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ビキニパンツの「鬼」がいざなう歴史沼|蒐集、それは研究の始まり

「学問」や「研究」は大学や論文でだけ成立するものではないはず。何かを偏執的に集めている人は、その分野について他の人には見えないものを見ているに違いない。収集を超えて、ちょっと変わった「蒐集」癖を持つ方のお話から、研究の幅広いあり方やその楽しさを探る。

中心に大きく描かれるのは、鬼にも悪魔にも見えるキャラクター。主に天台宗のお寺で頒布される「元三大師のお札」には、家の出入り口などに貼ることで、魔除けの効果があるという。ありがたいものでありながら、どこか親しみを感じさせるデザイン。収集したくなる気持ちもなんとなく分かる。

今回お話を聞いた比企貴之さん(國學院大學研究開発推進機構 校史・学術資産研究センター 助教)も、最初は「絵柄の面白さに惹かれて、なんとなく集め始めた」。ところがその先で、とんでもない広がりと深さを持った世界を知ることになる。集めたからこそたどり着いた歴史の沼に、僕らも少しだけ足を踏み入れてみよう。

▼話を聞いた人
比企 貴之 (國學院大學研究開発推進機構助教)
1984年東京都生まれ。國學院大學大学院文学研究科博士課程後期単位取得退学。2019年、博士(歴史学)取得。歴史系教科書・書籍版元に就職後も研究を続け、現職に至る。専門分野は、日本中世史。神社史。

天台宗のアイコン「元三大師」とは

━━元三大師という名前は初めて聞きました。

元三大師とは、10世紀に実在した比叡山延暦寺のお坊さん・良源を指す呼び名です。

「大師」と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、比叡山延暦寺の伝教大師、あるいは高野山金剛峯寺の弘法大師でしょう。ここでいう「大師」は、高僧に対して天皇から贈られた尊称です。

一方、元三大師の「大師」はそれとは異なり、もっと後の時代になってから民衆によってつけられた愛称です。彼が亡くなった永観3年の正月三日にちなんで、「元三大師」と呼ばれるようになりました。

良源は生前、朝廷の要人らから大変な帰依を受け、政治的にも重要な役割を果たしていました。ですから亡くなったタイミングで、生前の功績に対して「慈恵」という諡号(しごう)も与えられています。

ただ、彼の存在はそれにとどまらず、亡くなった後も宗教的なアイコンとして残り続けていく。その中で広まっていったのがこのお札であり、元三大師という呼び名なんです。

━━お守りなのに悪魔のようにも見えますね。

私は最初に見たとき、松崎しげるがビキニパンツを履いて睨んでいるのかと思いました。

━━最初に見たのはいつ?

大学院生の頃です。研究室の戸棚にぺろっと1枚貼ってあったのを見た覚えがあります。ただ、それがなんなのかを突き詰めて調べたり、勉強したりはしませんでした。

━━いきなりハマったわけではないんですね。

そうですね。しばらく経ったある時、出先の寺院で再会することになりました。良源は延暦寺の高僧なので、各地の天台宗系の寺院で現在も頒布されています。

角、祖師、豆、鬼

これを見てください。安来節で有名な島根県の安来市にある、清水寺というお寺でいただいたものです。

お寺によってデザインは異なるのですが、先ほどお見せしたものと共通するパターンがあります。あぐらをかいて、左手を左膝に置き、右側の方を睨めつけるような姿勢をとっている。目はギョロリとしていて、角のようなものが生えている。これが基本的図様です。

━━ディティールは違いますが、要素は共通してますね。

このお札をひとまずスタンダードな「元三大師・角大師タイプ」と呼ぶことにします。元三大師は、角が生えていることから角大師と呼ばれることもあります。

しかし、この図様から外れるものもあります。これは比叡山の宝物館に残る、良源の坐像です。ぎょろっとした目で、数珠を繰るような姿をしていますが、これを直接的に図像にしたタイプもあります。

