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もし夢をゆだねて良いのなら

 午前3時起床。洗濯機始動。居間に敷いた煎餅布団に眠る兄の横で、仏壇に向かう。「お父さん、お母さんおはよう。今日も頑張る、清ちゃん(兄)が食事中に喉を詰まらせませんように」


 同4時、洗顔、化粧、髪を整え、着替えて出勤の準備。朝食を作りながら、兄の着替えとよだれを拭くタオルを枕元に置き、そっと起こす。半身麻痺の兄はいくつになっても拙い所作で衣服を脱ぎ着する。なんとも健気で愛おしい。母もこの姿に折れそうな心を幾度も救われたのだろう。
 兄のお弁当を詰めながら、薬、歯磨きをセッティングし、上京した弟が残していった愛犬キングの散歩をいやいやする。私は幼少時に噛まれて以来、実は犬が苦手だった。それが、今や排泄物の処理をしている。人生は予想したことがなかなか起こらないから楽しくて苦しい。それが、人を強くするのだろう。


 5時近くになり、兄の身支度が整い、朝食タイムに入る。マヒで飲み込むことができない兄は、手で食材を掴み手で喉の奥に押し込み、「ああああ」と喉を振動させて飲み込んでいく。ゆうに30分以上かかる。外食の時はこの声が恥ずかしかった。今はそんなことも言ってはいられない。両親亡き後、私が兄の母。外食にも買い物にも連れていってあげたい。
 私の出勤時間は6時ごろ。ヘルパーさんが来るのは6時半。ヘルパーさんに歯磨きをお願いしているが、兄は私に歯磨きをしてほしいため、その時間に合わせて起きて、食べ終える。「優雅な朝でなくてごめんね」
 歯磨きの後、兄は大量のサプリメントを調合して、挟みで細かくして大量の水で押し込む。健康でいないと迷惑をかけると思っているのだろうか。無邪気な笑顔で弾けんばかりの笑顔でガッツポーズする。

「ごめんね」


 兄のサプリメント飲み作業は1時間かかる。冗談ではなく、事実だ。その作業中に私は家を後にしなくてならない。ヘルパーさんが来るまでの空白の30分。兄を見守る人はいない。不安と罪悪感に苛まれながら、車に乗り込む。涎掛けをかけた兄はまっすぐな瞳で送りだしてくれる。「夜、また会おうね」
 

 夜は退勤時間が6時。家に着くのはどう頑張っても7時。夕食介助のヘルパーさんが帰るのは6時半。兄はまだ夕食真っただ中だ。また不安と罪悪感に追われながらハンドルを握らなければならない。数カ月前は帰宅途中に母の病院にも寄っていた。「大変だ。大変だ」と思っていたが、あの時間が愛おしい。

 

 そして、約5年経ち。兄との二人生活も今は愛おしく懐かしくなってしまった。
 父の死後、父の多額の借金が判明し、介護関係の事業所を運営していた母にも細々と負債があった。兄を抱えてのン百万円の返済は無理だった。悩み悩んで、弁護士に相談し、相続放棄をした。両親が必死の思いで購入した、ネズミとゴキブリと同居する家も車も、思い出も全て借金と共に手放した。そう、兄との暮らしも。忙しいわりに低収入の私の分際では、兄と2人で暮らす家を借りることも、養うことも、生活を共にすることも難しかった。
 「あっちゃんが倒れたら、お兄さんは悲しむよ。あっちゃんが、幸せになることを清ちゃんも願っているよ」
 多くの人が慰めてくれた。私は感謝しつつ、その言葉を投げかけられるのを待っていた心の奥底の「悪魔の自分」に恐怖を感じていた。贖罪を負って生きていくような感じだ。
 

 兄は、施設に入った。母であり、父であり、妹である私から離れなければならない。兄は全てを分かってはいない。でも、私を責めない。「私はとんでもないことをしてしまったのではないか」。いまだに苦しい。
 エゴの塊である私は、休日、タイミングが合えば兄を施設から連れ出して買い物、外食に連れて行った。貯金を切り崩して、買い物が大好きな兄におこずかいをあげて、ランチで好きなモノを食べてもらった。
 ランチの場所は主にファミレス。大きな地鳴りのような声と大量の涎に周囲の視線を感じながらも無視して、机の上を黙々ときれいにした。でもでも、兄は満面の笑み。しゃべれない兄は手を私の頭の上に手をかざし「良い子、いい子」の動きをする。私の狭くて段差の多い部屋では、兄の施設から遠い私の部屋では、ランチを取ることは不可能だった。「二人きりで心置きなく食事できる場所がほしいね」「清ちゃんも恥ずかしいよね。ごめんね」
 
 でもでもでも、新型コロナウイルス感染症のパンデミックに伴い、その時間さえも奪われた。兄の外出は不可。2021年2月現在、面会さえも許可されていない。
「私はばい菌か」
仕方ないと分かっていても、悪態をついてしまう。

 同じく、2021年2月現在の私は、結婚してお家ができました。尊敬できるパートナーとお母さん、猫ちゃん2匹に囲まれて幸せです。でも、幸福感を感じる度に兄、父、母、うつ病の弟のことが頭をよぎるのです。「もっと苦労しなくちゃ」「もっと頑張らなきゃ」「もっと兄のために何かできないか」とか。ぐちゃぐちゃです。
 お願いです。兄に孝行する時間、場所を私にください。気兼ねなく好きな時に出入りできて何時間でも2人だけの時間が楽しめる空間がほしいです。
 もし実現したら、その場所の独占はしません。同じような境遇の皆さんに開放します。
 兄の満面の笑みが恋しくて仕方がありません。同じ思いの人に開放させてください。
よろしくお願いいたします。

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