古い文書の信憑性

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以前、「町おこし事業」の参考に使っていた200年ほど前の「古文書」の情報がウソだったことを知り、関係者が困惑している、というニュースを読みました。

<嘘で作られた歴史で町おこし 200年前のフェイク「椿井文書 (つばいもんじょ)」に困惑する人たち>

https://news.yahoo.co.jp/articles/295047cdba2e492f0e0fd6967a659352d9a28d99?page=1



「古文書の内容がウソだった」というのは普通にありえる話です。
みなさんもウソをつくことがありますよね。
それと同じです。

「人間はプライベートではウソをつくが公の仕事ではウソをつかない」ということもありませんよね。
もしそうだったら仕事上の不正はなくなりますが、「データ改ざん」「虚偽報告」「論文の偽装」などは日常で、不正のニュースは日々読み切れないほど報道されています。

なんと言っても、あなたがウソをつくことがあるんですから、古文書にウソが書かれていることは充分にありえると考えるのが自然です。
範囲を広げてざっくり書けば、「古くからの宗教の教えに人生を捧げたり、アーユルベーダ、ヨガ、古式マッサージなどの古い書物などを信じないでください」ということです。

※このあたりの話は、過去の投稿を参考にしてください、古い書物の「信憑性・不確実性」について考えるヒントになります

古い経典は現在まで正確に伝わっているか


滋賀県湖南市菩提寺エリアは、「町おこし」という町の利益のために古文書を利用したと言えます。
そして歴史の研究家によって、古文書の内容がフェイクだとわかりました。


「本当のこと」がわかったんですからそれでいいはずが、ウソの古文書で町おこしをしてしまったことが、関係者の困惑を生んだわけです。
この困惑は、簡単に言えば、他人の看板(古文書)にぶら下がり、楽をして利益を得ようとしたことの「ツケ・リスク」と言えます。


古文書に頼らず、未来を見て、自分の力で、違う方法で町おこしをしていたらこんなことにはなりませんでした。


「古い文書」の信憑性について、みなさんはどう考えますか?

古い文書というと、マスターは「古事記」をイメージします。
古事記には「神が矛(ほこ)で海をかき混ぜたら島ができた」と書いてあるようですが、これはもちろんフィクションです。
古事記が書かれた当時は、一般の人は字を書くこともできず、学問を積んだ人でさえ現代人より語彙が少なく、「地殻変動」や「重力」という言葉も知りません。


島ができる仕組みは知られていませんでしたし、そもそも地球が丸いという概念もありませんでした(地球という言葉もなかったはずです)。


わからないことを神のせいにしていた時代の文書です。


書いた人には悪意はなかったとしても、本質が書かれている可能性は低いと思います。


余談ですが、マスターはこのニュースを読んで、以下のようなことが頭に浮かびました。

「人」を妄信するのは愛ではない、ということです。
たとえば有名人と一緒に仕事をすること・・・つまり、有名人という看板にぶら下がって(依存して)仕事をするということは、愛ではありません。
有名人が不正をして捕まれば、依存する形で一緒に仕事をしていたあなた、そしてあなたの関係者は困惑しますよね。

この困惑は、簡単に言えば、他人の看板にぶら下がり、楽をして利益を得ようとしたことの「ツケ・リスク」と言えます。
有名人に頼らず、自分の力で仕事をしていたら、困惑はないんです。


人は、自分の利益のためにフェイクニュースを流す動物です。
また、目先の苦痛から逃れるためにもフェイクニュースを流す動物です。
ウソをつかれたことに腹を立て、相手を責める人がいますが、人を責めて幸せなれる人なんかいませんよね。
マスターも昔、人を責めて「人を呪わば穴二つ」という言葉を実感したことがあります。
ですからウソをつかれたときに気付くべきことは、「自分も同じことをしてきた(している)。だからもう二度としない」と誓い、行動することです。
あなたがそれを実践できれば、あなたは人からウソをつかれても、なにも感じないどころか成長を続けることができます。

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