私の感想や考えを世界に晒して、何の意味があるのか

と、いつも思う。職場の雑談、居酒屋で偶然居合わせた人との会話、テレビの感想、そういう「あなたはどう思う?」を求められる場面で、私は思考が止まってしまう。

心の中で「この感想、伝えなくてもいいよね」とブレーキがかかってしまうと言うほうが適切かもしれない。私の思いを相手に伝えたところで、場の議論が進んだり話が弾んだりするようには思えないからだ。


私は人より頭が弱い。物覚えも悪く、情報の整理もままならない。職業柄、ノートは日々新しい取材のメモで埋まっていくが、後々読み返してみると、情報の繋がりがさっぱり分からないページだらけになっている。

自分の中で情報を整理できていなければ、それに対してどう思うかなんて分かるはずない。だから、私が抱く感想や意見には、人と違った新しい切り口や視点という物は、多くの場合存在しない。

それでも、どう思うか聞かれて「特にないです」と答えるのもはばかられる場面は出てくる。そういう時は、「相手はこういう意見が欲しいのかな」と忖度して答える。自分自身、自分の本心を認識していないのだから、本当にそう考えているかどうかはどうでも良いとさえ思う。

自分の気持ちを文章で表現することも得意じゃない。いざ書いてみると、語彙や表現力といった要素以前に中身がすっかすかだと気づいてしまう。まるで提出期限日の朝にやっつけた作文宿題みたいに、ありきたりな題材でありきたりな思いが記されただけのネットデブリが完成するだけだ。


「正論と一般論振りかざしたいなら、道徳の教科書でも作ってろよ」

以前、話のつまらなさにイラついた人からこう言われた。酷い暴言だと傷つく反面、「やっぱりそうだよね」と納得してしまう。私は、いつもお行儀良く、返答をそつなく「こなす」ことは得意だけれど、相手を楽しませたり、興味を持ってもらえるような会話をするのは絶望的に不得意だ。誰かを気遣う言葉ひとつでさえ、「お疲れです」「忙しそうですね」「ゆっくり休んでください」を雑に配分して吐き出すだけの私は、やっぱり人の心なんて持ち合わせていないのかもしれない。

表現できる人は、羨ましい。自分もそうあれるように、感想や意見を公にする場数を増やそうはしている。でも、言ったところで聞いた人に「つまらない」と失望させるくらいなら、言わないでいたいと、いつも思う。相手の幸福度がマイナスになるくらいなら、現状を維持したい。無益な時間を過ごしたと思わせ、がっかりさせるのは嫌だ。

息を吸うように、自然に言葉を紡ぐ人がいる。テイストの違う面白い記事を、いくつも届けられる人がいる。そういう、ライター・編集者・記者といった人たちの中で、私は自分の職業を名乗ることに気後れし続けている。人の気持ちを掬い上げて文字にしたい思いは確かにあるのに、伝えることそのものに対する熱量が、おそろしく低い。この差がもたらす違和感を、まだ、直視できそうにない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?