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無駄に丁寧に話すのをやめた

無駄に説明を丁寧にわかりやすくしようと心がけるのをやめた。

「丁寧に」、「わかりやすく」、これらはどちらも自分の固定観念の産物であり、それが相手にとって丁寧でわかりやすい説明になるかどうかとは別問題だと気づいたからだ。

ただし、丁寧にわかりやすく説明しようという努力を払ってきた経験はとても有意義なものだったと思う。無駄ではなかった。

なぜなら、


Pre)説明の仕方を改善しようとする「前」。つまり自分の説明がより伝わるようにするにはどうすればいいかという課題に取り組んでいない状態。これは当てずっぽうで場当たり的な説明をしているに過ぎず、相手に伝わったかそうでないかは運の問題になっている。


と、


Trans)説明の仕方を改善するための努力をやってみた「後(あと)」。つまり自分の説明をより伝えるにはどうすればいいかという問題に取り組んでみて、自分の限界を見極めた状態。場当たり的な説明と(上手い/下手は別として)丁寧にわかりやすくを心がけた説明のどちらも選択的にできる。その上で、相手に伝わったかどうかは結局コントロールできないことを悟り、無駄な努力をやめるに至っている。


この2つ ーーー Pre(前の状態)とTrans(後、もしくは「超えている」状態) ーーー は、どちらも「丁寧でわかりやすい説明を心がけていない」ということには変わりないが、意識のレベル的には非常に大きな違いがある。

私は自分なりにTransのレベルで「やめてもいいな」と思った。昨日である。脳の中でなにかがバチーーーーんと弾けた。
少し大げさだが、人生の時間は限られているのに、余計なことのために時間を割くのは馬鹿野郎だなと思ったのだ。


***


丁寧さやわかりやすさへの執着を捨てると同時に、次の2つを実践しようと思っている。

・大事なことを先に伝える

・考えてもらう

効率(定量的な尺度)の問題ではなく、どちらかというと「伝達の質」の問題のほうが重要と思っている。あと、伝達の効率のほうは、結局のところ測ったりコントロールしたりできない。できたと思ってもそれはたいていこっち側の思い込みだ。

早速、昨日から実践している。数件だが、友人や仕事仲間との間で交わしたチャットへの書き込みはこのスタンスへの変更を反映している。それで面白いなと思ったのは、これまで通りでやり取りの仕方が全く変わらない人がいる、一方、自分の言葉遣いが大きく異なる人もいる、ということ。対応のフレーバーがまちまちになっている。案外自分には一貫性がないことがわかった。

自分を変えてみないと自分が見えないということかもしれないですね。

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