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労働の義務と功利主義

(このnoteは、岩波書店から出版されているJ.S.ミルの『功利主義』を元に書いた三ツ星スラム幸福研レポートです)

最近特に社会全体として良いとされていることを内在化して、結果苦しんでいる人が多いと感じていたので、この本からヒントが得られると期待して読んでみた。

読んだ結果、難しくて一度読んだだけでは到底理解ができなかったので、気になる箇所を部分的に掘り下げてみようと思う。

「義務」は強要してよいもの?

義務は借金の返済を強要する場合のように、誰かに強要してよいものである。当事者に強要してもよいと思うことでなければ、われわれはそれを、その当事者の義務と呼んだりしない(P122)

この部分を読んで、すぐに日本国憲法第3章第27条の国民の義務の「勤労の義務」が頭に浮かんだ。

今の日本で誰も労働を強制することは出来ないし、労働していないからといって罰則があるわけではない。にもかかわらず、労働をしていないことに引け目を感じてつらい思いをしている人は多いはず。

ではなぜ、労働していない自分をダメだと思ったり、労働していない人を避難したりするのか。

実際は罰則がなく、強要されているわけではないのに「どこかで労働は義務と習ったから」義務だと思っている。

「義務」の呪い

義務だから義務なんだと言葉だけが呪いとなっている

他者からいつのまにかインストールされた概念は、自分でも気づきにくく、その呪いに自分自身が苦しめられることも多いし、その呪いによって他者を攻撃したくなるかもしれない。

どこかで習った労働の義務は、本来の義務の意味合いとは違うのに憲法で義務という言葉を使っているから、かえってその言葉にとらわれてしまう。

「勤労」の意味合い

前述では「労働の義務」と記載したが、実際の憲法の条文では、労働ではなく「勤労の義務」とある。「勤労」は賃金をもらって一定の仕事をするという意味合いが強く、勤労の義務を果たしている正しい姿が、雇われて働くサラリーマンとなっているのだと思った。

だから、サラリーマンのレールから外れるのは意識下で「国民の義務を果たしている人」から外れる怖さがあるのかもしれない。

また、国家が定めた「勤労者」のイメージは週5日フルタイム働く雇われ人なので、週3日以上休んでいるとこれもまた、勤労の義務を胸をはって果たしているとも言えなくなってしまう。

寿命が長くなってきた今、国家が定めた勤労者を一生死ぬまで続けるのは無理がある。人生が長くなればハプニングに遭遇する確率はあがるが、求められるあるべき姿は変わらない。

「労働=義務」で思考停止しない

「義務だから労働する、労働していない人はけしからん!」で思考停止すると自分を苦しめることになったり、誰かを傷つけてしまうかもしれない。

働くことは一生つきまとう大切な課題。働くことの解像度をもっとあげて、「義務だから」で自分や人を傷つける人が減れば、これこそ最大多数の最大幸福が大きくなるはずだ。



※三ツ星スラムで以前発表した「キリスト教から労働についてのヒントを学ぶ」の資料はこちら→https://note.com/kokoronotomo/n/n0be982b99d31

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