━━眉毛が異常に長い。

エクステ女子も裸足で逃げ出すような長い眉毛。実際の良源がそうだったと伝えられています。

こんな逸話があります。掃除中、ある童子が良源の御影のちょうど眉毛のあたりにゴミが付いていると思い、指でつまんだところ、気絶して倒れてしまう。実はこの御影は生前の良源による自筆のもので、手づから自分の眉毛を移植してあったというのです。つまり、とても霊験あらたかな遺髪を抜いてしまった。翻って、眉毛は良源の象徴的なパーツとして認知されていたようです。

こうした眉毛の長い姿を描いたお札を出している寺院もあります。これを「祖師タイプ」と呼びましょう。

ほかにもあります。これを見てください。豆粒のように見えますが、よくよく見ると、これら一つひとつが祖師姿の良源なんです。帽子のつばのように見えるのは眉毛で、全部で33体あります。

なぜ33か。延暦寺は観音信仰が有名ですが、観音さまは人間を救いに現世に降り立つ際、33の姿に変化すると言われます。その教えにまつわって良源が33体描かれています。

これは豆粒のように小さい良源なので「豆大師タイプ」といいます。

━━ははは、豆大師。

今笑われましたが、豆というのは、要するに「魔滅」に通じます。破魔を目的とするお札においては、信仰的に重要な意味が込められているんです。

そして最後にこれ。膝に手を置いて座り、睨め付けるという要素を踏襲してはいますが、正真正銘の鬼の姿です。これを「鬼大師タイプ」と呼んでいます。

━━なぜ鬼なんですか。単純に角からの連想?

これにもいくつかの伝説があります。

一つは、良源は見目麗しい、いわゆるイケメンだったとか。そのため祈祷の奉仕に宮中へ参じると、女官らの噂となった。それを鬱陶しがって、わざと鬼面を付けて参内したことにちなむという説。

もう一つは、元三大師のお札成立の由来譚ともいえるものです。巷で疫病が流行った頃、良源は人々を救うために祈祷を行いました。大きな鏡の前で一心に祈祷を行ったところ、鏡に写った良源の姿が、みるみるうちに鬼と化した。その姿を写し取った御札を作り、戸口などに貼って魔除けとするよう訓示した、という説もあります。

こういった伝説があって、鬼の姿としても描かれるようになりました。

━━なるほど。

というわけで、ひとくちに元三大師のお札と言っても、非常にバラエティに富んでいる。私もその面白さに惹かれて、なんとなく集め始めたんです。とはいえそこまで気張って集めるというわけではなく、出張で地方を訪れた際などに、時間が許せば天台系のお寺を回るようにしている、という程度ですが。

━━でも、確かにこれは集めたくなりますよ。

これだけシンボリックなデザインですからね。ストラップにして売っているお寺もあれば、コロナ禍にはこんなお札を取り扱い始めたお寺もありました。

━━アマビエだ!

まだコロナがどういう病気かも分からなかった2020年ごろに、宇都宮のお寺が売り出したもの。左にいるこの魚は黄ブナという、やはり地域の疫神信仰の中で描かれてきた図柄のようです。

これが何か、お前に分かるか?

━━ちなみに、全部で何枚持っているんですか?

いや、数としては大したことがないです。というのも、こういうお札は基本的に檀家さんへの頒布が前提で、必ずしも誰もが「ください」とお願いしてもらえるものではない。

それこそ正月の三が日にしか刷ってないというところもあります。「このお寺は良源を祀っているらしい」「今も刷っているらしい」とあたりがついたとしても、実際に入手するのはなかなか難しいこともあります。

━━結構苦労して集めたものなんですね。そんな中でも思い出深いものがありますか?

何より強烈な印象が残るのは、とある地方のお寺での体験です。なにせ、あんなに分かりやすく値踏みされるなんて思っていなかったから……。

━━値踏み?

