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時間

かつてスティーブ・ジョブズは言っていた。

「もし今日が人生最後の日だったら、今日あなたがやろうとしていることは本当にしたいことなのか?」

  とか、
「あなたの時間は限られている。だから、誰かの人生を生きて無駄にしてはいけない。」
  とか、
「自分がもうすぐ死ぬという事実は、大きな決断をする手助けをしてくれる人生で最高のツールだ。」
  とか。

確かにその通りだと思う。はい、そうね。言いたい事はわかりますよ。わかるわかる。

わかるけど・・・・・

なんか怒られているような気分になるのは何故だろうか。

多分、後ろめたい事があるんだろう。
ジョブズのように、毎日死ぬ気で生きてない。適当に生きてる証拠だ。

こんな生き方はダメなんでしょうか?
  ねえ、スティーブ・ジョブズ。
友達にこんなヤツいたら、かなりメンドくさそうだ。毎日、説教されるだろう。

本屋の自己啓発コーナーには、同じような内容の新刊が次々と並べられていく。
需要と供給。ジョブズのような成功者になりたい人がどれほど多いことか。
題名だけが違う同じ内容の本が次々と発刊されていく。
しかし、書いてある内容のほとんどは小学生の道徳の時間に習ったことだ。大の大人が子供でも知っている内容の本をせっせと買い漁る。これだけ売れているんだから、同じ人間が、同じような内容の自己啓発本を買っているのだろう。
あなたの家の本棚には何冊ありますか?
読むたびに、こんな感じになってませんか?

○全ての出来事をポジティブに考える
  全てのことはネガティヴにしか考えられない

○自分を好きになる
  好きになる要素がない

○継続は力なり
  分かっとるわ!言われんでも!

○成功の秘訣は早朝の時間の使い方だ
  起きられませ〜ん!

○未来のビジョンを明確にし、常に念頭く。
  すぐ忘れる

殆どの人ジョブズみたいにストイックになれない。
  なぜか?
めんどくさいし、つまらないし、飽きるし、忘れるからだ。
人生をコントロールできない。
だから、昔を振り返った時に、あの期間は一体何だったのか?という謎の時間は皆、少なからずあると思う。

・・・・・あれ?

僕だけっすか?


 「ペコリーノ」

昔、銀座のイタリアンの店で、僕はコーヒーを入れる仕事をしていた。
大手商社が経営していた「ペコリーノ」という名前の店で、本格的なイタリア料理と、手で入れるネルドリップ式のコーヒーが売りの店だった。
店に入ると、イタリアのバールのような大きなカウンターがあり、奥にはゆっくり食事を楽しめるテーブル席があった。昼間はカフェ、夜はバーに趣を変え、薄暗い照明と流れるジャズが、その名前とは不釣り合いな大人っぽい雰囲気を演出していた。

僕は朝9時半に出勤すると、まずお湯を沸かして豆を挽く。お湯の温度を計り、しばらく置いておく。ネルにコーヒーの粉を入れて棒で詰める。温めておいた専用のケトルにお湯を移して、また温度をチェックする。既定の温度に達したお湯をネルに落とすと、コーヒーの甘い香りの湯気が顔を覆む。「今日も良い香りだ」一日が始まるのを感じる。ネルの中で、潮が引いた後の砂浜のようにポコポコと小さな穴が空き、コーヒーが蒸らされていく。タイミングを図り慎重にお湯を注ぎ入れ、抽出していく。小さな円を描き、少しづつ円を大きくしていく。そしてまた小さくして大きくする。店の中にコーヒーの香りが広がっていく。

コーヒーの味は、注ぎ入れる時のお湯の細さ、スピード、温度、蒸らし時間、豆やネルの状態などによって変わる。しかし味を決定させる要因はそれだけではなくて、その日の天候や湿度などによっても毎日変わり、そして何故か自分の体調や精神状態によっても変わってくる。風邪気味の日には苦味が出たり、寝不足の日は味が雑になったり、かと思えば、やる気がなくて、もう帰ろうかなとか思っている時に入れたコーヒーは絶妙な味だったりと、割と思うようにいかない。

