はとても強そうに見えますが、私が家の中で物音一つ立てずにいるとひどく心配するからです。
 神様、何よりも彼に心配させないでください。どうか私がいつも家の中で音を立てるようにしてください。たとえ私が時々何か壊すようなことがあっても構いませんから。私が貞淑な妻になり、夫は軽蔑している人たちや夫を憎んでいる人たちと付き合わずにいられるよう御助けください。
神様、私たちの家をお護りください。
アーメン。

 サン=テグジュペリはこれをコンスエロに読めって言うんですよ。分かります?だから、なんかほんとにこうなんというか。サン=テグジュペリは一度しか結婚してないんですけど、その前に二十歳ぐらいの時に、やっぱりコンスエロとよく似た感じの女の人と恋に落ちてるんです。

 その人にも振られまくってたみたいで、何て言うかな、恋愛ではうまくいかずにしょっちゅう傷ついてた人なんです。でも、サン=テグジュペリもめっちゃ勝手な男で、金はもう浪費家だし。一方でコンスエロも命知らずの飛行機乗りの妻だし、彼女も浪費家なんですよ。

 金遣いのことでお互いけんかしたりするんです。しかも、両方とも、どちらかと言うと浮気もんで、お互いが全然気に食わん人間を寄せてはどんちゃん騒ぎをする。だからしまいに別居して、別居したところでどんちゃん騒ぎしまくってる。あー…、って感じの夫婦なんです。

 まあだから、このバラをコンスエロと思って読んでもあんまり面白くないんです。何て言うかな、「慎しみ深い性格ではないな、とピンときて」も、「けれどもすっかり花に心を奪われてしまいました」と来るし。このあともまあ言うてみたらね。

 花と王子との付き合いっていうのは、この章だけなんです。いくら読んでみても、何でこのバラに、ずっと責任を感じて、王子は命を賭けてまで戻る必要があるのかっていうのは、通常ではやっぱり説明しにくいです。そこらへんが面白いところかもしれないですけど。


バラとコンスエロ

西川:
 じゃあちょっと読んでもらいましょうか。僕おにぎり一個食べるんで。

A:50ページからね。

 そんなわけで、心配性で空威張りの花のために、王子さまはすぐに心を悩ますことになったのです。

西川:え⁉、「心配性で」ってなってます?

A:「心配性で」ですね。

西川:あら僕のは「気むずかしく」ってなってるわ。それ何版?

A:6版です。

西川:6刷り?へえー。翻訳が変わってるな。すごいな。真面目な人だ。僕のは5刷りです。5刷りは「気むずかしくて、見栄っ張りな花のために」ってなってる。「気むずかしい」が、「心配性で」に変わってる。

A:

ある日などは、自分の茎についた四つのトゲのことを話に出すと、花は王子さまにこう言いました。
 「来てもいいですわ、トラが、鋭い爪を立てて」

画像5

西川:ええ? 全然違うな!

A:何が違います?

西川:「来ることだってありますからね」ってなってる。

A:この章だけ何かだいぶ違う言い方ですね。

 「ぼくの星には、トラなんかいませんよ」と王子さまは言い返しました。「それにですよ、トラは草なんか食べません」
 「わたくし、草なんかじゃありませんことよ」と花は落ち着き払って応じました。
 「申しわけありません……」
 「トラなんかちっとも怖くありませんわ。でも、こんなに風があるのはいやになってしまう。衝立はありませんこと?」
 「風があるのがいやになるって……。植物のくせに、困ったものだ」と王子さまは思いました。「なんだか厄介な花だなあ……」
 「夜は、ガラスの覆いをわたくしの上にかけてくださらなければね。あなたの星はとても寒いんですもの。吹きさらしも同じだわ。わたくしの故郷の星は……」

画像6

 そう言いかけて、花は口をつぐみました。王子さまの星にやって来たときには、花はまだ種でした。王子さまの星以外の星については、なにも知るはずがないのでした。ついうっかり、つまらない嘘をつきそうになった自分を見られて、花は恥ずかしくなりました。これも、あなたのせいよ、と王子さまに言わんばかりに花は二度、三度と咳をしました。
 「衝立はどうなりましたの?……」
 「衝立を取りにいこうと思ったんですけど、まだ、お話が途中でしたから」
 それでもなお、悪いのは王子さまのほうだと、無理やり王子さまに思いこませようとして、花はしきりに咳をしました。

西川:
 はい、ありがとうございます。「吹きさらし」も、「あなたの星はとても寒いんですもの。吹きさらしも同じだわ」っていうところも、これはGくんに教えてもらったんですけど、1刷りでは「星の場所が悪いんでね」ってなってるんです。

 稲垣さんってすごいね。版を変えるんじゃなくって、刷り直しのときでもなんか手入れてる。何とか収まるように。へえー。

 さて、これトラに見えますか? ここらへんはまあ、またあとで話が出てくるかもしれませんけど。こういう虚言っていうか、話を誇張してっていうか、まあバラはホラ吹いてるわけです。

 コンスエロ自身も、自分の生年月日を、ずっと違うようにばっかり言っています。えっと、サン=テグジュペリは1900年生まれですけど、「私は1902年生まれ」とかって言ってたのが、実は1898年だった、とかね。それで結局墓碑銘には1907年生まれになってます。ころころ変わるんです。

 それと、コンスエロはアルゼンチンの人なんです。フランスの貴族が外人と結婚してる。もともと没落貴族は裕福なその資本家の娘なんかと政略結婚して何とか貴族の体面を守るっていうのが、まあ19世紀末から20世紀の初頭のフランス人貴族の生き方ではあったんです。

 サン=テグジュペリは全然言うこと聞かないでコンスエロと結婚するんですね。それで、コンスエロはめっちゃくちゃ魅力的な人だったみたいで、最初は17歳の時、グァテマラの54歳の流行作家のめちゃくちゃ金持ち――流行作家兼アルゼンチンからパリのなんか外交官にまでなった人なんです――と結婚します。で、夫はあっと言う間に死んじゃうんです。で、莫大な遺産を手に入れるっていうような人です。

 サン=テグジュペリと別居した時にも、まあ、まあ言ってみたらものすごい有名な画家のダリとか、そういう超有名人が彼女のところにひっきりなしに訪れています。

 みんながコンスエロについていろんな文章を書いてるくらい、非常に魅力的な人だったんです。ただ、サン=テグジュペリが望んでいたのはそういうきらびやかな人ではなくて、自分の家を守ってくれるような、そういう女性像をこう描いてるわけです。だから、なかなかそういうのがまあ一致しなかったっていうこともあるんかもしれません。

 ここなんかは、コンスエロが読めば、「これ私のことを言ってる」ってもうすぐ分かるような内容なんです。「咳をする」っていうのも、コンスエロ自身が喘息だった。しょっちゅう喘息起こして、夫婦げんかしてるときも喘息で咳き込んでしまって、サン=テグジュペリがやいやい言ってたのを収めなしゃあないみたいになる。

画像7


どうやって愛してあげればよいか


西川:

 花のことが好きになっていたので、なんでもなるべくよいほうに取ろうとする王子さまではありましたが、こんなことが重なるうちに、やがて、とんでもない花かもしれない、と思いはじめました。取るに足らない言葉を深刻に受けとめ、王子さまはたいそうみじめな気持ちになっていきました。
 「花の言うことなんかに、耳を貸さなければよかったんだ」と、ある日、王子さまはぼくに本音を言いました。「花の言うことなんか聞いちゃいけないんだ。花は姿をながめて、匂いをかぐのがいいんだよ。ぼくの花はぼくの星を、かぐわしい匂いでいっぱいにしてくれた。でも、ぼくはそれをどうやって楽しんだらいいか分からなかった。あのトラの爪の話だって、ぼくはひどくいらいらしてしまったけれども、ほんとうは、かわいそうだと思わなければいけなかったんだ……」
 王子さまはぼくに、さらにこんな打ち明け話をしてくれました。
 「あのころ、ぼくはなにも分からなかったんだよ。花がぼくになにを言ったか、ではなくて、花がぼくになにをしてくれたか。それを考えて、花が大切かどうか、決めなければいけなかったんだ。花はぼくをかぐわしい匂いで包んでくれた。ぼくを明るく照らしてくれた。ぼくは逃げだしてはいけなかったんだ。かわいそうに、花はあれこれずるい言い方をしたけれども、そんなずるい言い方の裏に、花のやさしい心がちゃんとある、そうぼくは分かってあげなくてはいけなかったんだ。花の気持ちというのは、ちぐはぐなことばかりなんだ。でも、ぼくはまだ経験が足りなかったんだよ。だから、どうやって花を愛してあげたらいいか、分からなかったんだ」

 僕は個人的に三度も離婚をしてますので、「花の言うことなんか聞いちゃいけなかったんだ」ってセリフが目に入ると、「うーん、うーん、うん、確かになあ」とか思うことあるんです。

 「あんたなんか最低な男よ」とかいっぱいまあ…。あれ、言われへんかったかな。言われたかもしれないね。でも結局、別れる別れない、離婚届け出す出さないとかっていうのは、言葉の世界です。言葉のやり取りの世界です。

 言葉対言葉の戦いになるわけですけれども、そうなると、相手の揚げ足取りばっかりになってしまう。「相手がしてくれたことを考えればよかったんだ」も「相手がしたこともひどかったら、そしたらどうなの?」っていう感じもあるんだけど。でも、言葉にしてしまうと一つの言い方しかできなくなってしまう。

花はあれこれずるい言い方をしたけれども、そんなずるい言い方の裏に、花のやさしい心がちゃんとある。そうぼくは分かってあげなくてはいけなかったんだ。

 ずるい言い方してますし、自分を傷つけるような言い方してるわけです。だから言葉をそのまま理解すれば、もうそれ以外に理解のしようがない。ずるい言い方だし、傷つけるような言い方してるわけです。でもその裏に、「ほんとはやさしい心が」「分かってあげなきゃいけない」っていうか。

 だから「普通なら言葉に乗せられているであろうメッセージとは違うように、彼女にいいように僕が解釈し直さなきゃいけないんだ」みたいなことが書いてあるんです。これってなかなか、「どうかなあ、できるかなあ」みたいなこともあります。

 結局、「経験が足りなかったから、だからどうやって花を愛してあげたらいいかわからなかったんだ」「どうやって愛したらいいか、どうやって花を愛してあげたらいいか、わからなかったんだ」ってあります。

 経験が教えてくれることって、どんなことがあるんでしょう?僕なんかいまだに「まだ経験が多少足りないので、よく分からない」みたいな感じするんですけどね。経験によって、愛するっていうことの意味が変わるのか変わらないのか。これはもう自分の問題としていろいろ考えてみたらいいと思うんです。


愛の理由は愛そのもの


西川:
 この本を読んでて、サン=テグジュペリの言葉で僕が非常に気になったやつがあります。この本の中では別に何も強調されてないんですけどね。

 えーと、「1938年から死ぬまでの6年間、彼はコンスエロを愛さずにはいられないと何度も強調した」と。だから、1938年から6年間別居したままなんですよ。手紙で「サン=テグジュペリは彼女にこう語りかけている」わけです。

 「コンスエロ、今夜僕は君に恋文を書く。なぜなら、これほど傷つき、君に無視され、頑なに閉ざされた君の魂の窓に僕の叫びが遮られても、僕はどうしようもないほど君が恋しい。君の中には僕の愛する誰かがいて、4月のクローバーのように初々しい喜びに輝いている」
 手紙の中で彼はしばしばコンスエロの冷淡さを非難するが、自分の責任も認めている。

 まあここらへんはどうでもいいですけど。

 「君が僕を愛さなくっちゃならない理由を聞かれたら、僕は困ってしまう」

 「冷たいね」って言ってるわけですよね。「だからもっと僕のこと愛して」って言ってるわけです。でもコンスエロから「なんであなたを愛さなあかんの」みたいなことを、理由を聞かれたら「僕」は困ってしまう。

 「そんな理由は一つもないのだから」

 「だから自分も悪いわな、確かに身勝手やしな」と。「心配だからやめて」っていうのをほったらかして、アフリカまでピューッて飛行機で、当時はいつ落ちてもいいようなそういうヤクザな仕事をするわけですからね。

 しかもサン=テグジュペリは、女性との色事もそれなりにあったわけです。コンスエロもやきもち焼いて「取られるんじゃないか」みたいなことしょっちゅう思ってるわけですよ。

 だからコンスエロも派手な浮名を流すかのようにして、まあサン=テグジュペリも国民的に有名になってたんですけれども、それと肩並べるぐらいの有名人といくらでもこう仲良くするわけです。

 それで夜中二時なっても三時なっても帰ってこない。「朝方まで一人で待ってる僕はどんだけつらいんだー」みたいな手紙を、わずか何メーターしか離れてないところに別居中のコンスエロにばんばんばんばん出すわけです。 で、ここがすごいよね。

「君が僕を愛さなくちゃならない理由を聞かれたら僕は困ってしまう。そんな理由は一つもないのだから。愛の理由は愛そのものなのだ」

 分かるような、分からんようなでしょ。

「愛の理由は愛そのものなのだ」

 「何々だから愛する」っていうんであれば、その理由にかなわなくなれば、愛は終わってもいいわけです。たとえば、「彼が私に優しいから私は彼を愛する」だったら、優しくなくなったら、その愛は萎んでもいいわけですね。「彼女が美しいから愛する」だったら、彼女が美しくなくなれば愛さなくてもいいわけです。

 でも、サン=テグジュペリはそんなものは愛じゃないと思ってるわけですね。そうじゃなくって、その「愛の理由は愛そのものだから」と。

 でも、彼は言葉ではこうやって言ってるんですけど、現実生活はそううまくいってないんです。うまくいってなくて、コンスエロに、「何でそんなに冷たい仕打ちばっかり僕にするんだ」みたいなかたちで、冷たさの理由を何度も何度も聞くわけ。そして、コンスエロは全然相手にしない。

 まあ言ってみたら時々嘘ついてでもごまかしてしまったりとか、嘘がバレそうになったら咳き込んで、喘息発作の真似して、黙らせてしまうみたいな人なわけですけれども。


行動と認識


西川:
 こういう愛情っていうか、愛ていうか。こう「恋愛においてその理由っていうのはもう恋愛そのものや、だから何の根拠もない」みたいなことに、「えー??」って言うかどうかなんでしょうねえ。

 サン=テグジュペリやったかどうかは忘れましたけど「愛は確かめ合うもんじゃなくって、育てるもんだ」っていうような言い方もありますね。

要するにどうしても恋人同士って「ほんとに私のこと愛してるの?」「こうこうしてくれたけど、ほんとに私のこと愛してくれるの?」とか、「ほんとに僕のことが好きなの?」「ほんとにこれから付き合いたいと思ってんの? ほんとなの?」って全部確かめようとするんですよね。

 でも、確かめるときには「だってこれだけの理由があるから」と論理で説明するしか仕方がないんです。<説得>だから。「だって愛してるもん、愛してるから愛してる」って言ったって、それは同語反復で説明になってない。

 でも「育てる」って言ったときには、そういう理由云々じゃなくって、自分たちがそういう育みたい愛っていうものを、お互いがどれだけ協力できるかっていうことにあるわけです。

 「相手が自分のことどう愛してるか」とか、「僕が本当に愛してるのはあの人なんだろうか、それともこの人なんだろうか」って、比較考量するような頭の世界じゃないわけですよ。「育てる」って<行動>なんです。

 一方で「確かめる」のは<認識>です。ついつい認識のレベルで「真実か否か」ってなことを言っちゃうと、やっぱり、相手の言葉に耳傾けるし、真意を探ろうとします。その言葉に秘められた真意を。

 だから言葉とはまったく関係ない「花のしてくれたこと」っていうような、花の行為、振る舞いに、「そこに本当の姿はあるんだ」と。そして「彼女と自分と共に何を育んできたのか」って。「いうようなところにこそ目を向けるべきなんだろう」みたいなことが、たぶんここには書いてあるんでしょうかねぇ。


論理的モラハラ?


