Kokoro

ひっそりとしています。

Kokoro

ひっそりとしています。

最近の記事

久々。

気分が良い。 いつもなら、畳み掛けて何かをしてしまう所なのだけれど。 自分としては、非常に珍しく、何もしないで「そんな、状態のいい自分を傍観」してみる。 何故なら、月の状態でいう、一番良い時期だというだけかも知れないから。 そして、ただそれだけだという事にも、理解を示し、何もしない事にも、ただその状態を感じるだけの時があってもいいと感じたいから。

    • 出口。

      コロナに、かかった。 正確にはもう治っているはずの時期なのだが、この罹患により、いくつかのものが確実に抜け落ちて無くなり、いくつかのものが、くっついて離れなくなった。 あまり詳しくは書かないが、この罹患により確実にコロナは私に、爪痕を残していった。 その一つが、タイトルにも書いた、「出口」。 体力が、前より減り、それに伴い、これは予想すらしていなかったのだが、感情を吐き出すための出口、それと同時に、吐き出すための力をも、私は見失ってしまった。 これは今だけのものなの

      • 思うこと、言うこと、行動すること。

        この歳になって、初めてぼんやりと分かったこと。 「経験」とは、タイトルに書いたこと、全部が一致した上で、全てが為されて初めて、それをしたと言えるのではないかと。 それら全てをしてみて、初めて分かること。それら全てが揃わないと、感じられない世界というのはあるのではないかと思う事が、最近になってとても増えているからだ。 分かったつもりになって、したり顔で「経験した」つもりになっていた事が、どれだけあったかと思わされる。 この世で、私が「経験」した事なんて、三つくらいしか無い

        • 独り言。

          一旦、歩みを、止めてみる。 自分の、内側に、耳を澄ませる。 浮かび上がった言葉を、「本当に、そうなのか?」と疑ってみる。

          傷付いたのなら。

          人と人との間で傷付いたのなら。 自分が勝手に傷付いたのなら、その傷は、自分で癒すべきだと考えていたけど。 そうじゃ無いのだろうなぁ、と、改めて思い直した。 例え、相手が100%正義の考えから発した言葉で、1ミリたりとも悪気が無かったとしても。 例え、自分が何ら反論することなく、引き下がるのだとしても、自分が傷付いたのなら、その気持ちはちゃんと自分の気持ちとして誇りを持つべきなのだと思った。 もし、自分が傷付ける側の立場に立ってしまったとしたら。 自分が例えば怒りに打ち震え、誰

          傷付いたのなら。

          自分を大切にすることとは。

          私は今でもまだ、うまく出来ていないけれど。 2つか前に書いた、「躊躇う事なく自暴自棄になる」こととも似ているかも。 自分を大切にすること、それはまず、「自分が、(自分を)大切にしたい時に、大切にする」事が最初にあるからこそ、なのかなぁと。 私は無意識に、ともすると誰かの目や、意見に左右されている事が多くて。 それを意識することから、人を、コントロールしない事へも繋がっていくのかなぁと。

          自分を大切にすることとは。

          長いスパンと短いそれと。

          ふと。 人生は、長いようで、短い。 長いスパンで見るか、短いスパンで見るか。 どちらにしても、時間を意識して過ごして来なかった、いや、時間とうまく付き合ってきた自覚が今まで無かった私にとっては、その付き合い方をそろそろ考えた方が良い時期に来たのだと。 ただ、長いスパンで見るならば時間は短く、短いスパンで見るならば、時間は余裕を持って。 とにかく時間は「ある」ものであって、それは意識するためにあると。 今まで、時間は「ない」ものと思って、常に急いで、焦っていた気がする私である

          長いスパンと短いそれと。

          躊躇いなく自暴自棄になること。

          先日の記事でも書いた、私が多大なる影響を受けている尊敬する人。 この人を見ていて、私が(勝手に)凄いなと思ったこと。 タイトルの通りなのだが、この人は、躊躇う事なく、人の目など気にせず自暴自棄になれる人なのではないかと。 他の人は分からないけれど、これ、私にはなかなか難しいこと。 なにをするにも、中途半端に人の目が気になるので、自暴自棄も、発散するにしてもたぶん、中途半端に中途半端。 自暴自棄だけに留まらず、この人は何をするにしても、世界中の人に届くぐらいのレベルで自分を、大