そう、人生のように。


と、ここまで書いておいてアレなんだが。

「違いのわかる男」みたいに、カッコいい感じに書いておいて、アレなんですけど・・・


   僕はコーヒーが飲めない。

コーヒーを飲むと、腹痛、下痢、吐き気、頭痛、悪寒などのあらゆる酷い症状が出て、この世の終わりかと思うくらい体調が悪くなる。アレルギーの類いなんだろうか。
そんな奴が、何でそんな仕事をしていたのか全く謎なのだが、客からは割と評判は良かった。「コーヒー入れるのお上手ですね」とか「やっぱり、手で入れたコーヒーはひと味違うね」とか「至福のひととき」とか言われる度に、少し後ろめたい気持ちで「ありがとうございます」と答えていた。

すいません、コーヒー全く飲めません。
ごめんなさい、味とか言われても全然わかりません。
あなたの「至福のひととき」コーヒー飲めないヤツが入れてます。


店の事務所の引き出しの中に一冊のノートがあった。誰が書いたのかわからないが、そのノートには、お湯の温度設定、抽出法からコーヒー豆やネルの管理法までが、こと細かく几帳面に書かれていた。ノートに染み付いた甘い匂いのする茶色いシミが、歴史とコーヒーに対する愛情を感じさせた。
僕は誰かに教わった訳でもなく、そのマニュアルに従ってコーヒーを入れていただけだった。

味見ができない僕の代わりに、コーヒーの味を評価するのは店長だった。
元商社マンだった店長は40歳半ばの男性で、サンドイッチマンの富澤みたいな、溶けかけたアイスのような顔をしていた。(どんな顔だ!?)性格もそのルックスをそのまま移植したような感じで、商社ではやっていけなかったんだろうな、と当時20歳過ぎで世間知らずな僕が思ってしまうほどダメな感じの漂よう、しかし優しい人だった。

ランチタイム前に出勤して、新聞を読んでいる店長に何も言わずコーヒーを一杯出す。店長はいつも一言だけ感想を言う。
「いいね」とか「ちょっと苦いね」とか「いがらっぽいね」とか。
その一言が、その日のコーヒーの味を判断する基準だった。しかし、店長は何かアドバイスをくれる訳でも、作りなおしを指示する訳でもなく、普通の客のようにコーヒーを飲み感想を言うだけだった。
極度に不器用な店長はコーヒーを入れる事が出来なかった。何度か練習したらしいが、とても売り物にできるような代物ではなかったらしい。その結果、店の中でコーヒーを作れるのは僕しかいなかった。だから遅刻や欠勤の連絡をすると、怒られる以上に非常に困られた。どんなに体調が悪くても、朝のコーヒーの仕込みだけは行かなくてはいけなかった。


数ヶ月に一度、商社マン時代の店長の同期だという男性が店に来た。いかにも仕事が出来そうなヒゲを蓄えた恰幅の良い男性は、世界中を飛び回っていて、たまに本社に帰ってくると店にも顔を出した。
いつもタバコを吸いながら、出向先の中東やヨーロッパであった出来事や仕事の話などを、バイトの僕達にもわかりやすく話してくれたんだが、店長はいつも帳簿をつけたりメニューを書いたりしていて、僕たちのことは興味なさそうに自分の仕事をしていた。
ある日、ホールの子が店長の不器用でおっちょこちょいな所を男に話していた。買い物に出るとなかなか帰ってこない、とか店のコップをすぐ割るとか、そんな話を聞いていた男は「俺なんかより仕事はできるヤツだったんだけどなぁ」と、ボソッと言った。
意外だった。店長のいつもの仕事ぶりからは「できる」要素は微塵も見当たらない。まあ仕事と言っても、料理を運んだりお会計をしたりするような、他のバイトがやっている事と変わらない訳だから、商社マンが本領を発揮できる環境ではない。でも思い返してみると、外人の客とは英語で会話をしているし、店の帳簿をつけたり、お釣りの計算だってできる(当たり前だ!)もしかして、と思って改めて店長の顔を見てみるが、何処からどう見ても冴えないおっさんにしか見えない。眠そうな顔でレジのお金を数えている。とても海外でバリバリやっている所は想像できない。
店長は昔の話はしないので結局真相はわからなかったが、もしかしたら自分で選んだ仕事だったのかもしれない。
しかし、そんなことがあっても僕たちが店長を見る目が変わる事はなくて、またいつものような日常に戻っていった。