西川:
 ただ、実際のコンスエロとサン=テグジュペリがそういう関係を望んでいても、なかなかそうはいかなかったから、これだけ思索が深まったとも言えるんです。

 ここのところは、僕、しばらくの間ものすごーく痛くて痛くて、もう読むのが大変やったところだったんです。でも、歳月が経つと案外こんな説明口調になっちゃうところがありますね。

 みなさんどうでしょうか?今日のところは個人的なことに触れちゃいそうな内容ではあるんですが。みんな歳も違うし、いろんな今までの経歴っていうか、そういう恋愛事情もいろいろ様々でしょうし、「これから恋がしたい」と思ってる人もいるかもしれないし。

 ここに書かれてあることを別に、テーゼにする必要もないし、鵜呑みにする必要もないんだけど、こういうのを読んで、自分が感じたことみたいなの、ちょっと話してもらったらどうかなと思います。

 東京大学東洋文化研究所[*7]の先生で、『誰が星の王子さまを殺したのか』[*8]っていう本書いた人がいるんですけど、これは王子はモラハラで自殺に追い込まれたっていう説を一冊の本にしてます。

 確かにそうとも読めます。バラは嫌われるようなことしといて、ほんで嫌ったら「あなたのせいよ。あなたは私を捨てるのね」みたいな感じで、どんどんどんどん王子を追い詰めていく。

 最初にとんでもない女(バラ)にひっかかってしまった後、キツネに「なじみになるっていうことは」とか、「儚い」という言葉を知ってから「なじみになるってことは、最後まで責任を持つことだ」とかって来られて、どんどんどんどん真面目な王子は、結局死を選ばざるを得なくなってしまったんだ、と。

 これは非常に論理的です。あんまりもう一度読み直そうとは思えない本ですけど、でも、そういうふうにも読めるところです。

[*7] 東京大学東洋文化研究所:東京大学の附置研究所で、主に人文・社会科学の研究者が所属し、アジア地域の文学、歴史、社会、政治、経済などの研究・教育を行っている。
[*8] 『誰が星の王子さまを殺したのか-モラルハラスメントの罠-』:安富歩著、明石書店、2014年出版。

 まあ20世紀の半ばに書かれた本ですから、サン=テグジュペリの女性観っていうのはもう19世紀の貴族、フランス貴族の女性観ですからね。確かに、どちらかと言うと、彼は後半生で徐々に変わっていくわけですけれども、それでも今みたいな男女関係の倫理っていうのはまるでない時代の人です。

 まあそこらへんは世代によって読み方は全然違うんじゃないかなと僕は思ってます。うん。「ただこう眺めて、匂いを嗅いでればいいんだ」って、これを女性に対するその見方としてたら、フェミニストの人たち絶対怒りますよね。「ふざけんな」みたいな感じでね。だからいろんな意見が出てくると思いますんで。ね。ぼちぼちやっていきましょうか。


愛の追い込み?


西川:
 じゃあ、Hさん。もうしばらくおれへんようになるんねやから、ここで今日はちょっと一大恋愛論を語ってもらうということで。あなたの人生で今までバラはいましたか?

H:バラねえ。いやあ、でも、これ読んでると男が王子さまで、女性がバラでみたいな感じですけど、

西川:今はそうじゃない?

H:いや今はそうじゃないっていうか、昔から普通にいたんじゃないですか?「バラ的な男性」って。女のほうがどうしても好きになってしまうような男性のほうが、僕はなんかアイドルとか、アイドルって言ったらちょっと違いますけど、高校とかで同学年を観察したうえで言うと。

西川:「どうしても愛してしまう」って。どんな男が? 

H:どう…、いや、わかんないですね。そもそも、僕は「バラだけがしゃべれるんかい」ってちょっと思ったのもあって。「バオバブにしゃべらせんかい」っていうか。

西川:ちっちゃな花は何も言えわなかったんかって。

H:うん。「なんやねん」っていうところもあるんですけど、僕は。

西川:
 コンスエロはめっちゃおしゃべりな人で、もうしゃべり出したら止まらなくて、夜中執筆中のサン=テグジュペリのところに来ては、べらべらべらべらーってしゃべるんですって。それでもう書けなくなっちゃう。で、もういらいらしてる。

 いらいらしたら夫婦げんかするでしょ?夫婦げんかしたら落ち込んで、一週間も二週間もこう執筆に手がつかない。憂鬱症みたいにがーんと落ち込んでしまう。でも、コンスエロはそんなこと全然気にせずキャッキャッキャッキャーッてやってるっていう、話ですね。

 「この人は僕の好きな、好きっていうか尊敬できるタイプじゃないな。けれども心を奪われる」とかっていうのは、あります?

H:いやあー。うーん。いや、どうなんでしょう?逆にそれしかないと思うんです。

西川:常に心奪われっぱなし?

H:いや、なんか「こういう人が自分にとって可愛いな」みたいな人がおったとしても、「ああ、可愛いな」って確認するみたいな。心奪われるってもっとなんか、「嘘やろ?」みたいな感じなんじゃないかなと。

西川:まだ奪われたことないの?

H:まだ奪われたことないです。度肝を抜かれたことないです。

西川:度肝。「肝抜かれる」。そうかそうか。

H:最後の王子のセリフとかも「もうなんか、こう言わざるを得んかったんかなあ」みたいな。

西川:「どうやって花を愛してあげたらいいのか分からなかったんだ」って、あなたならもしこんなこと言われたら、なんかアドバイスできますか? 「それはね」って。「僕の経験から言うとね」って。

H:僕の経験から言うと…、いやー。

西川:Hさんにとって、ここの章、ここで書かれてる話はどうですか?僕なんかはもうぐーっときて、しばらくこう「痛っ」って感じだったんですけど。別にそんなことはない?さらっと読めた?

H:さらっと読んではないですけど。うーん。なんかさっきみたいに「何でバオバブに話させへんねん」みたいな、サン=テグジュペリに対する怒りもあるし、こうなんか、「ずるい言い方の裏にこのやさしい心がちゃんとある」って書いてあるんですけど、たぶんそう思わんと、もう心がばっきし折れる、ってあるんやろなって、星の王子さま。

西川:そうでしょうね。

H:でもそれほど惹かれてるっていうか、そういうところには同情するというか、共感するなあと思うし。うーん。

西川:ばきって折れちゃうからね。

H:だからある種、無理やりそうやって考えてると思う、僕は。

西川:だから「モラハラ」なんでしょうね。そんなところに追い込んでるって。これは愛の真実を見つけたわけでも何でもないって。バラとキツネにこうやって追い込まれる、序章の始まりみたいなふうに読むこともできるっていう。現代的な読み方だとどっちらかと言ったらそっちのほうが正しいかもしれない。っていうか、多くの人の賛同を得るんじゃないかなと思いますけどね。えーと、どうですか? 

