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おじいさんの夢


昔、へんな夢を見た。

フランスのシャンパーニュ地方、山の中腹に小さな小屋があった。寝起きなのか、眠そうな顔をした男がいる。男はボンヤリと考えごとをしていた。
(今日も水、汲みにいかないとな)
毎日の日課なのだろう。毎朝、水を汲みにいかないといけない。それもけっこう麓の方まで。男は思っていた。
(あ〜、めんどくさい)

という夢。
さっきまで本当にそこにいたように、やけにハッキリと覚えている。目を覚ました僕は本棚から地図を出して調べた。シャンパーニュ地方なんて知らないし、聞いた記憶もない。でも地図にはちゃんと書かれていた。パリのすぐ近くだ。
なぜか、その男は僕だと思った。前世というものがあるんだとしたら、もしかしたらその時の記憶なのかもしれない。前世がフランス人?と一瞬、色めいたが、今とあまり変わらないダラダラした感じの男の姿に、前世からそれかよ。と、すぐにガックリした。その夢は一日中頭の中に残り、数年経った今でも細かいディテールまで覚えている。
そんなにいつまでも覚えている夢はそれきりない。夢なんてそんなものだろう。目を開けた瞬間、霧が晴れるように現実があらわれ、いい夢も悪夢もだいたい忘れている。
「夢」には二つの意味がある。寝ている時に見る夢と、希望や願いなどを表す夢。それぞれの意味合いは全く違うが、ある一点においては合致する。
両者とも泡(あぶく)のように儚く、瞬きする間に消えてしまう。

水滴

「おじいさんの夢」

店の向かいに古い商店がある。スポーツ用品や小学校の体操着などを扱う店だ。店には怖そうな顔をしたおじいさんがいた。物件を内見に行った時も、工事業者と挨拶に近所を回った時も、おじいさんは店の前でタバコを吸いながら行き交う通行人を睨みつけ、時に怒鳴りつけていた。おじいさんは「最近のヤツらはモラルがなっとらん!」とよく憤っていらしたが、禁煙が蔓延している世の中で平気で路上喫煙をし、吸い殻をそこら辺にポイポイ捨てているおじいさんのモラルこそハナから信用していなかった僕は「そうだね。」と、つれない返事をしていた。おじいさんは昔から近所にいる偏屈な、いわゆる頑固じいさんだった。
初めて会った時も「そんな場所で商売してもダメだ!やめとけ!」と、怒鳴られた。その一言で、珍しくやる気になっていた僕の気をごそっと削いだおじいさんの、僕の第一印象は「クソジジイ」だった。しかし毎日顔を合わせているうちに、そんなクソジジイとも少しずつ話すようになっていた。そのうち、膝が痛いと言えばお灸をしてあげたり、電球が切れていれば取り替えてあげたり、真冬の寒い時期にはおじいさんの店でストーブに当たりながらお茶を飲んだりと、交流を深めていった。ようするに、おじいさんと僕はヒマだったのだ。おそらく商店街の中で一番。
おじいさんの店には殆ど客は来なかったが、ごくたまに親子連れの客が来る。おじいさんは、成長して一回り大きいサイズの体操帽を買いに来た小学生の頭の上にポンと手を乗せ、手のひらで頭の形を探る。それで終わりだ。ピッタリサイズの帽子を棚から出して「はい」と渡して、それで終わり。
「うち、昔は帽子屋だったんだぞ」と懐かしそうに、おじいさんはよく話していた。高度成長期の東京で、ソフト帽とかハンチングとか、昔のカッコいいおじさんたちが被っていたような帽子を並べていたんだろう。しかし周りから反対されて始めた帽子屋は、いつのまにかスポーツ用品や体操服を売るようになっていた。
時代の流れは容赦なく夢を打ち砕く。特に小さな店が立ち並ぶ商店街は入れ替わりが早い。古い商店が新しい店に変わり、変わったと思ったら潰れ、また違う店になっている。

おじいさんは顔を合わすたびに「やあ、調子はどうだい?」と聞いた。「全然ダメだね」と答えていた返事は、僕の店にお客が来るようになると「ボチボチだね」に変わり、その頃からおじいさんと会話する数は減っていた。
最後に見かけたのはいつだっただろうか。朝、商店街の途中の椅子に腰かけていたおじいさんに声をかけると、いつものように「やあ、調子はどうだい?」と僕に聞いた。

おじいさんはもういない。何年か前、しばらく見かけないなと思って、店にいた若い人に聞くと「昨年、亡くなったんですよ」と言った。本人の意向で商店街の人たちには知らせず、身内だけで済ませたそうだ。「そうですか」と、僕は言って店の中をチラッと中を覗いた。いつものイスに腰掛けて、険しい顔をしてこちらを睨みつけているおじいさんが一瞬うかんで、消えた。

夕焼け


夢を否定する人がいる。
サッカー選手のピークを過ぎた本田圭佑はビッグクラブに逆オファーをし、山本太郎は総理大臣になると言い、ホリエモンはロケットを飛ばしている。
多くの人は鼻で笑いながら言う。
「そんな夢みたいな事を言って」と。
人は一般的な常識的範疇から逸脱した事態に直面すると困惑し、排除しようとする。なにかを誤魔化すように非現実的だと笑い罵る。
しかし一方では、夢の国と呼ばれるディズニーランドに足を運び非現実的な世界に浸る。羨望の対義語は幻滅だ。対立する両者は陰陽では補い合う関係にもなる。
人は手を伸ばしても届かない夢に憧れ、幻滅する。キラキラと放つ光が眩しくて直視できない。その対象は他の誰でもない。おそらく過去の自分だ。目を細めながら夢を追っていた時の自分を思い出し、ボロボロに破れた夢を光にかざす。栄光の部分だけ穴の空いたそれは、ただの傷だ。
そして夢を見ている人を嗜める。
「そんな事、やめておきなさい」と。
直接、言ってくれる人はやさしい。本当にその人の事を思っている。何故ならその多くは、彼らや彼女たちの親だからだ。自分と同じ傷を負わせたくないと願う。
そんなような事をもし第三者から言われたとしたら、その人とは離れない方がいい。 思いが相手に伝わった時、その人はとても強い味方になる。
店をオープンしたばかりの頃、店の前でチラシ配りをしていたら、おじいさんが僕の持っていたチラシを一枚ふんだくって知り合いの人に渡してくれた。チラシを持って小走りでその人を追いかけるおじいさんの後姿は、もしかしたら帽子屋だった頃の若い時のおじいさんだったのかもしれない。
「調子はどうだい?」と僕に向かって言ったその質問は、きっと昔の自分に言っていたのだろう。






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