飲食店なので当然なのだがランチタイムは、とても混む。自社や近くの会社から来るサラリーマンやOL、歌舞伎座やデパートに買い物に来る観光客や外人。有名人などもたまに来た。
ランチタイムが終わりホッと一息ついた頃、いつもの客が来る。
その高齢の男性は有名な小説家だと店長が言っていた。小説家のおじいさんは毎日同じ時間に来て、窓際の同じ席に座る。注文も毎日同じだ。イカのフリットと生ビール。おじいさんは誰とも話しをすることはなく、静かに本を読みながらビールを飲み、食事が終わるとコーヒーをゆっくり飲んで、同じ時間に帰っていく。
テーブルに置かれた皿やグラスの位置まで同じなので、そこに飾られた絵のようにその場所に定着していた。まるで、そのおじいさんの周りだけ時間が止まっているような感じがした。
スティーブ・ジョブズに「もし今日が人生最後の日だったら、あなたが今日やろうとしていることは本当にしたいことなのか?」と言われても、多分おじいさんは、同じ時間にこの店に来て、イカのフリットと生ビールを頼んで、本を読んで、コーヒーを飲むのだろう。

おじいさんは毎日その席で何を考えていたのだろうか。


そんな日々が繰り返され季節が巡った。そして一年が経とうとしていたある日、正社員にならないか、と打診された。気がつけば、僕と同じくらいの歳の大学生たちは就活で一人づつ減っていき、彼らと入れ替わるように年下のバイトが増えていた。店長は一人だけポツンと残された僕のことを気にかけてくれたんだろう。正社員なんてなる気はなかったが、その気持ちはうれしかった。僕は、一応考えますと答えた。

働いていた日々を振り返ってみた。

特にストレスもなかった。職場はいい人ばかりだったし、通勤も車だったので快適だった。(僕はバイトの分際で、あろうことか銀座まで車で通勤していた!)
しかし、仕事には何のやりがいも達成感もなかった。今は「バリスタ」などと、もてはやされているが、当時はバリスタなんて言葉はなかった。(いや、あっただろ!)
飲めないコーヒーを毎日入れ続ける日々。 毎日同じ時間に店に来て、同じようにコーヒーを作り、同じ客に出すだけだ。コーヒーの味以外は、なんの変化もない日常。社員になったとしても変わらないだろう。
20年後の自分と店長が重なり、40年後の自分が小説家のおじいさんと重なった。
いつまでも、ここにいてはいけないと思った。

数日後、僕は正社員の話を断り、そして店も辞めると言った。
店長は引き止めることもなく「その方がいい」と言った。店長は、いつまでも、うだつの上がらない僕の背中を押してくれたのかもしれない。

辞めて一年くらい経った頃、近くに来たついでに店に寄ってみた。客として行くのは初めてだった。
店に入ると厨房から、仲が良かったシェフが顔を出した。
シェフは僕の顔と、連れていた女性の顔を交互に見て「あ〜っ!!」と大声を出して厨房に引っ込むと、すぐにまた出て来て、僕を厨房に引きずり込んでヘッドロックをかけた。いつもの洗礼を受けた僕は懐かしくてホッとした。シェフは「友達、友達、友達!」と早口でまくし立てた。(シェフは日本人だが、通訳すると「その子の友達を紹介して!」という意味だ)