L:私ですか?いやー、改めて今日読んでて、えっとー、なんかバラの気持ちが私は分かるんですよね。なんか、しがちです、こういうこと、やっぱ。なんかそれは、うんと、きっと愛してくれてるとか好きなんだろうって分かってるんだけど、もっと確かめたいっていう気持ちもすごくあって。で、そういう意味ではバラは弱い、と思うんですね。

西川:そうだね、「こんなふうに言ってもまだ私のこと愛してくれるの?」っていうことやから、ねえ。

L:なんか確かめたくってね。


僕のもの、あなたのもの


西川:そちら、どうでしょう?

E:
 私ももう四十過ぎてるんで。いや若い頃とかはまた違うし、今結婚したばっかりっていうのもあって。私、クラシックやってたんで、芸術家の恋の話とかもよく聞くし、その頃の男性と女性でおなじくらい、マーラー[*9]とかの恋愛事情とかもよく聞いてて。

 私も若い頃は恋愛とかしたら、なんかその人のこと、ガーッて好きになって。好きになってある程度までいったら、やっぱりなんかあるじゃないですか。でそのあともずーっと、もう別れたけど、ずーっとその人と一緒に今まで来てたらすっごい大変やったやろうなあ、みたいなのもあるし。

 だから今は、その人のことはまあ無しで、新しい人と結婚したんで。で、今は穏やかな恋愛してるし、みたいな。いろいろ考えられますね。

 今はなんか言葉とかで言わなくても分かるし、いちいち言葉で確かめようとか思わないし、安心感があるんですけど。若い頃はたぶんそうじゃなかったかな、とか。で、でも今でもなんか、今でも結婚したばっかりやけど、前から知ってた人やけど新たな発見もすごいあるんで。

[*9] マーラー:グスタフ・マーラー、Gustav Mahler、1860-1911、主にウィーンで活躍した作曲家、指揮者。交響曲と歌曲の大家として知られる。

西川:そうだよなあ。

E:
 で、「ああこんな人やったんや」って意外に思って、なんか「え?」って思うところもあるけど、でも案外、やっぱ大人になったからか、嫌いにはならないっていうところはあるんです。

 うん、だから、「こうしてほしい」ばっかりじゃなくって、「あ、こうしてくれてるんやな」っていう考え方に変わってるんやな、とか、なんかそういうことを考えました。はい。

西川:何て言うかな、結婚っていうのは恋愛とはまた違ったものがあると思うんです。別にこれバラと結婚してるわけじゃないですから。でも、あの53ページのところ、まあ恋愛なんかでも、恋愛の絶頂期というか、もう二人の世界になってしまうと、「ぼくの花はぼくの星を、かぐわしい匂いでいっぱいにしてくれた」とかって、「ぼくの」って言うんですよ。「僕の妻は」とかね、「私の夫は」とかって、「私の」になっちゃう。こうなってくると、自分のものなのに自分の思い通りにならなかったらね、やっぱり腹が立つ。

E:うん。そうやと思う。

西川:
 他人だったら、思い通りにならないのは仕方ないって、大人の世界だったら余計分かります。でも、こうやって「僕たち二人は」って、こうお互い「ちゃんと一緒だよね」「お互いが一番好きなんだよね」みたいなかたちで、自他の区別をなくして「僕たち」とか「私たち」っていうものを一体化しようとすると、相手の違いがその自分に対する裏切りっていうか、自分に対してだけじゃなくて二人に、二人の恋愛に対する、愛に対する裏切りのように思えてくる。

 僕はなんか古いタイプの人間だから、結婚したら妻を呼び捨てにするわけですよ。でも僕の知り合いの夫婦で、お互いを、さん付けで呼ぶ人らがいます。彼の名前は豊平ですけど、「豊平さん」「森さん」とかってね、結婚する前の姓で呼び合うんですよね。

 二人とも全然自分の思い通りにならないっていうか、しょっちゅう意見食い違ってるんですよ。でもお互いが冷静に聞いてるんですよ。で仲ええんかいな?悪いんかいな?」ってぐらいに思うぐらいなんだけど、でも「ああいうふうにできるかなあ」と。

 ちょっとだけ呼び捨てにするのをやめて、「何々さん」って言うだけで、やっぱりなんか変わってくるですね。言うことは変わってくるんですよ。

E:最近ニュースでセクハラのこととか、TOKIOの山口くん[*10]のこととか、女子高生にわいせつ行為したとか、いうニュースを一緒に見ててすっごい議論してるんですけど。なんかそういう議論してても、考え方が男と女で全然違うんです。でも「あー、こんな考えあるんや」とか、議論しながら歩み寄ってます。

[*10] TOKIOの山口くん : 山口達也(やまぐち たつや)、ジャニーズ事務所のバンド・TOKIOのメンバーとして在籍していた、元歌手、タレント。2018年2月に女子高生に対して強制わいせつを行った容疑で書類送検されたことが報道され、同年5月脱退、契約解除。

西川:
 うん、っていうか、まあ違いは違いのままで認められるような関係なのか、一気にそれが「ぼくの花は」「ぼくの星を」みたいなことやっちゃうと、何て言うかな、やっぱり逃げ出したくなるっていうか。自分の思い通りにならないっていうか。

 僕がかえって裏切ってる、傷つけてるって思うとね。これは単純に経験が、そういうふうな「本来、人と人とは一体にはなれないんだ」という痛い思いを何度も何度も繰り返していくうちに、何て言うかな、実現不可能な夢は見なくなるっていうことが経験なのかね。

 「ぼくには経験が足りなかったんだ」の経験ってどんな経験なのかっていうことを考えてみたら面白いかもしれませんけどね。


関係の非対称性


G:
 今回、自分の話にあんまりすぐに結びつかないんですが。これ今日読んでてちょっと思ったのは、この花、花だからこうね、根っこがあって、ね、動けないんですよね。

 で最初は「どっか他のところから来た」みたいなことをなんか、嘘ついて言ったりとかするけど、ほんとは全然他の世界のことも知らないし。王子さまが行ったあとも、なんか「行っても大丈夫だ」って、なんか強がりを言ってるけど、なんか他のところ行けるわけじゃないんですよね。

 そこがなんか、僕は女性っていうものをそういうふうにあんまり見ないなあと思うんですね、恋愛対象にするときとかにも。僕がいなくなっても、その人はその人でなんかちゃんとやって、今までも来ただろうし、僕がいなくなっても、いくだろうなあみたいな感じを思いますね、女性に対してね。

 付き合ってると確かに、いろいろなかたちで依存関係が生まれるような気はするけど、これはなんか最初からこう根を張ってってところから始まってて、王子さまがいなくなったあともなんか、根っこ張ったままでこれ動けないわけですよね。

 そういうかたちで、女性というか恋愛対象になる人を見るっていう人間観がちょっと、うーん、僕にないなあとは、とかは思いましたかね。うん。うーん、そんなようなとこかな。

 僕の経験だと失敗経験が多いものでね、あんまり自分に自己肯定感ってのがなかなか持てないわけですよね。だから、僕「こういう人がいい」みたいな要求をした、するときかな、あるいは誰かを選んで、告白して本人からオッケーもらえるみたいなイメージも全然持てないんです。

 だから、逆に向こうがすごく受け止めてくれるというかな、認めてくれるとね、ものすごく嬉しくなるんですけど。僕、今まで付き合った経験があるって人は、何かこうね、うーん、何て言うかな、軽い気持ちで僕に声、なんかまあどちらかっつうと向こうから声かけてきたんですね。

 だから僕はもうそれがものすごく嬉しかったから、一方的にもう条件なしでもう僕を認めてもらうことみたいなことをその人に求めてたから、その人に対して僕が何かしてあげるって全然考えてなくて、ほとんど道具扱いしてしまったなあと、今はすごくひどいことをしたなと思ってますが。