          躊躇いなく自暴自棄になること。

          自分への許し。

          ふと。 私は、こんなことにも、自分へ許可が出来ていなかったのだなと思った事があって。 何故それを許せるようになったのかはよくは分からないけれど、思考のクセを乗り越えるための今の私のフラットな状態と、ある私にとって影響力の非常に強い、尊敬し敬愛する人物の生き方に、改めて触れた事が大きかったのではないかと思う。 そして、人の状態に触れた時、その人の思いに、飽くまで自分はフラットな状態を保ちながら、「同じ思いを馳せること」、同意するのではなく「寄り添うこと」、が出来るようになってい

          自分への許し。

          思い出すこと。

          最近、いや、もうずっとかも知れない。 私は、しばらくして来なかった事をする事、そのものを、内容も含めて、丸ごと忘れてしまう事がとても多いと。 全くしたことの無い事をしようとする時に、その事に対して不安や恐れを感じる事があるのはよくある話かも知れないが、私の場合それよりも、したことのある事柄に関して、思い出す事にすら、不安や恐れを感じることが多いと感じる。 そのものの記憶を無くしてしまうので、それがどんなものだったか、自分にとって心地よい事だったのか、そうではなかったのか

          思い出すこと。

          混ぜるということ。

          人生とは。 そんな純粋なテーマで考えることも、今まで無かったと言えるほど、色々と悩んで来た自覚のある生き方だったけど。 大いなるきっかけを皮切りに、もしかして、これまで自分を悩ませて来た生き方、考え方の一つに、「感情も、考えも、悩みも、生き方も、不快感も、互いに異なるもの同士を混ぜてはいけない」というものがあったからかも知れない、という一つの結論が出た。 余りに混沌としていたり、余裕がなさ過ぎたりしたら、また無理な時もあるのかも知れないけれど、それぞれを「混ぜること」、

          混ぜるということ。

          後に残るのは。

          要らないものばかり、集めていた。 不安からくる心配や疑心暗鬼、愚痴や不満は全て、無いと怖いと思ってた物たちだった。 それを依存と、呼ぶのかしら。 それら全て、不要だとしたら。 後に残るのは、静寂?

          後に残るのは。

          飽くまで「自分の、感じ方」次第。

          ほとんど備忘録なのだが。 私が不快になったり、怒ったり、悲しくなったり、反射的に取り込んでしまう負と呼ばれている感情は。 人によってもたらされているとしていたが、フと、全ては、タイトルの通り「自分の感じ方」なのではないかと。というか、そうであるとしてみた。 そうしたら、一旦、全ての自分に湧き起こった感情は、自分の責任となり。 結果的に、納得感として、自分の中に落ちて来た。 結果、たくさんの人の居る街で人とひっきりなしにすれ違っても、すれ違うたび一つ一つ、納得を感じなが

          飽くまで「自分の、感じ方」次第。

          症状があってはイカン、のではなく。

          これに関しても。 一時が万事、私は、「こうであってはならない」の思考が、つきまとっているのだなと思う。 確かに症状が出た時は辛い。が、それも自分の事実であり、それにいい、悪いの価値観を付加する必要は無いのだろう。 やれること、やりたいと思ったことをやる。と決めたのだ。

          症状があってはイカン、のではなく。

          首から上、心と感情、そしてお腹。

          何の事かとお思いだろう。 私という身体を生きている以上、訪れる月1の身体の行事。 その前段階に当たる時期に差し掛かると、いつも私に大体不可避なのが、頭の膨張感。 これがやって来ると、意識という意識が、どんどんその拡張する膨張感にとって変わられ、その感覚は外へと向かい、対人関係に少なからずあまり嬉しくない影響を及ぼす。 そこで、考えた。 物理的に、首から上、心と感情、そのふたつの力を、緩めるのだ。 その上で、お腹(子宮)に、意識を集中する。 それをやってみたら、い

          首から上、心と感情、そしてお腹。

          頭と心とカラダの一致。

          ここは久し振りに辿り着いた境地かも知れない。 ここのところの(絶)不調の原因を、どんなに考えたり行動を変えたり探してみても見つからなかったものが。 ふと、「(脂肪)分解しないと、身体持たないって、心の中が言ってるんで」と言うのが浮かんで来たのである。 何故だか、その時の私には、とてもしっくり筋の通る言葉だった。 その後、数通りの軽い、自分にとって分解となる、と思うところの筋トレ、ストレッチをやった。 そうすると、さっき浮かんだ考えがより、鮮明に説得力を増した。 そこ

          頭と心とカラダの一致。