店長も変わっていなかった。溶けかけたアイスの様な顔で嬉しそうに笑っていた。
店長は、僕の代わりに新しく入れた何百万もするコーヒーマシンを自慢げに見せ、使い方をレクチャーし始めた。
ここに挽いた豆を入れて、ここを押すと抽出するんだぞ。エスプレッソもできるんだぞ。
まるで今日から入った新人に教えるように。
そして「これなら俺でも入れられる」と笑って言った店長の顔は、少し寂しげに見えた。

僕は小説家のおじいさんの席に座った。窓際のいつもの席。
窓の外に目を向けた。街路樹の横を通行人が忙しなく歩き、道路は渋滞で窓の向こうからクラクションが聞こえる。いつもの銀座の街並。薄暗い店内に外の明かりが差し込む。カウンターの中には僕の知らないアルバイトがいて、その横の厨房からシェフの笑い声が聞こえる。店長はいつもの場所で夜のメニューを書いている。客がドアを開けて入ってくる。カランカランとドアのベルが鳴り、店長が立ち上がり出迎える。

小説家のおじいさんがいつも座っていたその席は、外の風景も、店の中も全て見渡せる席だった。
いつも本を読んでいるだけだと思っていたおじいさんは、毎日ここに座って、実は色々なものを観察していたのだろう。
おじいさんは、毎日同じ席に座って、毎日違う景色を見ていたのかもしれない。


「時間」


人生の中で、無駄な時間はあるのかと考えて見る。

無駄と言ってしまえば、全部が無駄だろう。意味のない進化を繰り返す人間の存在自体が無駄だ。色々と理由をつけて地球を破壊しているだけのエゴイストだ。
アイフォンなんて無くても人類が滅びるわけではない。そう考えれば、ジョブズが生涯の時間をかけてやってきた事は、一日中ネットゲームをやっているニートとたいして変わらないのかもしれない。アイフォンを1ミリ薄くする為に尽力を尽くしたジョブズと、ネットゲームのレベルを上げるために尽力を尽くしているニートの、何が違うというのだろうか。
人間が一生の時間をかけてやっている事は意味のない事だ。

でも、果たしてそうなんだろうか?

人間は生きる意味を求める。生物が最終的に辿り着くのは「死」だが、人間はそこに到着するまでにいくつものゴールを設定する。そのゴールとは、アイフォンを作る事だったり、ネットゲームをクリアする事だったり、お小遣いを貯めておもちゃを買う事だったり、よい学校に入ることだったり、結婚することだったりと、人によって違う。そのゴールに大小はない。
そして、そこにたどり着くまでの「日常の時間」が道のりになる。道のりは人によって違う。
ジョブズは日常の無駄な部分を一切省いて最短距離で駆け抜けた。誰も足を踏み入れたことのない山道のような所を、切り開きながら進んでいったのだろう。
多くの人の日常は舗装された起伏がない高速道路のような道だ。同じ景色が延々と続き、どこへ向かって走っているのか、どこを走っているのか、標識やナビがないと分からなくなる。
「幸せって何だ〜っけ、何だっ〜け、空に浮かんだ白い雲♪めぐり合うのがハッピネス、すれ違うのがハッピネス♫」
と日本の誇る稀代のブルースシンガー、サンマ・アカシヤは歌っていたが、幸せとは高速道路の柵の向こうに見える白い雲や、出会いやドラマなのかもしれない。
そしてそれは一瞬で通り過ぎてしまう景色で、しっかり見たいなら速度を落としたり、高速を一回降りてみるしかない。

あの時の小説家のおじいさんや店長は、もしかしたらその景色を見ようとしていたのかもしれない。

#エッセイ #日記 #ココロマッサージ

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