あるとき学会で普段行くことのない地方を訪れることがあり、この機会に周辺の天台系の寺院を回ろうと思いました。良源を祀っていれば、必ず護符はあるだろう。今は刷っていなくても「昭和の頃に刷った残りがあるのであげますよ」などと善意で言ってくれるかもしれない。そんな期待を胸に、とある天台系のお寺を訪れました。

だだっ広いお寺でした。するとそこに、よれよれのタンクトップに股引を履いた、お世辞にも威厳があるとは言えないご老人が現れた。それがご住職だったんです。

失礼ながら「ちょっと怪しいお寺だな」と思いつつも、「こちらで良源さんを祀っていると聞きました。私は元三大師について調べている者です。よろしければお札をいただきたいのですが」と聞いてみた。するとご住職は「ちょっとおいで」と仰って宝物館に通してくれました。

そのお寺一番の自慢なんでしょうね。中に入ると、巨大な仏教曼荼羅が壁いっぱいに掲げられてありました。そして私を通すや否や、ご住職は「これが何か分かるか」と仰ったわけです。

━━なかなかの無茶振りですね。

要するに、値踏みをされたんですよ。どこの誰かも分からん小僧がふらっとやってきて、檀家にしか配っていない(のかは不明ですが)護符をくれなんてことを抜かす。「何か分かるか」という言外には「分かるまい」という本音が透けて見えました。

でも、本当にたまたまなのですが、私にはそれが何かが分かったんです。

奈良県に當麻寺(たいまでら)というお寺があり、そこには中将姫という女性にまつわる伝説があります。中将姫は蓮の糸でもって一晩で巨大な曼荼羅を織り上げたとされます。この観無量寿経浄土変相図と呼ばれる曼荼羅を一般に当麻曼荼羅と呼ぶわけです。そして、目の前にあったのは、まさにその模本、しかも極めて真新しいものでした。

私は以前、歴史系の書籍などを扱う出版社に勤めていたのですが、その頃に担当したある本の著者が「図版として当麻曼荼羅を掲載したい」と希望したことがありました。当麻寺に写真借用と掲載許可の一連の手続きをしたのは、他ならぬ私自身。どんな経験や知識が役に立つか分からないものです。

━━そんな偶然が。運命的ですね。

それで私は確信を持って「ご住職、これはまさか當麻曼荼羅ですか?」と大仰に驚いてみせた。お眼鏡にかなったのか、無事に元三大師のお札を頒けていただけました。

お札だけじゃない。おみくじの元祖

滋賀のタウン誌で特集を組まれるなど、密かな人気を集める元三大師

もともとは元三大師の見た目への関心から、私の収集は始まりました。ですが、集めていくうちになんとなく見えてきたことがあります。ここからは一歩踏み込んで、その辺りを話したいのですが、いいですか?

━━ぜひお願いします。

歴史上の実在した人物として、仏教僧侶・良源という人がいた。その人が亡くなった後、元三大師として信仰の対象になった。そうお話ししましたが、その信仰のあり方にも、大きく二通りあります。

一つは、天台僧としての良源の来歴を丹念に追っていく、直接的な祖師信仰。お坊さんの姿の像や護符を作るというのは、この方向性です。

もう一つは、そこから枝分かれする形で始まった、元三大師のアイコン化。除災招福の象徴として、別の形でも信仰の対象になっていく。鬼大師だったり豆大師だったりというのはこの系統でしょう。

良源に端を発する信仰は、基本的にこの二つの流れに与します。ですがもう一つ、現代の我々にとって非常に親近感のある文化にもなっています。

それがおみくじです。良源はおみくじの元祖とも呼ばれているんです。

たとえば、上野の寛永寺には開山堂というお堂があります。そこで引けるおみくじがこれです。

漢詩があり、読みがあり、解説文があり、それに関わる絵柄が描かれている。これがおみくじの元祖と言われる、“元三大師御籤”の基本的なパターンになっています。

この文言は、近世に登場してからずっと変わりません。ですが絵柄のほうは面白いことに、江戸時代の元三大師御籤ではちょんまげを結っている。それが大正時代になると、書生風のマント姿に変わる。時代を経るごとに絵柄が変わっているんです。