 ここでもね、なんか王子さまが、「花が何を、僕に何をしてくれたか」っていうことを言ってるけど、これも何て言うのかな、世話をさせてくれただとか覆いをつけさせてくれただとか、そういうようなことをなんか王子さまは想定してるのかなと、あとで思いました。

 何してくれたかって、たぶんここに書いてないようなことがいろいろと花はしてくれたんだろうなって、ちょっと想像をしてたんですけど。まああとのほうでね、こうね、「たくさんのバラがいるけど、バラの花と僕の花は違う」と、「僕が覆いをかけたり虫を取ってあげたりしたバラなんだから」、みたいなこと書いてあって。

西川:そうそう。

G:
 やっぱりね、花が何かを結果的に「してくれた」っていうよりは、僕が覆いをかけてあげたこと、世話をしてあげたっていうのを、「そういうことをさせてくれた」っていうことなんじゃないかなあと思った。うん。

 だから、やっぱりこう入り口じゃなくてね、関係性の中でね、かけがえのなさっていうのができてくるからいいと思うんですけど、ただやっぱり入り口のイメージが僕は全然持てませんね。

 こう、最初からこれなんか、根を張ってるところから「なんて君は素敵なんだ」って言ってるから、順番的にね、付き合ってから根を張るんだったら分かるんですけど、根を張ってたら、他の男のとこ行けないじゃないですか。

 そこでこう「なんて素敵なんだ」って言ってるのはある意味かなり、ねえ、王子さまのほうがね脅迫に近いところもありますよね。こう逃げられなくて他に行けない状態だしね、なんてことをね、思いましたですね。うん。

西川:
 なるほどな。まあバラ――バラってここでは言ってませんけど――が弱いっていうことはじっくり読めば、もちろん分かってくるんですよね。だって水はかけてあげなきゃいけませんし、風除けに覆いをしてあげなくちゃいけない。

 要するにバラは虚勢を張ってるです。「トラなんか怖くありませんわ」って虚勢を張ってるんですけど、虚勢って感じるのはほんとは弱いって僕らに分かるからでしょ?

 「こんなんでトラと勝てるわけないやん」っていうふうに、弱さは分かるわけ。でも、その虚勢を張ってるってのが自らの弱さを隠蔽してるだけかと思うと、今度は違って「風はだめですわ」みたいな。「ちゃんとあなた面倒見て」みたいな感じで、もうほんっとにやりにくい女の人やと思い…、女じゃなくて、花やと思いますよ。

 ものすごく強気っていうか「がんばります!」みたいな感じで弱みを見せない、虚勢とは言わずにね、弱みを見せないしんぼうづよい人やったらそれはそれで、「まあしんぼうしてるんやろな」って思いながらやれるんですけどね。

 「それぐらいしんぼうせえよ」っていうことを「私できませんわ」みたいなだったりだとか、ちょっと気にくわんかったら咳きこんで、みたいなことをするわけでしょ?

 だから虚勢と、そういうふうに圧倒的な弱さを見せて、相手を「世話せざるをえない」ようなところに持っていかすっていう。この二つをこう交互っていうか、もうパンパンパンパンやるわけですよね。

 でもこれ、そういうこう「水をかけてあげなきゃしかたがない」っていうのは、相手が花やからですよ。だからそういう意味では、立場関係が全然対等じゃないですよね。

 対等でないときに、できるだけ対等にするために、弱い人が取る戦略っていうのは何なのか。弱いっていうことだけをそのまんま「ありがとうございます」って言ってたら、もうずっと、こう何て言うかな、ただ面倒見てもらうだけじゃないですか。

 そうじゃなくて、「私トラなんか怖くなんかありませんわ」って言う。それで「草なんか食べません」「私、草じゃありません」みたいな感じでこうやり返すっていうのは、本当は自分も、王子の世話にならなければ花を咲かせ続けることはできないっていう弱者の立場にいながら、その星の主人である王子とできるだけ均衡関係に持っていこうとしてる弱者の側の戦略でもあるわけです。

 でも片一方で、王子はその相手の美しさにもう完璧に心を奪われてしまって、気にくわんことでも「何とかええようにええように解釈しなければ」と考えている。で、いまだにそれが続いてるわけですよね。だから、この本の中ではずーっと続く。

 まあ、これはケアなんかの場面でも恐らくそうなんですよ。できるできないっていうところで、確実に対等では絶対にないんです。対等では絶対ないところで、関係をどんなふうにして均衡を取るのがいいのか。ま、どうすればいいのかはちょっと分かりませんけれども。

 ただ、そういったことを意識せずに、「弱い人は弱さを素直に認めなさい」「僕たちはちゃんと弱いことに関してはそれを責めたりはしない。援助しますよ」みたいな、何て言うかな、パターナリズム[*11]的な、「面倒見てあげます」っていうタイプの倫理観で、「弱くてもいいよ。弱いままでいいんです、あなたは」「あなたができないことは私たちがします」っていうようなやり方もあるし、「ちょっと何やおまえ、その介助の仕方!」みたいなケアされる側に対して「じゃあ誰かにやってもらえば?今、僕しかいないでしょ!」みたいなかたちでやるのか。

 でも、そういう「じゃあ僕が嫌なら誰かにやってもらったら?」とかって、それで帰っちゃったら、その場を立ち去ってしまったら、もうこれどうしようもないわけです。もともとある、その対等でない関係が、そこに固定されてしまう。

[*11] パターナリズム:paternalism、強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援することをいう。日本語では家族主義、温情主義、父権主義、家父長制などと訳される。

 だから彼は「逃げちゃいけなかったんだ」って言い方をしてるわけです。「ぼくは逃げだしてはいけなかったんだ」と。だから「逃げ出したから、かわいそうなことをした」っていう言い方になってくるんです。

 そういう世話をするもの、ここでは王子を、強いものにしていいのかどうかもありますけどね。ここね、僕もよく正解が分かんない。どうですか?


恋は終わる。では、無駄なのか?

F:
 はい、ちょっと今回初めて読んで、みなさんの話を聞いてて、まあ、花が女性だというのであれば、あまり性格のいい人ではないなと。それやったらほっといていいと思うんですけど。

 僕もそんなたいした恋愛はしてないですけど、王子さまの気持ちは分からんでもないなっていうのがあって。まあ可愛いからとか、愛しいからっていうか、まあちょっとわがまま言われても、向こうから言ってくれるんであれば、まあ聞いてやろうかっていうような。

西川:「僕にだけ言うんだよ、ああいうわがままは」とかね。

F:
 そうそう、そう思ってしまって。「他の人には言わへんけど、僕には言うてくれるんやな。じゃあ、じゃあちょっとやってやろうか」っていうのは、なんか分からんでもないな。

 嫌な部分が9割で、可愛い部分が1割でも、その1割自分に頼ってくれるっていうのであれば、「やってやろうか」っていうのは分からんでもないなっていうのはあって。でも、好きやからその関係性を自分からは断ち切れないジレンマというか、ね。サン=テグジュペリにしてもずっとそうやったんかもしれんと。うん。だから気持ちは分からんでもないなっていうのは。はい。

西川:はい、ありがとうございました。どうですか?

M:いやあー。

西川:バラみたいな人を好きになってしまったら、大変なことになりそう?

