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宗教化するワクチン論争(7)軽々しく利他を口にする人たち

 利己と利他の関係は,最も基本的な倫理的課題であり,宗教的な課題でもあります。人間がいかに生きるべきかという,とても深遠な課題です。しかし,そのような重大な問題であることを全く考慮に入れず,新型コロナワクチンをめぐって利他を強調する主張や宣伝が,世界的に垂れ流されているのは,由々しき問題です

 たとえば,有名なところでは,8月くらいから,政府広報として元サッカー日本代表の内田篤人氏を起用して,「あなたとあなたの大切な人を守るためにも,ワクチン接種をご検討ください」と言わせています。もちろん,ワクチンに何もリスクがないのならば,誰でも大切な人のためにワクチンを接種するでしょう。

 しかし,そこにリスクが含まれているとすれば,この主張は,「あなたとあなたの大切な人を守るために,ワクチンのリスクを許容することをご検討ください」という意味になります。内田氏は,そこまで理解して,出演されているのでしょうか。ワクチンによるリスクと効果が年齢層によって非常に異なる現状がある以上,政府広報としてこのような広告を流すことは,任意接種の原則を逸脱するものとして厳しく批判されるべきです。

 「他人のために自分にとってのリスクを許容する」という精神を「利他」と誤解する単純な思考の人々が,同じような発言をメディアで次々発信して,この問題を一層増幅させています。先日この欄で取り上げた忽那賢志医師も,子どもへのワクチン接種を利他の点から進めるべきと堂々と述べています。しかし,他者のために,相手に対してリスクを許容せよというのは,自分も相手には他者の一人なので,利他的どころか,最も利己的な行為です。

 もしも,子どもたちが大人を守るために,自らリスクを引き受けてワクチンを打とうとするならば,大人たちは,自分のためにならないなら(コロナでは子どもはほとんど重症化しません),ワクチンを打つ必要はないと言わなければなりません。それこそが子どもを思う利他の精神です。

 したがって,「社会のために〇〇しましょう」ということを「利他」の名で語っている人たちは,他者を利用しようとしていることに気づかなければなりません。ところが,厄介なことに,この本末転倒した「利他」の考えを,本気で信じている素朴な善人が本当に多すぎます。本人には悪意はないのでしょうが,放っておくと,「地獄への道は善意で敷き詰められている」というヨーロッパの格言どおりの世界になってしまいます。

 利己と利他の関係は,生物の世界を見ればよく分かります。人間以外の動物にも利他的行為が幅広くみられることはよく知られていますが,しかし,それはすべて自己のためです。自己のためにならない利他は最終的には死を意味するので,生物はそのような選択は絶対にしません。生物の最終的な使命は自己の遺伝子を次の世代に残すことにあるので,どのような状況に置かれても,何とか生き延びることが最も重要な目的のはずです。しかし,その遺伝子は先の世代から受け継いだもので,自己のものというよりも,その種全体のものなのです。

 このように考えれば,利己に徹することが,結局は利他に通じることが,分かってきます。遺伝子という客観的な実体もそうなのですが,自我という主観的な対象も,自分自身で作り上げたのではなく,社会の中で生きていくうちに,多くの他人や自然との相互作用の中で出来上がってきたものなのです。日本を代表する哲学者西田幾多郎は,主著『善の研究』(岩波文庫)の中で,「いわゆる個人の特性という者はこの社会的意義なる基礎の上に現れ来る多様な変化にすぎない」と述べています。

 したがって,「利己」というときの「己」は,自分自身というよりも,自分の中にある社会的自我であり,それこそが社会の本質です。そこが分かれば,「利己」こそが「利他」に他ならないことが理解できるでしょう。「情けは人の為ならず」という格言は,本来はこのような意味です。自分という「他者」を大切にできなくて,どのようにして自分以外の他者を大切にできるでしょうか。その意味で,「利他」が大切などと平気で解く人たちは,それが分かってあえて利他を説く少数の真の悪人を除いて,本当に何も分かっていない素朴な人たちです。しかし,クリフォードの信念の倫理に従えば,その素朴さも実は悪なのです。

 西田幾多郎は,「個人の善ということは最も大切なるもので,凡て他の善の基礎となる」と述べています。これは西田の『善の研究』の結論と言ってもよいでしょう。単純に利他を説く素朴な善人に出会ったら,常に,この西田の言葉を思い出してください。


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