━━元のメッセージは同じで、それをどう解釈するかが時代ごとに違うというわけでしょうか。

そういうことです。そしてさらに話を広げると、開山堂には「両大師」が祀られています。「両」はつまり二人の大師を意味しています。そしてこの大師のうちの一人こそ慈恵大師、すなわち良源。もう一人は南光坊天海として有名な慈眼大師です。

天海は徳川家康・秀忠・家光三代の黒衣の宰相になった、いろいろな伝説の付き纏う人物です。良源よりかなり後の時代の人物ですが、やはり延暦寺で修行をしました。そして良源をすごく尊崇していたとされます。

室町幕府が潰え、戦国争乱を経て、次の幕府が江戸にできる。政治拠点として江戸城が構えられるにあたり、大規模な都市整備が行われます。

天台宗としても、その教線を関東にまで拡大するためには、宗教的な拠点を設ける必要がある。そのプロジェクトをリードする人間として派遣されたのが天海です。上野の山の立地は平安京・比叡山、そして琵琶湖になぞらえられ、寛永寺境内の施設なども延暦寺を模倣して作られたとされています。

━━そうなんですか。

これは江戸時代の指図と現在の地図を比較したものです。東京国立博物館前の大きな噴水のあたりに、いくつものお堂がありますね。この建物配置は比叡山のプランニングをそのまま持ってきたものと言われています。

━━上野の山の開発は、天台宗が関東に教線を拡大していく上で非常に重要な拠点として位置付けられていた。だから宗教的なシンボルである良源が祀られている。とすると、このお札もそのプランを支える一つのパーツだった?

というところまで分かりやすくつながれば面白いし、そうであれば論文一本くらい書けると思うのですが。残念ながらそこは想像の世界であって、確たる証拠はありません。

元三大師信仰は、京都や近畿地方を中心に発展してきました。ですが、実際に集め始めてみると、隅田川の木母寺や川越の喜多院など、関東にも元三大師のお札を出しているところがちらほらあることが分かります。

天海以後、江戸時代になってからの教線拡大の中で、良源や元三大師が一つの重要なキーワードとして使われてきたという想像は、そう間違っていないように思います。

初めに集めることあり

ということで、元三大師に関する信仰というものは、歴史的にも文化的にも、非常に膨らみを持ったものであることが伝わったかと思います。

けれども私自身、当初からここまで調べ上げてやろうと思っていたわけではありません。なんとなく面白い絵柄だなということで集め始めていたら、結果として、想像以上に広がりのあるものとして立ち現れてきたということです。

━━そこでお聞きしたいのが、集めることと研究の関係性についてのお考えです。元三大師に限らず、比企先生の中で「集める」「蒐集する」という行為は、どういう意味を持っていると言えるでしょうか?

結局、集めてみないと何も分からないというところがあると思います。

今は手軽に何かを知ることができる時代です。たとえばあるテーマについて調べてみたいと思ったら、先行する研究論文をオンラインでサクッと見ることができる。それは大変ありがたいことです。

ですが、そうは言っても結局は、それを一回は手元にダウンロードすることになります。書き込みをしながら読み、インプットし、自分なりの言葉に咀嚼してアウトプットし直す。それが重要というのは、学問であるか否かに関わらない。何かに興味関心を持ったら、せざるを得ない行為だと思います。

私の専門は近代以前の神社の歴史です。中でも特に伊勢神宮を対象としており、そこから派生して、現在は新たに八幡さまのことについても調べ始めたところです。ですが、伊勢神宮そのものから離れて八幡さまについて調べようとすると、関連する古文書や古記録をまたゼロから集める必要がある。

結局、集めないと分析もできないし、考察もできません。ですから、初めに集めることあり。そういう位置付けなのかなとは思います。

執筆:鈴木陸夫/撮影:黒羽/編集:日向コイケ(Huuuu)

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