M:なりそうですね(笑)。

西川:でも恋は心を奪われちゃうんだからね。事故みたいなもんですから。最初はバオバブの芽かなと思ってたんです。じーっと見てんのは「可愛い芽がでるぞ」と思いたんじゃないですよ。最初はこれ「なんだ怪しいやつだ」と思ってるんですもん。それが気がついたら「はあー」とかなってるわけです。うん。

E:なんか女性って強くないとあかんなと思うんですけど。実際は男性のほうが強いんやろうけど、でも何て言うかな、でもやっぱり女性が強いほうがいいとも思うんですよ。で、なんかセクハラ事件とかよくあるけど、やっぱ女性は強く訴えようとするし、うん、まあなんか言葉も強く言えるかなあとかいうことも考えたり。でもなんか女性強いほうが、私は楽に生きていけるけど、強いだけではあかんなあとか。

西川:なるほどねえ。これなんか結構バラのすごい性的な魅力でもって、王子にハラスメントしてるとも読めるんですよね。うん。

E:男性ってたぶん弱いんちゃうかなあとか思って。

西川:
 僕の師匠の植島先生[*12]が「恋は必ず終わります」っていってます。言ってみたら、こういうやりとりなわけでしょ? 確かめたりとか、疑って、また確かめたりだとか、ほっとしたりだとか、わくわくしたりだとかって。

 こんなのジェットコースター乗ってるようなもんなんです。自分と相手のことを冷静に見れるようなもんじゃないですよね。次々と展開がある。こう上り詰めるようになったりだとか、どん底に落ち込んだりだとかって、もうほんとに理屈が成り立たない、そういう世界なわけですよ。

 でこれはいつまでも続くわけがない。潰れちゃうもんね。いずれにしても、こんなことやってたって、二人ともか、二人のどちらかがパーンと放り出されて地べたにペタッと落ちるわけですよ。下手したら両方とも落ちる。

 いつまでもいつまでもジェットコースターみたいなことをしながら一生を過ごすってことはなかなかできにくいわけで。恋愛するってものすごいそういう動揺に耐えうるだけのエネルギーが必要なんです。だから「恋は終わる」。

[*12] 植島先生:植島啓司(うえしま けいじ)、1947年東京都生まれ。宗教人類学者、京都造形芸術大学教授。

 で、「それ、無駄や!」っていうのが、歳いってからの松田道雄さんですよ。そんなことよりももっと穏やかな、まあ愛情っていうかな、育てるような、育むような愛情にしたほうがいいって。

 なんやお互いを確かめ合ったりだとかそういう一喜一憂するようなね、確かに感情面でこんなこんななったりするけれども、「そういうんではなしに」って。

 でも、恋愛っていうのは必ずこういう側面があるんですよ。どんな「いい人」だと思ってる人にも、こんな見栄っ張りでっていうことがすぐ分かるような。バラではなくっても。

 王子だって最初はものすごく甲斐甲斐しく世話するのに、「なんだか厄介な花だな」って思ってんですよ。思いながら、そんな素振りは出さずにやってるわけです。で、ある日突然「さよなら」ってなるわけ。

 それはそれで花にとっては「ええー!」みたいな感じですよ。「急に何それ?」「今まで尽くしてくれたの、あれは全部嘘だったの?」みたいなことになるわけで。

 だからサン=テグジュペリはこれを恋愛の話だけにはしないでおこうと思って、このあと、「なじみ」の関係だとか「きずな」を作るだとか「責任」っていう言葉とかで、単純な恋愛的なものではない人とのつながりっていうことを考えようとしたんじゃないのかなあ。

 これ恋愛小説として読んだら、「恋愛っていうのは、だいたいこういうとんでもないことから始まるぜ」みたいなね、ふうにも読めるかなと思うんですけどね。


ロマンチストは迷惑をかける

I:
 先ほど、女性の方があえてそういう言葉を男性にぶつけて、自分のことを好きなのか確かめる部分がある、みたいな話があったんですけど。

 僕が好きなドラマで『世紀末の詩』[*13]っていうのがあります。野島伸司[*14]は、割と90年代あたりで社会的なことを訴えるドラマを作ってて。たとえば、有名なやつだったら『高校教師』[*15]とか。

 『世紀末の詩』で書かれていたのは、「愛とは信じることですらないのかもしれない。疑わないこと」っていうのがあったんですよ。でそれが、割とロマンチックな僕としてはすごく、ぐっとくるもんがあって。「ああ、そうやな。なんかすごいこと言うな」みたいな。

 で、『星の王子さま』読んでても、めちゃめちゃ僕は「ロマンチストなんやな」ってすごく思って。で、この恋愛の感じってなんか、僕はあの、すごく分かるっていうか。

 この章だけ読んだだけできっと判断できないんですけど、まあ破滅的なんやろなと思って。僕も割とそういうのが好きなんで。破滅的やから、だからこういう女性、まあ女性やとしたら、たぶんすごく、こういうふうな言葉をかけられて、逆になんか魅力的に見えてしまうんだと思うんです。

 自分を疑ってくるってことは自分のことが好きなんやっていう反応でもあると、意識的か無意識か分かんないですけど、そういうやり取りの中ですごく好きになってしまうんやなあっていうのを勝手に思ってました。

[*13] 『世紀末の詩』:野島伸司脚本のテレビドラマ、1998年10~12月放映、日本テレビ。出演は竹野内豊、山崎努、坂井真紀ほか。
[*14] 野島伸司:のじま しんじ、1963年新潟県生まれ、日本のテレビドラマ、映画の脚本家。
[*15] 『高校教師』:野島伸司脚本のテレビドラマ、1993年1~3月放映、TBS。主演は真田広之、桜井幸子。

西川:
 恋が破滅的だっていうのは、都々逸かなんかで「恋をしてわが身を焦がす蛍かな」みたいなね。要するに、わが身を焦がすような恋なんですよ。恋っていうのは。いわゆるこう自分の身が焦げるような。「恋い焦がれる」っていうじゃないですか? あの焦がれるって焦げるっていうことですからね。

 エクスタシーっていうこともそうです。エクスタシーって「脱・我」ですから、要するにもう自分なんかどうでもよくなるわけですよ。相手がいなければ生きてる意味がなくなるわけですからね。それぐらいの、自分よりもその相手だけがもう世界で一番意味があって、その自分も相手に愛された時にだけ意味があるんです。

 だから相手からこう振られたら、もう自分は生きてる価値すらなくなるっていう意味で、その誰か、恋愛対象だけが世界の価値も自分の価値も決めてしまうみたいな。恋愛成就するためには今までの自分なんてきれいさっぱりとこう捨てちゃうっていうね。言ってみたら破滅ですよね。っていうのが、まあ恋愛に関するロマン主義としてはそれが一番ですよね。

I:
 だからここに書いてる時、たまに「ぼくの」っていうのが出てくるのも、それはあの、逆じゃないですか?あの結局自分の身を投じていいって思ってるけども、逆に支配的にもしてしまいたくなってるところとか。なんかこうサン=テグジュペリという人間がなんかこう、すごい人間的というかまあ良くも悪くも。

 僕はもっとロマンチストって、なんかもっとこう崇高なもんなんってイメージで、子どもの頃はすごく読んでたんですけど、ちょっと話を聞いてると、なかなかですね。

西川:ロマンチストはやっぱり周りにみんなに迷惑かけまくり。かけまくると思いますよ。

I:そう、そうですよね。そういうことなんだろうなって、今さらそう思いました。すごく困った人でもあるんやろうなって。


命よりも大事にしたいこと


K:
 王子と花の関係で、王子は結構心の揺れが激しいなと。好きになったり、今度は何て言うか「今までが間違ってたんだ」ぐらいの拒絶反応を思い描いたりっていうとこはそう思います。

 それに、もう前提として義務のように「花とくっついている」のが前提にあって、その次に自分の気持ちをそれに寄せなきゃいけないみたいなふうに感じて。何か大変そうだなって思いました。

西川:
 ほんとにそうですよね。最後のコンスエロと夫婦げんかした時には、「もうこんなにコンスエロとうまくいかないなら、もう死んだほうがましだ」って言って、本当に死んじゃったみたいな、ある意味では自殺説みたいなのもあります。

 まあ命を守ろうと思たら、わざわざね、約束を破ってまで出撃回数を増やすことなかったわけですから。死ぬの分かってて行ってるようなところがあるんですよ。しかも何にも攻撃装置のない偵察機で行くわけですから。

 向こうには高射砲もあれば、銃を持ってる敵のやつらがいるところに行くんです。敵地に丸腰で行くんですよ。そんなことをやってるわけですね。

I:それって、それともそれこそコンスエロの気持ちを確かめようとしてたんじゃないんですか?

西川:
 それはどうかなあ。彼はとにかく第一次世界大戦の時に17歳ぐらいなんです。要するに志願兵がもう17歳、18歳でばんばん行ってドイツと戦ってた時期に戦場には行かなかった。というか、自分が行きたいと思った時にはもう戦争終わっちゃってた。

 ほんとだったら行けてる歳なのに行ってないってなったら、「何で行けへんかったんや。どんな手使たんや」みたいなことを言われる機会があったみたいです。彼は自分が兵役を拒否したとか、逃げたって思われるのがすっごく嫌だったらしいですね。

 だから、自分が祖国のために命を捨てることが何ともないっていうようなことをずっと言い続けるわけです。ただ、ナチスにフランスが占領されてからアメリカに亡命するじゃないですか。その時も、フランスから逃げたと思われるのが嫌でしょうがない。

 そうやって苦しみまくってる時に、フランスに残ってる無政府主義者のレオン・ヴェルトに向けて捧げた本がこれでね。それでこれをニューヨークで書き上げて、速攻でフランスに戻って、原隊復帰っていうか軍隊に入って、年齢的には無理って言われてるアメリカの最新式の偵察機に乗る。

 しかも、7回まで許可するっていうようなことを、めちゃくちゃコネ使って――この人有名人だから――本来は乗せてもらえない偵察機に乗るんですけど、さらにその7回までっていう約束も無視して飛び続けるわけ。その末、帰ってこないっていうことになっちゃうんですね。

I:ふーん。何やろ、すごい固執してる。

西川:
 「命を惜しむっていうような男に思われたくない」っていうのは、飛行機乗りの時からそうなんですね。当時就職した航空会社ラテコエール[*16]では、郵便飛行ですけど、新しい航路を開拓するために、もう百何十人っていうパイロットが死んでます。

 だから、飛び立ったら帰ってこれるかどうか分からない。そういう人の嫁には普通なりたくないですよね。だから一回目の、二十歳ぐらいの時の婚約は、飛行機乗りをやめるっていう条件で婚約したんですよ。

 それで地上勤務のセールスマンになるんですけど、「セールスマンなんか嫌い」って女が逃げちゃう。意味が分からん話なんですけど。

 彼が飛行機好きやっていうことも、もちろんありますけどね。だから逃げるために乗ったんではないと思います。うん。もちろん謎ですけど。

[*16] ラテコエール:Latécoère、1917年、フランス・トゥールーズで設立された飛行機会社。

 だから、命に対するものの見方っていうのはちょっと違います。彼は「命よりも大切なものがある」っていう考え方ですから。だから、これをそんなに素直に子どもたちに読ませてええもんかと思いますよ。

 「命よりも大切なことがあるんだよ。それは天皇陛下だ」とかまで言ってた時代があったんだから。命よりも大切なものが何なのかって、そこまでしっかり考えないで、こんなポンと渡したって、本当は分かんないです。

 だから非常に危険な書物でもあると思う。「ロマンチックなきれいな話ですよね」では終わらない。「何で王子は命を懸けてまで戻らなければいけないのか?」「戻るべきそのバラってどういう人なの?どういう存在なの?」ってことを考えないといけない。でも、ここの章だけだったら、どう考えても命を懸けなくちゃいけない花には見えないですよねえ。ねえ。


関係は固定されない


C:まあお世話を花に対してするじゃないですか。花も一応何か「いや別に、あなたなんか」とか言いつつも求めてるじゃないですか?だから、そういう関わりがあるから、十分って言うと語弊があるんだろうけど、まあ幸せじゃないかと、僕はそう思うんですけど。

西川:
 関わりが固定してたらね、それはほとんど変わらないんですけど、「世話をしてくれ」と言ったかと思ったら、「そんな余計な心配なんかしなくていいわ。私はトラなんか怖くないんだから」と言ったり。

 「してちょうだい」って言ったり「いらないわ」とかっていうふうに、常にダブルバインド[*17]を強いるですね。「来て」って言ったら、来た途端に「いらないわ」みたいな感じで相手を混乱させる感じなんですよ。

 この「関わり」は、ある意味で一方を弱者化しないっていうか、上下関係を固定しないという意味では、ひとつ意味はあるんです。でも非常に不安定。非常に不安定なものです。

 でも、恋の駆け引きってそういうものなんです。だから恋は必ず終わるんですよ。必ず終わるようにできてる。でも終わるからだめなのかって言ったら、それ、どうか分かんないですよ。松田道雄は「やめとけ」って言いましたけどね。いやいや、あの、「恋はいくらでもしたほうがいいんだ」とも言えるし。

[*18] ダブルバインド:Double bind、ある人が、メッセージとメタメッセージが矛盾するコミュニケーション状況に置かれること。日本語訳で二重拘束という意味。

I:
 恋はどうなったら終わりなんですか?つまり、僕ん中ですごい好きやった人がもう結婚してるんですけど、今好きやった人、別れたけど今でも「別れても好きな人」じゃないですけど、それって恋は続いてるような気もするんでね。

 そうやって、言葉の話ですけど、恋はいつか終わるっていうのは確かに分かる。だから盛り上がるっていうのもなんかすごい分かるんやけど、はたしてそうなのかっていうのがずっと僕は気になってます。

西川:
 もう目の前にいない人からは傷つけられることないんですよ。相手を慕い続けるっていうことができる。慕い続けるとか思い続けることができるわけ。

 でも恋というのは、ちょっと違うんじゃないかって思います。やっぱりこう手練手管じゃないけど駆け引きみたいなところがあります。恋って、自分が安定してたらだめなんですよ。

 やっぱり破滅的なんですよ。相手のちょっとした仕草で自分の気持ちがガラガラガラッてなってしまったり、もうガーッってなったりっていう。これが恋だとしたら、「別れたけどあの人のことは僕、今でもずっと大事やと思ってるし」っていうのはちょっと恋なのかなどうなのかなっていうのはありますかね。


そこにいるのに会えない寂しさ


D:はい。なんかこの文章を読んで、「花がぼくになにをしてくれたか、それを考えて、花が大切かどうか、決めなければいけなかったんだ」という言葉を見て、なんか、この視点で見てみようと思い返してみたりとかしてたんですけど。うん。まあよく分からないですね。

西川:
 だって、いいことばっかりしてないですもん。たぶんね。傷つけるようなこともしてるもんな。でもそうじゃなくって、この人、いいことだけを思い出すみたいなとこあるもんね。うん。

 「何だかんだ言うてたけど、ちゃんといつも朝飯は作ってくれてたなあ」とか「何だかんだ言うて洗濯はずーっと全部やってくれてたなあ」ってなことを思うとね。そのことを全部脇に置いて、あの日のことでガーッてけんかしたなと思うと「してくれたこと全部忘れてんな、俺」とかって思うわけですよ、やっぱり。うん。

 でも、そんな「してくれたことだけを見る」ってねえ。どうなんでしょうね。花は動けないからそれこそ王子の代わりに火山の掃除してくれるわけでもないしね。バオバブの芽を抜いてくれるわけでもない。水一杯汲んできてくれるわけじゃないんですよ。
 することは全部王子がせざるをえない。花が「何をしてくれたか」。この「してくれたか」っていうのは、「ぼくの星を明るくしてくれた」とか「ぼくをかぐわしい匂いで包んでくれた」とかって、つまり美しさとか匂いとかっていうのは、別に王子だけにやってるわけじゃないよね。

 うーん。だから、花の存在がそのものがそういうものなんだから、そんなふうに考え直したほうがやっぱりいいのかもしれませんね。「してくれた」っていうんじゃなくって、「洗濯してくれたのになあ」っていうんじゃなくって。

 だって「洗濯してくれたなあ」だったら、「いや、まてよ。もう一人のあいつのほうがようさん洗濯してくれたな」とかってなるじゃない。

一同:(笑)

西川:「何を言ったか、何をしてくれたか」とかって書いてあるけど、そうじゃなくて、彼女の存在がどういう意味を持って自分にあったのかっていうふうに読み込んだほうがいいですね、たぶん。

E:
 さっきのケアの話に戻ると、やっぱり障害者の方とか、やっぱりさっき言われたバトルもあるわけじゃないですか。「もう帰るわ」とかいうヘルパーがいたりとかしたら困るし、とかっていうのもあって。

 だから結局その存在自体を、やっぱり意味があるとする。なんか、花やったらかぐわしい匂いを動かなくても発してくる。なんかそういうことに気づいたほうがヘルパーはいいんやろうなとか思って。

西川:
 僕が10年勤めた精神科男子病棟があって、それから5年女子病棟勤めて辞めたんですけど。いまだにね、男子病棟の患者さんの夢見るんです。閉鎖病棟だから、辞めたらもう会えない。退職した途端に、もう行けないわけ。鍵持ってないから、そこの病棟の中にもう行けない。だから二度と会えないじゃないですか。

 まあそういう思いもあって、『ためらいの看護』(西川勝著)の中で、「食のエロス」っていう患者さんのこと書いたちっちゃなエッセイがありますけど。やっぱり会えないことがつらかったです。

 別に何にもしてもらってませんよ。何にもしてもろってないけど、会えないのはつらくてしょうがなかったんです。うん。まあ10年間同じ病棟で、、何て言ったらいいんかなあ。

E:なんか死別でもないし、そこにいはるのに、会えないみたいな。

西川:そう。すんごいつらかったのを覚えてるね。だからもう同僚になんか会う機会があったってわざと会わなかったです。元の同僚なんか、会おうと思ったら会えるじゃないですか。で、「西川、元気?」とか言われたら、「ほっといてくれ」って感じですよ。だから会えなくなった人にものすごい思いが、やっぱりこうキュッてなるわけで。うん。

I:サン=テグジュペリの「経験」ってのは、ここなんですかね?

西川:どうなんやろね?

I:うん。だけどなんか、それはなんか当てはまっても面白いかなって気がする。会えないっていう気持ちが思いを強くするとか。

西川:
 どうなんでしょうね。まあ『星の王子さま』の中には、サン=テグジュペリのパイロットとしての経験だとか、コンスエロとの結婚生活だとか、いろんなことが影を落としてるんです。でも、ちょっと読んでもなかなかそうとは分かりにくいですよ。

 稲垣さんが後ろに解説で書いてますけど、やっぱこれを本気で読もうとすると、砂漠のところとかそういうのは、やっぱり『人間の土地』で、サン=テグジュペリが実際に砂漠で遭難した時のことだとか読んだ方がいいかもしれません。もちろん別にこれだけで読んでもいいんですけどね。

 『人間の土地』ってねエッセイなんですよ。小説でもおとぎ話でもなくって、エッセイなんです。だから彼の体験がたっぷり書かれてあるんです。それを読んでから…、また『星の王子さま』を読んだりすると、砂漠の光景とかががらっと変わってきたりします。

 後は、まあコンスエロに宛てた手紙だとかね、コンスエロ以外の人との恋愛なんかもそうですけど、読んでいくと、こうなんか彷彿としてくる部分はあるんだけど。

 でもそういうふうにして文学史的に読まなくても面白いところがあるから。まあでもね、僕どっちもこう関心があって。うん。


おわりに


B:
 花の気持ちがすごくちぐはぐなことばかり書いてあって、その、まあどうしてちぐはぐになっちゃうのかなあって思ったりだとか。

 たとえば、好きだっていうことを、そのまま正直に伝えられたらいいけどそれができなかったりとか、自分の気持ちをごまかそうとしちゃったりとか、まあちぐはぐもいろいろあると思うんですけどね。

 でも、こう真っ正直に伝えられたらそれがいいなっていう部分もあって。できないけど。お話聞いてて思い出したんですけど、今朝、夜勤で働いて、6時過ぎぐらいに女性の悲鳴が聞こえたんです。それは何て言うか、すごい喜びの悲鳴だったことがその時分かって。

 何でかって言うと、早出で来た職員さんがいたんですけど、ある女性の方がその人のこと大好きなんです。で、声を上げて全身で大喜びをされていて、右手を叩きつけて、よく内出血できたり傷がついたりとか、もうちょっとしたら骨折するかなとみんなで思ってるんですけど、そういう感じでほんとに、「ああ、あなたに会えて嬉しい」っていうのを全身全霊で表現されるので、すごいなあと思っていたんです。

 ちなみにその男性の職員さんが夜勤をすると、その方、一睡もしないんです。まあ、声出して呼んだりとかナースコール押せないのでね、30分おきに夜間巡視するんですけど、たぶん「また来る、また来る」っていう、「30分したら来てくれる」、30分っていう感覚はないかもしれないですけど、夜中じゅう待ち続けてるみたいなので、寝れませんよね。

西川:(笑)

B:で、ごはんとかもその人が介助すると、嬉しすぎて興奮して吐いたりするんですね(笑)。だからかわいそうに、ちょっと担当から外されてしまったりとかして。それでも一直線にね。素敵だなって思いました。

西川:
 はい、時間になりましたし、これぐらいで終わろうと思います。次回はね、やっぱり一つの山場ですよね、前半の山場になります。別に正解があるわけでもないし、サン=テグジュペリの伝記とかで解釈しても仕方がないところがいっぱいあるんですけど、まあでもそういうのもありつつやっていきましょう。

 この本は、少なくともサン=テグジュペリが適当に想像して書いたおとぎ話じゃないっていうことです。彼の人生だとか経験がたっぷりとこの中に入ってて、真剣に書いてるんですよ。

 そのことを知るために、まあ彼の他の著作との関連とかを、謎解きじゃなくてね、これが真剣に書かれたものだということを知るために、他のサン=テグジュペリの著作とかを参照するのは僕は意味があるかなと思います。別に学問的に云々とかじゃなくてね。

 またみなさん良ければ『人間の土地』読んでみてください。光文社文庫でも新しい翻訳が出てますし。新潮文庫は堀口大學[*18]っていう、サン=テグジュペリが生きていた頃の非常に有名な仏文学者が翻訳してます。彼の文章ものすごい典雅でね。もう香り高き日本語になってるんですけど、今の人にはちょっと読みにくいかもしれない。光文社のほうが読みやすいかも。もしよかったらぜひ読んでください。いっぱいぐっとするような言葉がある本です。

[*18]堀口大學:明治から昭和にかけての詩人、歌人、フランス文学者。

 じゃあ今日これぐらいで。あ、長見さん、長見さん!来てたんだ。うまいこと隠れるからなあ。愛の話よ、恋の話よ。

長見:何言ってんだよ(笑)。

西川:「何言ってんだ」って(笑)。あとでゆっくりとお酒飲みながら、長見さんの話を聞きましょうか。素面ではちょっとしゃべれないからね。

(第9回終了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?